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私は、————そろそろ部屋に戻りましょう————と言い掛けて、彼の英雄が遙か北東の山林を臨んでいることに気付きました。
詳細を知りませんが、北東の方角には、魔法使い、あるいは森の流民と呼ばれる人々の隠れ里があるといいます。王国に魔法と知識をもたらした変わり者達が住まい、彼の英雄の弟子である騎士の故郷でもある。かつて彼の英雄はその地で修行をしていました————そして、結界術師としては、その地こそが人の理が及ぶ最果ての地である————と直感しました。その森とその里は、人と自然を分断する結界の役割を担っている。森の先へ行けば人のルールは通用しない。王女様の王権さえも及ばない。王権は人の作り上げた複雑な法と権威というシステムの中でのみ、極めて強力な意味を持つ。自然に対して王の権威だ、法だ、罪だ、罰だ、利益だ、損失だといくら主張したところで、ドラゴンが全てを吹き飛ばせば何も残りはしない。私のインチキ魔法についても同様で、意識ある存在や、複雑なシステムから、私にとって最適な結果を引き出すことは出来ても、そもそも指向性のない無意識の集合たる自然に効力は発揮しないし、論理だの理屈どうこうで、本当の神秘にお帰り願うことが出来る訳では無い。
しかし、彼の英雄の剣と魔法は、自然災害と戦う力があるし、ドラゴンを相手取っても決して引けをとらなかった。私と違い、本物の魔法を使用できるが故の芸当。そういう意味では、私の魔法は子供だましに過ぎないし、魔法使いとしては邪道で贋作だ。時々魔法使いを名乗ることが 烏滸がましいと思うことさえある。
「今回の旅では機会が訪れませんでしたが、時が許せば、其女も森に辿り着きます。あの森は全ての魔法使いの故郷にして、最後の場所ですから」
と彼の英雄は小さな声で呟きます。
「あまり期待せずに、気長に待ちます。そもそも私は魔法使いにとって歓迎されざる存在ですから」
私はかつて私と同じ存在が犯した重大な犯罪を思い出しながら答える。
魔女狩り————魔法使いや森の流民、旅人を無差別に殺戮した一連の事件。帝国の思惑や人でなしの性質が利用され、多くの被害者を出した卑劣な組織犯罪。
特に、魔法使い、特に女性の魔法使いに対する犯罪の実態は目を覆いたくなるものでした。
彼の英雄はその点について、特段何も答えず、ただ憂いを帯びた瞳で私を見上げました。
「そろそろ日も落ちましたし、部屋に戻りましょう」
私は彼の英雄の手を取り、帰りを促す。
「そうですね。しかし其女もこれだけは目に焼き付けて下さい。きっとこの場所でしか見られないものです」
彼の英雄はすっと私の手を引き、テラスの床に寝そべりました。釣られて私もテラスの床に倒れ込みました。大理石の温度が私の体を冷やしましたが、そんな些細なことは次の瞬間に頭から吹き飛びました。
絶景。
「このテラスから見上げる空が、この世界のどこから見る空よりも最も美しいと感じます。空を遮るものはほとんど何もありませんし、空気だって澄んでいる。まるで星空の中に其方と私だけが浮かんでいる気さえします。今ならば、星にだって手が届くかも知れない」
彼の英雄は星空に左手を伸ばしていく。その左手は、人の血で穢れていない、純白の手でした。彼の英雄の左手が星空に伸びていくにつれ、彼の英雄自身が星空に堕ちていく————
そんな幻が見えました。
私は耐えられなくなり、彼の英雄の右手を思わず強く握り返してしまいました。
彼の英雄は、どうしたのですか、と尋ねましたが、私は、
「寒くなりましたので、部屋に戻り、貴女の治療を始めましょう」
と申し上げていました。
私だって何の先入観もなしに、一人でこの空を眺めれば、きっと手を伸ばしていた事でしょう。何日もこの来賓室に閉じこもり、誰にも邪魔されずに役に立たない夢想に耽っていたかも知れない。でも私は、この来賓室が呪われている理由を知っていました。というより、初めてこの来賓室を検分した時に全てを察してしまったのでした。その考察を今すぐ全て彼の英雄に洗いざらい話してしまいたい衝動に駆られましたが、それは出来ませんでした。彼の英雄が未だ景色に感動するという機能を残していること自体が、奇蹟的な状況で、それを台無しにしたくは無かったのです。彼の英雄の幻想を否定することは、彼の英雄の治療において何ら益はなく、負の効果しかない。
しかも私はその呪いを利用して彼の英雄を傷つけようとしている。
だがしかし、それでも私は、星空に堕ちていく彼の英雄に、とても嫌な気分にさせられたのです。私は彼の英雄に部屋に戻るように促しました。彼の英雄は不思議そうに首を傾げましたが、最終的には、私の言葉に従ってくれました。
「どうしてでしょうね————」
彼の英雄は小さな声で呟く。
「この部屋は眺望も美しいし、魔力の流れが王宮の中でも良い場所です。なのに————」
————どうして呪われているのでしょうか————
私はその言葉を聞こえなかったふりをして先に応接間に戻りました。
「————だから貴女はどうしようもなく壊れているんです」
と私は彼の英雄に聞こえないように毒づいていました。