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「それで、聖処女にはどう対処しますか?」
と、彼の英雄が尋ねる。
「見つけたからには彼の英雄に統合していきます。大体今回の治療の主題は彼の英雄の魔術式の木の回復と、道の修復なのですから、聖処女人格が妨害してくるのなら、対処せざるを得ません。大体、聖処女人格を残しておくと、後々重大な矛盾を招く可能性が高いですし、世界を破壊しかねないほどのカナシミを放出しかねない。そのことは認識しているのでしょう」
と、私は指摘する。彼の英雄は、解っています、と答えましたが、
「しかし私は彼女に敗北しかけました。その理由が分からないと、同じことの二の舞になります。あれは何故、あのような感情の炉心を持つに至っているのですか」
と、彼の英雄が尋ねる。私は、
「統合人格彼の英雄が論理性の権化で意識そのものだとしたら、聖処女は本来、意識により制御される無意識に属する存在です。人が持つ当然の欲求、食欲、性欲、睡眠欲、安全欲求、社会的成功欲求、愛情欲求、名誉欲、承認欲求、自己実現欲求等々。普通の人間はこういう欲求に支配されていて、時々無意識から、意識上に浮上して、非合理的な判断をさせてしまう。時としては社会的に望ましくない欲求もあるから、そういう欲望については、意識に浮上しても、通常は理性がコントロールする。普通の人間なら欲求や情動が理性を凌駕することはざらにあるし、そういう軽微な問題は根治できない。例えば軽微な窃盗、迷惑行為、遅刻、痴情のもつれ等々。けれども、それは通常、一時的なもので、すぐに理性がコントロールを取り戻す。仮にそうでなければこの世界は闇に覆われます。もし欲が恒常的に理性によって制御されていなければ、睡眠欲のために、四六時中寝て過ごし、食欲のために食品の強奪は当たり前になり、男は気に入った女を見つける度に犯さないと欲求が満たされない。そんな世界では、社会秩序なんて求められない。発展なんてもっての他。混沌と衰退しかない」
「貴女は私に対してだけは、性欲を抑えていないように思います。その所為で聖処女が暴走したのでしょう」
と、彼の英雄が非難するが、
「これでも相当抑えています。抑えていなかったら、もうとうの昔に貴女の純潔を貰ってます。それに見境無いわけじゃなくて貴女限定です」
「もう少し頑張ってくれませんか」
「善処します」
と私は、日頃の行いに目を瞑りながら、答える。
(人間なんて愛故に非合理的な選択をする生き物だし、それが種としての繁栄を招いた。きっと私もその例に漏れないし、それを粉飾するつもりもないだけなのですけどね。)
法がなく男が女を自由に犯しても良い世界で、女に堕胎する自由さえ無ければ、少なくとも女を襲う能力の高い個体の子孫だけは増える可能性がある。例えば美形で、一見して人畜無害。一方で子育てに無責任。浮気性。筋肉質。言葉巧み。責任回避が上手。これら人でなしの遺伝的特徴が現在まで存在するのは、女を性欲を満たす道具としてしか捉えず、子供を養育せず、次の女に手を出すことで、短期的には自身の子孫を増やす戦略として有効だったから。人の数の数を爆発的に増やし、この世界に人を拡げる一助になったことは疑いようもない。そして人でなしの遺伝は私にも色濃く表れている。私の血の半分はその純然たる人でなしの血だ。けれども、今、この世界において、その資質は求められていない。見ず知らずの他者が突然自身の命を奪わないという相互社会契約と共に、見ず知らずの男が女を突然犯して子供を産ませないという相互社会契約が有効なこの世界において、人でなしの血が衰退していくのは必然。この世界における社会というサブシステムが、無視できないほどに強力な影響を持つこの世界において、人でなしはとっくに適応できていない。この世界は長期的に相互に信頼できる他者と細々と暮らすことが正しいというパラダイムに生きている。誰かを出し抜いて自分だけ利益を得ることが悪とされ、仮に利益を得たのなら、それを社会に還元することが正義とされる世界において、人でなしの存在意義はほとんど喪われた。いずれ、完全に淘汰され人の因子の一つとして残るのみだろう。
(最も、私が彼の英雄を犯しても何も生みませんけど。)
と、自嘲する。基本的に女として事に全く不満はないけれど、殊彼の英雄と恋人と為る文脈であれば、自身が男だった方が都合が良かったとも思いました。そうすればもう少しお手軽に乱暴することも可能でしたし。
(でも、彼の英雄は不妊症のオンパレードでしたね。犯しても子供は出来ない。結局何も生まない。)
と、下らない思考に耽り、考えても仕方のない事に気付いて、再度治療に集中する。
「では魔法使いの場合はどう為るのですか」
と、彼の英雄が質問する。この質問は以前にも表層でも彼の英雄に持論を展開したことがある。
「魔法使いの場合は、普通の人が欲求で混沌としている無意識領域の一部が魔術式として機能しています。欲望や感情、理性の思考パターンが一定の強度で維持されたものが、道。道が集まる末端が木。それら両方を合わせて魔術式と言います。木が正常に機能する場合は、道に流れる魔力量が自動的に調節されます。そして普通の人も魔法使いもいくつかの人格が存在する。プライベートとパブリックで少なくとも人は変わるし、魔法使いもその例に漏れない。貴女が私に接する時と、貴女の弟子に接する時に全く別のプロトコルを使うのと同じです。そして、厳密には魔法使いはその人格毎に思考パターンが異なります。それ故に、魔力の出力も異なります。貴女が普通の夜盗を鎧袖一触する時に使用できる魔力と、世界のカナシミたる悪を殺す時に出力できる魔力は質量ともに全然異なる。一方でそれをどこか俯瞰している統合人格というものもあって、それが彼の英雄と言う人を統括している。そして統合人格に他の人格をより高度に統合していく毎に、同時に使用できる魔術式が多く為れば為る程、同時に使用できる魔術式が増加し、高度な魔法を身体と精神の負荷少なく為ります。おそらくですが、森に引きこもっている魔法使いは、社会と葛藤しないために人格を分離する必要がない。それ故に強力な魔術式を使用できる。一方で道は人、自然、社会、理論との葛藤によって活性化される傾向がありますから、魔法使いとして成長するためには限界があるのでしょう。貴女は旅を続けたから森に引きこもっている魔法使いよりも道の生成が高速かつ強力でした。一方で貴女の場合は、人格の一つ一つが通常の魔法使いに匹敵する程強力な術式を有していますし、無意識の内で分離していまいました。しかもそれは単体で意味ある魔法を発動可能な複雑性を持ち、かつ、魔力源として炉心に相当する木も有している事が多かった。聖処女という人格は身体こそ存在しないものの、統合人格たる彼の英雄を内側から殺しかねないほどの存在になりかねない。魔術式も強力ですし、精神の強度も尋常ではない。彼の英雄という全体の精神において、最強の魔物と言い換えても良いかも知れません。しかも今は一時的に統合人格たる貴女からのコントロールも利かない。それでも、貴女という統合人格たる彼の英雄の論理性なら、十分に欲求や情動をコントロールできると判断したから、こういう治療戦略を採ったのです。私は他者の人格を攻撃して無理矢理他の人格の統制に置く治療はしませんし、最終的には、貴女自身が聖処女をどうにかするしかありません。問題は貴女の内に存在する最高の論理性が負けそうに為っているから、大変なことに為っているのですけど」
と、私は彼の英雄に皮肉を言う。
「私もまだまだ修行不足ということですか」
と、統合人格たる彼の英雄が仰る。
「お互い修行不足のようですね」
「世界を救済したのに情けないこと上ない」
と統合人格たる彼の英雄がうなだれるが、
「世界の救済の方が簡単でしたよ。敵が明確で形がある分。容易に殴れるし壊せました」
と、私は軽口を叩く。聖処女の精神世界に充満するカナシミは、この世界の汚濁よりも質が悪い。何しろ掃除することも誰かに協力を仰いで取り除いてもらうことも出来ないのだから。
「ですが、ここから先は、私の問題です。貴女をこれ以上危険に晒す必要はありません。だから、」
「だから、精神潜航を中止しろ言いたいのですか?先ほども申し上げましたが、万が一貴女が聖処女に敗北して、聖処女の人格が統合人格になった日には、私間違いなく死にますよ。大体、聖処女は私を殺した位で止まるんですか? あの精神世界が抱えるカナシミの量でしたら、国家一つくらい滅ぼすのは容易いし、恋愛に関する全てを憎悪していますから、男性か女性のどちらかを殲滅する位のことはやりかねません。そうなれば人類全てを最終的に滅ぼすことにも繋がる。最強の英雄が、人類史至上最悪の魔物を生み出しかねない状況です。今、精神潜航を中止することは却って私の死期を早めることに繋がりますし、世界にカナシミを拡散するリスクを放置することに為る。聖処女は彼の英雄が倒す必要がありますが、対抗策のない貴女の力だけでは倒せません」
と、私は彼の英雄の言葉を遮り、断言する。彼の英雄は暫く黙考し、
「・・・・・・分かりました。精神潜航中の身の安全は統合人格たる彼の英雄と魔法使いの名の下に守護します」
と、答えました。
「ですが、聖処女は私の統制を受けるつもりは無さそうです。むしろ私が屈服しかけた程の強さを持っています。きっと聖処女は、私に世界を守るという使命を与えた存在です。私では情熱が足りないのでしょう。それに私の生存欲求を理由としたか、それとも他の要因により、魔物と化している。しかし、私は負けるつもりはありません。勝つための方策を検討しましょう」
と、統合人格たる彼の英雄が宣言し、私と、魔法使いの人格は静かに頷く。
(いつもの彼の英雄ね。そんな貴女も大好きですけどね。)
と私は内心ほくそ笑む。