面影の光
本来の目的を思い出し、マブタは歯噛みする。 これでは奇襲は不可能だ。 マブタの戦力では、彼らには敵わない。
影もそれを悟ったのだろう。 踵を返すと、影は森の暗がりの中へと溶けていった。
待ってください、そう叫んだマブタの声が届く相手ではない。
ゴブリンたちの醜い輪唱が盛り上がっていく。 巣穴から、一匹、また一匹と緑の小鬼が姿を現した。 彼らは手に持ったお粗末な武器をマブタに向けるかと思ったが、見張りは手に持った得物を放り投げ、中から出てきたゴブリンたちはそもそも得物を持っていなかった。
マブタの背筋が凍る。 そこで彼は、自分が“運の悪いゴブリン退治に巡り合ってしまった”ことに気付いたのだ。 しかも、たった一人で。
ゴブリンたちが雄叫びを上げ続ける。 森の暗がりが、それに応えた。 森の地面に落ちた影たちが、もぞもぞと動いてゴブリンたちの元へとすり寄っていく。 地面を魂のように大きな影が蠢く不気味な光景に、マブタは後ずさる。 影はゴブリンたちの小さな影に吸い込まれていき、次いで蝕むようにゴブリンたちの身体を這い上がる。
影はやがて奥行きを持ち、盛り上がり、小鬼たちの上半身で膨らんでいく。 闇夜のような黒は光沢を生み、角張り、漆黒の鎧へと。 銀色に煌めく反りかえった小刀に。 固まった血で濡れたような黒い小槌へ。 最も野蛮で醜い種族と忌み嫌われる彼らが纏うにはあまりに美しい装備たち。 いや、醜いからこそ、闇の至高神はその御手を彼らに伸ばしたのか。
――やはり神装を使えるのか……!
ゴブリン退治がときに至難を極める理由が目の前にある。 冒険者の小手調べに斡旋されることの多いゴブリン退治。 元々初陣の冒険者が命を落とすことも多いゴブリン退治だが、運悪く神装を使えるゴブリンの群れにぶつかれば、中堅どころの一党でも差し違えるなんてことも頻繁にある。 エセリアはたった一人でマブタと攫われた人間を守りながら立ち回るなんて芸当も出来ていたが、世の中あんな規格外の冒険者ばかりではない。
ゴブリンたちが一斉に雄叫びを上げる。 声だけの衝撃に石畳と土が跳ね上がり、吹き飛ばされた石の塊が顔を庇った腕を殴りつける。 怯んだマブタの元にゴブリンたちが一斉に疾駆する。 そのスピードは並の動体視力で追うのは無理だ。 内一匹が虚空を小刀で薙ぎ払うと、黒色の風がいくつもの刃となってマブタ目掛けて撃ち放たれた。 横合いに飛びだして風をいなしたが、次の刹那には元居た場所は荒ぶる風の爆心地に成り果てる。
ゴブリンたちのノイズが思考を濁す。 顔を上げたマブタの眼前に、跳躍した一匹の小鬼の振り下ろした小槌が鈍い輝きを見せた。
頭蓋に低く鈍い衝撃が響く。 自分の身体が地面にたたき伏せられるのを遠くに感じた。
手を動かし、上半身に飛び乗ってきた緑の体躯を振り払おうとするが、実際に出来たのは顔を覆って死を先延ばしにしようとすることだけ。 神装を纏ったゴブリンならいたぶられることもなく一撃で絶命してしまうだろうか。
そんなことを考えていると、腕の隙間から見えた朧げな狭い視界が、さらに遠のいていった。
…………いや、遠のいていない。
止めを刺そうとしたゴブリンの背後から、別の何かがのしかかって影を差しているだけだ。 真上のゴブリンが呻き、周りの殺気が少し遠のく。 唾がマブタの腕に飛び散る。 呻きは、やがて詰まった絶叫へ。 マブタの上からゴブリンが飛び退き、その隙にマブタは転がるようにうつ伏せへ、そのまま這いながら体を起こした。 血の滲む瞳を擦りながら、背後の絶叫を上げるゴブリンを振り返った。 周りの仲間は後ずさって狼狽している。 彼らの知性の及ばないことが起きている。
マブタにとってもそうだった。
先ほどは彼らに神装を授けたはずの影が、盛り上がり、膨らみ、人型の影になってゴブリンの首をその太い指で締め付けている。 ゴブリンは体を振り回しながら悶えるが、伸びきった黄色い爪も、影をすり抜けるだけ。 呼吸を封じられ、舌骨をへし折られ、泡を吹き始めると、影はしぼみ、何ごともなかったように殺した小鬼の足元へと溶けていく。
神装が光の粒子と消え、ゴブリンたちは未曽有の事態に動くことが出来ない。
今度は、空が割れた。 実際はマブタの目の前、地面から数メートル上の空間に、黒い線が入ったのだ。 一筋の黒い光は、袋を開くか如く広がりを見せた。 中から覗く深淵の暗闇から、細い足が見えたと思いきや、一人の少女の身体が暗闇を通り抜けて静かに顕現する。
銀色の髪は、闇の勢力を思わせるため不吉とされる風潮がある。 しかし、降り立った少女の背中でたなびくウェーブがかった御髪は、そんな偏見に塗れた人間であっても最大級の賛辞を捻り出そうとするだろう。 彼女を覆う白の光は、しかし、殺戮の前触れ。
「マブタさん、お怪我は」
いつものように取り乱す様子はない。 彼女の頭の中で戦の準備が着々と整っていく。
「仕事が終わったので、様子を見に来ました。 心配でしたから」
魔法の中で最高難度とされる、長距離の転送術。 それを易々と遂行したサンティは、ゴブリンの死体を見下ろし、成功した、と心の中で笑みを零した。
「皆さん、もう自分の依頼は済ませたみたいですよ」
右手の人差し指と親指を合わせ手を翳す。 解くように、その手を真横にズラした。
「『さあ、おいで』」
呪文が、さらに四つの入り口を生成する。 上空に現れた四つの黒い裂け目から、四人の男女が静かに、降り立った。 圧倒的な威圧感に、小鬼の群れが立ちすくむ。 多くの冒険者を食い物にし、凌辱してきた彼らだからこそ、目の前の冒険者たちの異常さが肌に染みたのだろう。 マブタすら、本能的に彼らを恐れていた。
「ゴブリン相手に生身で立ち向かって返り討ちじゃ、笑えねぇぞ」
スズリがマブタを振り返って笑う。 その口が悪辣に見えたのは、何故だろうか。
多分、“彼の黒髪が銀色に染まっていく”のを目の当たりにしたからだろう。
優し気な緑の双眸は赤に、色が落ちていくように変化していく。 右の頬には、龍が這いまわっているような紋様が浮かび上がっていた。
周囲が暗くなったような錯覚すら覚える。 冷え込んでいく空気に、魔王の風格を感じてしまう。 この大地で最強の竜族の双璧、神の施しを必要としない煌魔族。 これが、スズリの本当の姿――。
「そう言うな。 未熟者は幾度となく世界とぶつかり、やがて己の形を知るものだ」
双璧の一角、竜族の巫女が隣の魔王の血を受け継ぐものに全く物怖じせずにため息を吐く。 銀色の目は、態勢を整えて歯向かおうとするゴブリンたちなど眼中にないらしく、いつものように遠くを見据えていた。 レッパの周囲で、どこからか生まれた火花が風に乗って舞い始める。 冷気に晒されたと思いきや、今度は強烈な熱がマブタの顔を刺した。
「その前に死んだら意味ないけどね~。 『神装を、この手に』!」
軽口を叩く褐色のエルフが、神からの祝福を仰ぐ。 その求めに応じ、森がさざめいた。
可視の風が意思を持ち、フタバの周りを渦巻き、身体を撫ぜる。 露出が多いのは変わらず、簡素な布が最上級のふわりとした新緑の生地に組み替えられていく。
瞬間、フタバの神衣が突然発火した。 それは刹那のことで、炎は一瞬にして消え去ったが、燃え跡に残されていたのは、深紅に塗り替えられた神衣。
エルフであろうと、ダークエルフであろうと、森と共に生き、火を嫌う彼らには、絶対に与えられることがない、炎の神装だった。
「『神装をこの手に』」
二つの金色の尾が風に揺れる。 直後、空が雄叫びを上げた。 青い雷光が視界を奪ったかと思いきや、一条の閃光がルイの目の前に突き刺さった。 あまりの轟音に、マブタは両耳を覆う。 雷が落ちた場所には、天上から投げ落とされた一振りの剣が突き刺さっていた。 漆黒の刀身の真ん中に、明滅する青い筋が通っている。 ルイが力強く剣を握り締めると、そこからルイの身体へと変化が伝播していく。 黒を基調にした気高い軍服へと服が塗り替わり、髪留めさえも青の蝶をモチーフにした高貴な装飾へと変化していた。
ズボンから覗く太腿を見て、いつものように下世話な感情に思考を流される余裕すら、相対する小鬼たちは持ち合わせていない。
王族でありながら、光ではなく雷の神装を駆る少女の身体から、青い稲妻が漏れる。
情ないわね、とルイはマブタに背中で語る。 ゴブリンたちは、立ち向かうことを選択したようだった。 彼らも神装を駆るもの。 土俵は同じと判断したのだろう。 数も彼らの方が圧倒的だ。 巣穴からはまだ仲間が姿を現している。
「虫けらどもが……」
しかし、マブタからしてみれば、それは全くの見当違いだった。
「――殺してやる」
ゴブリンたちが陣形を整える中、ルイが吐き捨てるように言った。
それが開戦の言葉。 熱風が肺に入り込んだと思いきや、フタバの姿が掻き消えていた。
次に彼女の姿を捉えたのは、彼女が群れのど真ん中に肉薄を終えたときだった。 腰を前に倒し、小鬼の首根っこを左手でひっとらえると、そのまま地面に押さえつける。 彼らの仲間がフォローに入る間もなかった。 フタバの振り上げた右手が、間髪入れず小鬼の顔面にたたき込まれる。 マブタは目を反らすが、耳をつんざく爆音がその残忍な結果を響き渡らせた。
爆心地で立ち上る炎。 瞬息の斬り込みに、築き上げようとした陣形は早くも崩壊を見せる。 我に返った一匹が背後から立ち上がったフタバに飛び掛かる。 手に持った小刀に、漆黒の粒子が纏わりつく。 当たればそれなりの痛手を期待できる攻撃も、しかし、振り返りざまにフタバが放った回し蹴りが頭蓋を横から叩き潰したせいで水泡に帰してしまう。
燃え広がる炎に怒りを煽られて小鬼が絶叫を上げた。 残ったゴブリンたちはエルフの少女を最も危惧すべき敵と捉え、一斉に動き出す。
ほとんどが飛び掛かる直前や途中で派手に命を散らし、攻撃を終える動作まで辿り着けた兵たちも、自分の攻撃が虚しく消えるのを見送りながら、消し炭に還る。 彼女の一撃は、慈悲だ容赦だ、それら偽善を吐いている暇もないほどに完全で、圧倒的だった。
痛恨の一撃が深紅の爆発を巻き起こし、その中心にいた小鬼は文字通り消し飛んでいる。
爆発の余波すら相当なエネルギーを放っている。 神装で強化されたゴブリンたちはそれを受け止めながら勇んで突っ込むが、爆炎の中で新たな深紅の風を巻き起こすだけ。
と思いきや、フタバの姿は離れたところから漆黒のエネルギーを奔らせようとしていた小鬼の懐に現れていた。 彼が恐怖の表情を浮かべるよりも早く、空の彼方から降り注ぐ隕石の如き一撃が真上から命を粉砕する。
歴史に名を残すエルフは、誰もが同じように語られる。 風の神装を纏い、息吹の如き健脚で戦場を駆け、森に流れる川の如き清らかな瞳で敵を捉え、繊細な指から放たれた一閃が悪を払う、とか。 そんな清らかで流暢な語り口とは、対極の立ち回りだった。
長ける場所を伸ばすのが最も効率的な最強への道、偉大な森人たちも例に漏れない。
エルフならば、その優れた動体視力や瞬発力と親和性の高い弓を使うのが一般的だ。
だがフタバは、鍛えに鍛えただろう圧倒的な膂力で、小鬼たちを粉砕する。
あんな凄絶な肉体の駆動を、マブタは王宮で開かれた戦士たちの祭典でも見たことがなかった。 極限まで昇華された純然たる肉体のしたたかさ。 何が彼女をそこまでさせる。
フタバの一撃は、あまりにも速く、重い。 その一点に集中する力を広範囲に広げるだけで、小鬼の群れ一つ吹き飛ばせると思うくらいには。 それをしない理由は、すぐに分かった。
炎と煙の間から、フタバの口角が不敵に吊り上がっているのが見えた。 笑っている。
楽しんでいるのではない。 彼女は、“一殺を噛み締めていた”。
彼女一人でこの群れが全滅するのは時間の問題だった。 マブタたちに小鬼が襲い掛かる余裕がない。
「何をする気ですか!?」
「何って? 加勢に決まってるだろ」
それなのに今度はスズリが動いた。 混沌を極める群れに歩みながら、胸の前で片手を開き、地面に手のひらを向ける。 彼の足元から、黒い霧が広がっていく。 靄に黒をまぶした黒い霧は広がりを見せると共に、周囲の空気を熱していく。 さながら混沌を焼いて立ち昇る黒煙だった。
その中に燻ぶる赤い炎が見えたと思った途端、俄かに大量の炎が黒煙の中から上空に吐き出される。
炎は二つに纏まり、魔人の手のひらに似てゆらりと動くと、その両手でそれぞれ一匹のゴブリンに掴みかかった。
爪で、小刀で、持てる限りの力で抵抗するが焼き切れる鎧と体の崩壊は止まらない。
骨や肉が砕けるような不愉快な音と断末魔に顔をしかめる間に、炎の両手が煙の中へと還っていく。 緑色の血を蒸気へと気化させながら。 木片、砂利、小鬼たちの血の雨の中を歩くスズリの手中に、また闇の煙が顕現する。
黒煙は不気味に蠢きながら、細長く伸び、槍の形を創り上げる。 スズリに向けて怒号を上げた緑の小物に、彼は迷いなく 飾りつけも彩りもない、ただ黒一色の槍を構えた。 左足が地面を強く擦り、槍が惜しげなく投擲される。 漆黒の軌道は、吠え猛る小鬼の口の中を難なく貫通して絶命させると、英雄の剣を思わせる佇まいで地面に突き刺さる。
小鬼の体が焼ける。 内側から黒々と溶けだし、最早見る影もない。
スズリの両手に、それぞれ槍が顕現した。
「なんだ、これ……」
こんなのは、冒険者の戦い方じゃない。 これは退治でも駆除でもない。
必要以上の暴力だ。
もはや、瓦解する群れの中で戦闘の意志があるものの方が少ない。
「甘えたことは言わないわよね。 こいつらは、一匹でも残したらまた繁殖するわよ。 人間やエルフを苗床にしてね」
ルイが咎めるが、そんなことは分かっている。 エセリアとて、ゴブリン相手には容赦はなかった。 だが彼女は、決して、砂の城を崩すのに大砲を用いたりはしなかった。
「サンティ、逃がさないで。 一匹も」「もちろん」
サンティが低い声で応える。 右目を閉じ、握った左手の中から親指と人差し指だけを立てる。 足の底が擦れる音が聞えた。
「『何処へ?』」
何の気なしに呟いた言葉が、形を成して彼らに襲い掛かる。 遠方で逃亡を図った彼らの足元から飛び出した木の根が、後ろから首に巻きついたのだ。 木の根はするすると地面に収納されていき、彼らは成すすべなく仰向けに倒れ、首元に絡みつく木の根に爪を立てる。 剣を突き立てても怯むことなく恍惚と小鬼の舌骨をへし折ると、木の根は解けて地面の中へと消えていく。
魔法使い、戦闘においてかなり厄介な後衛だ、特にこんな状況では。 彼らが生き延びる術がことごとく削られていく。 最早サンティが死なねば彼らに逃亡は不可能だ。
彼女を殺して、他の冒険者たちから逃げ切る。 それ以外に生存の道はない。
ゴブリンたちは未だ大群。 物量で押して後方まで届けば近接戦闘で魔法使いは倒せるかもしれない。 詠唱に時間のかかる魔法使いを、彼らは近接戦闘で散々嬲り者にしてきたのだろう。 もっとも、それは魔法使い側が常識の範囲内の存在であればこそ。
サンティが地面を蹴って肉薄をした時点で、彼らの一つになりかけた心が、また揺れる。
そのスピードは、フタバにはやや劣るが、常人が追えるスピードではなかった。
サンティの膝が、ゴブリンの頭部を湾曲させて吹き飛ばす。 スピードもさることながら、その膂力は神装の兜を易々と砕くほどだった。
振り返りざまにかざした掌から、数多の鋭利な氷柱が射出され、多くのゴブリンが貫かれて即死する。 サンティはフタバと目を合わせると、戦場に似合わない可憐な笑みを浮かべ、戦場に似合わないワンピースを揺らし、それからまた肉体を以って小鬼を駆逐した。
こんな魔法使いがいるのか。 後衛に位置し、広範囲の攻撃と治癒や身体能力の魔法で仲間のフォローをする立ち位置……そんなイメージを容易くぶち壊してしまうような圧倒的な前線力。 おそらく彼女は、仲間に付与させる強化の魔法を自分自身に集中させている。 しかも普通の強化魔法よりももっと凝縮された超強化だ。
サンティの頭の中で大量の式が浮かび上がり、一瞬で処理されて行使される。 その間、一秒を要しない。 右手が稲妻を放ったと思えば、地面に叩きつけた足が地面から飛び出した木の根を蠢かせる。 あまりの魔法の構築スピードにゴブリンたちは呆然と同胞が消し飛ぶなりねじ切れるなり潰れるなりするのを見ているしかなかった。 杖や錫杖と違い、全身が術式である彼女だけの業だ。
小鬼の甲高い声が聞こえた。 恐怖に怯える声ではなく、決死の覚悟で突っ込む勇ましい声だ。 マブタの、背後から。
恐らくサンティに対して向けられた刺客たち。 今はただの奇襲にしかなっていない。
「浅知恵を図るなら、相手を考えるべきだのう、大愚の鬼たちよ」
恐らく奇襲のことなどとっくに見抜いていたのだろう。 レッパが悠遊とマブタの前に立ち塞がる。 彼女は袖の中に両手をしまって相対する敵を見ているように見えたが、実際のところその態度から眼中に入れているかは分からなかった。
ゴブリンたちがレッパの間合いに入りこむ。 レッパは何もしなかった。
何もしなかったが、間合いに入り込んだゴブリンたちは一様に焼け死んだ。
彼らの身体が突然に発熱し、二秒も立たぬ内に死骸の半分が灰になっていく。
ただ、竜の懐に入り込んだだけで。 鎧も溶けて、内側はもう形が分からない。
足に全力を注いで間合いに入るのを踏みとどまった彼らは、内に流れる闇のエネルギーを顕現させてレッパに吐き出した。 球体、放射状、風となった黒き力がレッパ目指して飛び交うが、あえなく圧倒的な熱量の間合いに阻まれて、蒸発した。
足を動かせば国が斃れ、息吹は大陸を焦がす。 南方の空を統べる剛勇の族。
そんな種族の才に甘んじない歴史が彼女の周りで不可視の熱となって鎮座する。 フタバとの組手で見せた防御に徹する立ち回り。 その鋭利な鱗が、何よりも研ぎ澄まされた刃なのだ。
マブタは、ようやくここに来た目的を思い出した。 今なら、地下へと続く口を開けた入り口に至る道を邪魔するものはいない。
「どこに行くのよ?」「母親を助けないと!!」
即答しながら、マブタは震える足をなんとか駆動させた。 開けた戦場は悲惨だった。
死屍累々にもなり得ない。 死骸は消し飛ぶか闇の中に引きずり込まれるかしてほとんど形が残らないからだ。 爆発の隙間を縫って、溶けた神装から湧き上がる漆黒の粒子が天へと召され、至高神の手のひらへと還っていく。
この光景を安全な場所で眺めていたとしたら、吐かずにはいられないだろう。
流れ弾の黒い球体が側に着弾し、弾け飛ぶ砂塵に顔を腕で庇う。 フタバの裂帛の気合が耳朶を叩き、直後に先ほど以上の爆発が地面を揺らした。 マブタはふらつきながらも遺跡の入り口へと飛び込むように入り込んだ。
地下へと続く深い階段から、昇ってくる緑の影はない。 衝撃の度に高い天井からかび臭い土ぼこりが落ちてくる。 今にも崩落しそうな地下へと続く道を、ひび割れた石のブロックが何とか抑え込んでいた。 蜘蛛やトカゲが慌てて遺跡の外へと逃げ出していた。
松明を焚き、気が遠くなりそうな長い階段を下り切って、枝分かれした道を迷いなく進むと、大きく開けた場所に出た。 石が敷き詰められた空間に人気はない。 精緻な彫刻の織りなされた石柱が規則的に並ぶ様は美しいが、時の風に攫われ、中ほどからへし折れているものや傾いているものも多い。 高い天井から木の根が突き破っているところも散見された。
柱と柱の間には、数多の時間そこに座していただろう犬の彫像が複数ある。 耳が欠けているものや上半身が抉れて床に崩れているものもあるが、この彫像は間違いなく炎の至高神が従える神獣、『八尾の御灯犬』だ。 レッパの持っているお守りともよく似ている。
ここは炎の至高神を祀った遺跡か。 壁にも柱にも炎の模様がある。
「グァウッ!!!」
奥の小道から三匹のゴブリンが飛び出してきた。 神装を纏った彼らは、荒い息でマブタを威嚇している。 涎を垂らして目を血走らせている様子を見るに、哀れにも地上の虐殺を悟ってしまったのだろう。
小刀の切っ先に黒の粒子が収束し、不気味な球体を生む。 ゴブリンは、有り余る超常の力を突きの動作でマブタに叩きつけた。 間髪入れずに、マブタの前に入り込む影。
少女が腕を真横に振り抜くと、横っ面を殴られた球体は方向を直角に変えて遺跡の壁へ着弾した。 強い風に、二本の金色の尾が揺れる。
「ルイさん……ありがとうございます」
「勘違いしないで。 ちょっと気になることがあっただけよ。 あなたのためじゃないわ」
ルイは黒い刀身を構え、三匹の小鬼を睨み付ける。 中央を彩る蒼海色の筋が大きな光を生み出し、ばち、ばちと電気が蠢く音がした。 まるで空気が割れているような激しい音がルイの握り締めた剣の周りで迸る。 青い光が周囲に逃げ出し、稲妻となって地面の一部を爆ぜさせた。 そんな中で、青の光はさらに激しさを増していく。
やがて、逃げ出そうとするエネルギーはなくなり、刃はキーンとした静かな空気を張り詰めさせた。
刀身に沿って、刀身が見えなくなるほど眩い青い光が膜のように張られている。
エセリアとの世間話を思い出した。 天上で煌めく太陽には、人智では測り得ないほどのエネルギーが秘められているとか。 それを至近距離で見ていると錯覚するほどの力が、その一振りには込められている。
ゴブリンががむしゃらに闇の球体を放った。 ルイは剣の平で難なくそれを受け止める。
バチン!! 轟く爆音。 屋内、しかも地下で落雷に遭った気分だった。
刀身に押し込まれた力が弾ける。 出鱈目に溢れた稲光が、何筋にも枝分かれして、その内の二筋が二匹のゴブリンを貫いた。 とばっちりを受けた地面と天井に敷き詰められた石も粉々に吹き飛んでしまう。
彼女は、ただ攻撃を防いだだけだ。 水面に石を投げ落とし、跳ねた水……その水に触れただけで、二匹の小鬼はいとも容易く焼き焦げたのだ。
残った一匹は見上げる。 そんな途方もない力を宿した剣を持った少女が一瞬で距離を詰めたのを。 振り上げられた剣が、鈍く光る。
ゴブリンが顔の前に小刀を構えて防ごうとしたのが見えた。 そして、小刀を、虚空を薙ぐように雷の刃が叩き斬るのが、見えた。 そのままゴブリンの身体を二つに捌き、地面に切っ先が触れた瞬間、遺跡の中を青色の閃光が覆い尽くした。 瞬きの後、崩落する遺跡が見えた。 石柱が雷に噛み付かれて折れ、石畳が消し飛び、神獣の像が内側から爆発したように砕け、絡みついた根っこが灰燼と化して雪のように降り注ぐ。
幸い、地下空間の崩落にまでは繋がらなかったようだ。
(手加減はしたつもりだったけど……)
ルイが小さな吐息を埃っぽい空間に吐き出す。 刀身に宿ったエネルギーはわずかさえも消耗した様子がない。 振り返ったその瞳は、異常なほど冷え切っていた。 その奥で激しくのたうち回る憎しみを見たマブタは、飲み込まれて目的を忘れてしまうのを恐れて、目線を外した。
「アイツらが出てきたのはどこから?」
マブタが目線で奥の小道を伝えると「ありがとう」ルイは剣を握り締めたままその道に向かう。 恐らく先ほどのゴブリンが子どもを守る親だと見て、“処分”しにいくつもりなのだろう。 マブタの目的地もそこなので、ついていく。 マブタには、入り組んだ道の先から、弱弱しい人間たちの意識の声が確かに聞こえているのだ。 迷うことはない。
「…………ちょっと前に立ち寄った南の町で、放置されたゴブリン退治の依頼があったわ。 大群で、冒険者どもが怖気づいたんでしょうね。 神装を使うという情報もあったし」
ズカズカと進みながら、ルイは言葉を投げる。 マブタの方がずっと一歩が大きいので、急がずとも置いて行かれることはない。
「この群れ、あの依頼書の群れと同じようね。 この遺跡、奴らの根城になってからまだ日が浅い。 臭いがしなさすぎる」
「……! そういえば、罠も仕掛けられてなかった……そんな時間がなかった?」
「奴らは群れを移動させた。 前の地域にはまだまだ獲物が沢山いたのに。 何故? 帝国の人口は南部に厚いわ。 それなのに獲物の少ない北部へ群れを移動させた……小鬼のやることじゃない。 奴らに知識はないけど、かといって本能がそうさせるわけがない。 実際、北部にゴブリンの住処は少ない」
北……マブタたちと向かう先が同じだ。 考えすぎならいいが。
道が二つに分かれた。 マブタは迷わず右を、ルイは左を。 会話はなかった。
ゴブリンの巣にありがちな饐えた臭いが鼻腔を不愉快に刺激する。 そこは宝物庫のようだった。 全裸の女性が何人もいた。 地面に倒れていたり杭で腕を打ち抜かれて磔にされていたり。 命への侮辱をこれもかと詰め込む現場は、毎回歯を食いしばらずにはいられない。 女性はほとんどが死んでいた。 小鬼の子どもを産ませるために大体は生き地獄を味わうというのに。
(また群れを移動させるつもりで、荷物になると思ったのか?)
先の会話からそんな風に考えてしまう。 マブタは、一番意識が強い女性に駆け寄った。 少年の母親だろう、目がそっくりだ。 地面に横たわる彼女に、外傷はそれほど見当たらない。 意識もまだはっきりしていて、マブタを見てオークだと一瞬恐れる余裕があった。 マブタが予備の上着を羽織らせると、彼女はマブタが冒険者だと気づいたようだった。
「息子さんが待ってますよ」
女性の目に大粒の涙が溢れるのが見えた。 結局、彼女の他に生きているのは一人だけだった。 体は肋骨が見えるほどやせ細り、髪は糞尿に塗れ、瞳は濁っている。 ほとんど見えていないらしく、意識もかなり弱い。 どれだけの地獄を味わったのだろう。
彼女にも上着を被せていると、近くで稲妻の音がした。 遺跡が揺れる。
それから少しして、ルイがマブタの元へと戻って来た。
ルイには全く手伝うという気がないが、こういうときに、体格がいいのは役に立つ。
二人を持ち上げようしたマブタ。 しかし、側に転がっていた羊皮紙に、ふと目を止めた。 拾い上げたが、ルイは別のところを見ている。 内容に、驚いた。
『エシュナケーアの森にて行われる騎士団育成の試験に際して、警護及び試験官の要請』
ルイさん、これ。 自然と口に出した言葉に、ルイが答えることはない。
ぐちゃぐちゃの羊皮紙には、泥に塗れたゴブリンの手形がある。 攫ってきた冒険者が持っていたものとは思えない。 松明で辺りを見渡せば、同じ紙が大量に落ちている。 こんなものをゴブリンが好き好んで読むとは到底思えない。
「もしかしてゴブリンたちは、騎士団の育成試験を狙う誰かに命令されて……?」
「そうかしら」
ルイの意識が自分に向いていないのを不思議に思い、マブタは顔を見上げ、未だ同じところを見つめ続けているルイの視線を追った。 松明を掲げ、暗がりを照らす。
壁に打ち付けられていたのは、巨大な地図だった。 極圏が朧気に描かれており、中央区がいくつもの線で区切られているのを見るに、人間かそれに近しい存在が書いたもの。
ルイの目線はその中の一点のみを見つめていた。
神峰メセトニア帝国の北部に茂る広大な母なる地、エシュナケーアの森の上空を無造作に覆う、真っ赤なバツ印。
松明の仄かな光を含み、人間の血で描かれたバツ印がぬめりと嗤ったような気がした。
「誰かがエシュナケーアの森に行くように仕向けているのは間違いないけれど、そいつは異常に高い知能を以ってここで直接命令を下しているわ。 ゴブリンたちが命令を聞くのは闇の勢力に与するものだけ……潜入に特化した種族も極圏には多くいるけど、真っ先に思いつく中央区の闇の種族といえば――ダークエルフかしら」
「!!」
「そいつの目的は何? 騎士団の育成試験を襲わせること? それとも――」
ルイの青い瞳がマブタを見る。
「あなたを襲うこと、だったりして」
闇に与するもの。 手紙の主。 彼を憎むもの。 ダークエルフ。 マブタを襲った影。
バツ印から滴る血の跡が、マブタのこれまでの旅路をなぞっているように見えて、マブタは体を震わせる。
そのとき、枯れ木のようにやせ細った女性がもぞもぞと動いた。 濁った瞳でルイを見つけると、目を見開いて唇を動かそうと何度も口を開閉させる。
か細い声が、ルイの内なる逆鱗を撫ぜる。
「ぁ……え……ぇ、え、せりあ、様……」
ルイは切れ長の瞳を薄く見開くと、弱りきった女性を猛獣のような鋭い瞳で見下ろした。
「わ、わたくし、は……待っ、て……い、いまし」
震える手が、ルイに向かって伸びる。 弄ばれたのだろう、右手は火傷に包まれている。
「あ、ぁ……な……様、が、その御……光、で、私、た……を、救っ……」
拝むような眼を見て、ルイは歯を食いしばる。
「バカね……アンタたちは、あの人の名声を高める……“道具”でしかない……! それか、ただの偽善よ……!! あんな人を崇めるなんて、どうかしてるわよ……!」
ルイは、強い足踏みで踵を返すと、金色の髪を怒らせながら遠ざかっていく。 剣の切っ先が石の壁に触れ、木っ端みじんに吹き飛ばした。
「ルイさん!」
殺す、そんな呪詛まがいの言葉がマブタの脳裏を何度も刺していく。
マブタは慌てて二人の女性を担ぎ上げ、ルイの後を追いかけた。 もつれそうになる足に力を込めながら、小走りでルイの後を追う。
(お前らのせいだ……!)
ルイは苛立たし気に、すれ違いざまに神獣の像を袈裟に斬り下ろした。 地面に刺さった切っ先が、神殿を大きく揺るがすほどの雷撃を生んだ。
(何が神だ……お前らはただの悪魔だ! お前たちが、そしてお前たちの生んだ全てが!)
今度は壁に描かれた至高神の壁画を斬り裂いた。 揺れる遺跡で踏ん張りながら、立ち昇る砂埃の中を咳き込みながら進む。
階段に差し掛かったが、のんびりしているわけにはいかない。
「ルイさん! 待ってください!」
ルイに置いて行かれないように光の元へと駆け上がる。
光の中へ飛び込んだ。 戦いはもう終局に近い、あれだけ粋がっていた小鬼たちの群れも今や二十を下回っている。 ゴブリンの巣以上の不快な臭いが辺りに充満していた。
彼らが名残惜しむように一匹一匹を先ほど以上の超高火力で吹き飛ばしているのは、そのせいか。 ルイが唸り声を上げながら手近なゴブリンに向かって突きを放つ。 虚空を掠めた刃だったが、先端から解放された一筋の雷が見事に小鬼を内側から破裂させた。
そんな折、マブタは、不意に奇妙な頭痛と眩暈に襲われた。 気のせいかと思われた不快感は、しかし、強くなりながら確実に体を這い上がっていく。
女性を抱えきれなくなり、なるべく丁寧に地面に寝かせ、マブタも膝をついた。
大量の声が流れてくる。 頭痛はさらに痛みを増し、意識の混濁が眩暈を呼ぶ。
『あのお方があれだけ御腹を痛めて生まれたのがあの出来損ないか――』 酷く嘲る声。
『ルイ!! あなたは、最低な人間です! よくもそんなことを!!!』 ナナセの声。
『魔王の息子を捕らえた!! 捕らえたぞ!』 裏切りの声。
『お前は俺のものだ。 俺を満たすためだけのものだ。 一生な』 情欲に溢れる声。
『竜どもの品々だ!掻っ攫え!! 逆らう奴は殺せ!!』 野蛮な連中の声。
『お前たちが憎い!!』『嘘つきどもが! ブチ殺してやる、全員!! お前らはゴブリンと同じだ!!』『殺す、殺す、殺す、殺す――』『覚えていろ、例え何千年を経ても――』
「え……?」
マブタは目を見開く。
先ほどと景色が違う。 おかしい。 圧倒的な冒険者が小鬼を蹂躙していた光景がない。
今あるのは――
“冒険者が、悲鳴を上げる人間や異種族たちを蹂躙するする光景だった”。
スズリの前で、泣き喚くエルフがいた。 スズリは手に持った槍でエルフの脚を貫くと、動きを止めたエルフの頭に回り込み、その頭蓋を踏み砕いた。
フタバが焼き焦がしたのは、鉱夫族だった。
レッパの前で、剣を持った人間が、炎のベールに包まれて灰に還った。
マブタは、絶叫と頭痛から逃げるために両耳を押さえ、心の声を弾くために叫び声を上げた。 何が起きているのかはすぐに分かった。
意識だ。 彼らは、世界に対する憎しみを晴らす瞬間を疑似体験しようと、意識の中でゴブリンたちを人間たちに見立てているのだ。 それが、マブタの意識に望まずとも入り込み、網膜に映る景色を捻じ曲げている。 これが現実でないことは分かっている。
だが、マブタの目の前に広がる惨状は、明らかに真っ当な道を踏み外すものだった。
「『描け』」
サンティが呪文を唱え、戦場の上空に桃色の小さな光の一点が現れた。 それは滑らかに動き出すと、虚空に光の軌跡を残し、奇怪な文様を描き始める。 光は二叉、三叉に分かれると、さらに加速した。
見たことのない光景だった。 魔法陣による、超高位の魔法。 それは、あらかじめ魔法陣の描かれた巻物を用いたり、長い詠唱と共に杖の先で一から描くなどの大量の手間が掛かる。
しかし、サンティが行使したのは、そんなかなりのおぜん立てを必要とする“魔法陣を描く魔法”。 それだけで形勢を一転させる業は、マブタたちの上空でいとも容易く完成へと向かう。 一体どれだけの複雑な式を正確に打ち込めば、こんな芸当が出来るのか。
桃色の魔法陣が瞬く間に完成し、呪文もなしに勝手に起動する。 ありえない。
「レッパ」「御意」
ルイが口に出した瞬間、桃色の魔法陣の中心で巨大な光の塊が膨張する。 そこから、細い光線が真下に射出された。 轟音が、聴覚を奪う。 膨れ上がる光が、人間たちの幻影を食い散らかしながら視覚を消し去った。 誰かが庇うようにマブタの前に立ったのが見えたが、すぐに何も見えなくなった。
マブタは必死に弱った女性たちに覆いかぶさることしかできず、その時間はかなり長いように思えた。
やがて、風が止む。
恐る恐る顔を上げる。 まるで地図が書き換えられてしまったかのように、灰色の大地がそこにいた。 周囲の森は消し飛び、ゴブリンの死体すらない。 大地は血の気が引いたように灰色。 地面から立ち上る酸性の煙の臭いが、鼻を衝いた。 振り返れば、遺跡の姿がなくなっていた。 マブタの後ろに、辛うじて残った白亜の残骸と、剥き出しの地下への階段だけがある。 崖も、先ほどより奥にあるように見えた。
「やれやれ。 この大地も、死んだな」
マブタの前に立ったレッパがため息を吐く。 死んだ大地の上で、虐殺を繰り広げた冒険者たちだけが平然と足を付けていた。
「全部片付いたかしら」
「ああ、そうだろう……いや、まだいるな」
全員の視線が一つに集まる。 死ぬことを逃れた緑の森の淵へと足を引きずる小さな影が一つある。
あの酸の爆撃から運よく生き残ったのだろうが、右足は喪っているようだ。
「私がやる」
ルイの手に持った剣に更なる雷が充填される。 マブタは緊張に鼓動が早まるのを抑えながら哀れなゴブリンを目で追い――
「あっ!!」
その先にいる、森の影から姿を現した少年を見つけた。 なんということだ、母親のことが心配で様子を見にきてしまったのだ。 ルイも、当然小鬼の先にいる少年に気付く。
(冒険者の戦いに巻き込まれるなんて、よくある話……)
「!!」
だが、彼女自身も、彼女以外の誰も、止めようとする人間はいなかった。 マブタは目を見開いて吃驚し、すぐに立ち上がった。 ルイが剣を振り上げている間に、マブタは全速力で少年の元へと疾駆する。
(何故守ろうとする?)(あなたは私たちと同じではないのですか?)
スズリとサンティの声を振り払って、マブタは駆けた。 ゴブリンが恐怖に狂っているのが見えた。 刃が地面を叩き割る音がした。 振り返った視線の先で、解き放たれた青白い閃光が地面を割りながら突き進む。
(あのバカ……!)
ルイが心の中で歯噛みする。 ゴブリンの横を通り過ぎた。 速度を緩めることはない。 少年に辿り着く直前に、ゴブリンの絶叫が聞こえた。 雷撃は勢いを弱めることはないだろう。 腰を屈めて少年の身体に飛びつく。
(避けなき――)
否。 そんな時間はなかった。 血を這う青の稲光はもう振り返ったマブタの眼前まで迫っていた。 反射的に少年を強く抱きかかえ、左手を雷に向ける。 それしかできなかった。 ゆっくりと時間が進む。 左手が雷に飲み込まれていく。 痛みはまだ上ってこない。 誰かの泣き声が聞こえた。 少年のものじゃない。
『ルイ……お願い……私を、信じて……』
彼女のものだ。 マブタの前で見せた、数少ない涙だ。
ダメだ。 死なせてはいけない。 自分が死んでもいけない。 目の前に迫る蒼の壁から生き延びなければいけない。 絶対に。 約束を守るのだ。 頼むと言われたではないか。 何でもいい。 悪魔に魂を売ってもいい。 自分の身体の中に何か力があるならそのありったけを使え。 無様でも何でもいい。 生きねば。 ……死ぬな、死なせるな。
――絶対に……!!
マブタの身体を、柔らかい熱が包んでいく。 黄金色の光の粒が、彼の周りを蛍のように舞ったかに見えた。
そして、時は元に戻り、雷の蒼壁は、一瞬でマブタを飲み込んだ。 痛みはいつになってもやってこない。 代わりに、しばし忘れていた穏やかな感触が彼の身体をさする。
優しい、温もりだ。 視界が開けていく。 結果を見れば、マブタの翳した左手が、荒れ狂う暴力の塊を霧散させていた。 自分の身が起こした事象だったが、驚きを隠せない。
懐の少年がきつく閉じた瞳を開け、辺りを見渡し、マブタを見上げる。 雷の破壊の跡は、マブタの目の前で消えていた。
「そんな、馬鹿な」
遠くでレッパが珍しく目を丸くしていた。 少年を離し、マブタは手のひらを、それから自身の身体を見下ろした。
醜い体を包み込む、白の装束。 光の粒子を溢すその衣は、この世で生み出される嗜好品の何よりも美しく繊細だ。 体に漲るこの力が暴力の源であるのが頭でわかっていたが、それでも身を預け細く笑いたくなるような充足感をその力に感じる。
「光の、神装……」
自分の身体を改めて見下ろし、再度驚いた。 与えられるはずのないものがマブタを守るように覆っている。 それを見る冒険者たちも瞠目して驚きを隠せないでいた。
「どうしてマブくんに光の神装が……」「ありえない……王族だけのものだ……」
マブタはゆっくりと顔を上げた。 吊り上がった碧眼と視線が強く絡まる。
「マブタ……アンタは……」(光の神装。 ……あの人と同じ……)
青の瞳は、マブタを睨む。 彼が抱えた面影が、ルイの憎しみを掻き毟る。
(あの人と同じ光……私の全てを、ぶち壊した光だ――)
見開かれた瞳の奥に潜む、抑えられぬ憎悪。 マブタの意思は、そんな憎しみの深淵を覗き込むように、ルイの意識の中へと消えていく――
「あなたは、とっても強い子なのよ、ルイ――」
古く優しい風の音がする。