やるせない旅路
「いいか? 俺たちがいるのが今この辺りだ」
切り株の上に広がった地図を、一行は眺めている。 そこには、マブタたちが足を置く大陸の俯瞰図が描かれていた。 大陸の北方の大部分は黒く描かれていて、国境もない。
言葉無きものの住まう未踏の地、極圏。 大陸の輪郭もあやふやだ。
南には雄大なる異種族の世界、境峰がどっしりと構えている。 ここにも国境はないが、最南端のでっぱりには、色濃く『竜の峰』とテリトリーが示されていた。
それに蓋をするのは大陸を横断する大いなる頂たち。 境峰と呼ばれる所以だ。
そんな二つの巨大な勢力に挟まれているのが、か弱き人間と亜人、そして対等な種族たちの居住区、セントラル。 だというのに、セントラルには黒いインクが幾多にも国を分けている。 西にはセントラルのおよそ三分の一を席捲する大きな国があるが、東側はある大きな一国以外の国々が乱立している状況だ。 西の大国が神峰メセトニア帝国だろう。
マブタが帝国の領土を眺めながら「何だか小さいですね」と何の気なしに呟くと、ルイが苦笑いしながら「中央区最大の帝国よ」と返した。
さて、スズリは、そんな西の大国の中央からやや南東にズレた場所を指差していた。
現在地だ。
「ほんでエシュナケーアの森はここな」
次に彼が指差すのは、帝国の北西、極圏と接して鎮座する巨大な森林地帯だ。 帝国と極圏の境目の半分以下ほどをこの森が覆っており、森もない場所には、要塞都市が多く点在しているのが分かる。 エルフの総本山でもあり、名もなき醜悪な男が生まれた場所。
「覚悟しとけよ。 大陸の北側は今、危険な状況にある」
「危険な状況?」
「うん。 最近、極圏からの攻撃がどんどん激しくなってるんだよ。 北東の要塞都市も徐々に落とされてるし、いつ攻撃に晒されるか分からないから」
「それもこれも、原因は一年前から急速に台頭し始めた二人の『十二志士』だ」
フタバとレッパが補足する。 補足の中にあった聞き慣れない単語に引っかかるマブタに、ルイが言った。
「十二志士っていうのは、極圏の中で中央区に最も甚大な被害をもたらすとされている十二体の怪物のことよ。 内二体が死んだけど、悪名を上げて最近その枠に滑り込んだのが、闇の神官エーアイ=ネーヴァ=メセトニアと、正体不明の化け物、レイシア=0=フェアリーテイル。 姉さんを殺した二人よ。 この二人が名を上げ始めてから、極圏からの攻撃は日に日に増えているわ」
あの日、死に際のエセリアの側に立っていた神官と、藍色の目をした少女。
ルイの話を聞いて、顔をしかめるなり、目を背けるなり、各々が微妙な表情を見せた。
(そう……姉さんは、アイツらに……)
(あんな怪物を連れ歩いて、お姉ちゃんはどこまで穢れれば気が済むのでしょう)
(十二志士の一体を倒したのは俺たちなのに、あのときは感謝されるどころか……)
(最近は次々に――)(要塞都市も役に――)(凄まじいが――)(浅ましい――)
そんな彼らの思考から逃げるように地図に目を落としたマブタは、ふと首を傾げた。
思ったことを口に出す。
「あの、その二人は、何でこの街を襲ったんですか?」
「何で、と言いますと?」
「いえ、今回襲われた街は、帝国の南東にある街ですよね。 途中には王都もあるのに……それに、もっと極圏に近いエシュナケーアの森の側には王宮騎士の養成学校もあったし、何でわざわざこんなに遠い街を襲ったのかな……って」
「……。 確かに、ここには大陸随一の冒険者ギルドがあるとはいえ、今後のことを考えるなら途中の王都を襲った方が確実に戦況は傾くしな。 それに、もっと近場にある未来の脅威の多くを無視したのも、言われてみれば」
各々首を捻るが、答えは出ない。 言葉無きものに戦略などない、そう切り捨てることはマブタには出来なかった。 あれは間違いなく、計算された襲撃だった。
彼らと幾度も刃を交えてきたのだろう、他の皆も同じ考えだった。
結局、その話はそこで閉じた。 荷物をまとめている間に、レッパがマブタに尋ねた。
「して、貴殿は神装を使えるのか?」
「あ、いえ、ぼくは……ゴブリン退治とかは、全部エセリアさんに任せてしまっていて。 応急手当とか、食べ物になる植物とかは教えてもらったんですけど」
「姉さんは、戦の道にあなたを巻き込みたくなかったんでしょうね。 私も昔――」
姉との思い出を振り返ろうとしたルイは、そこで言葉を区切った。 頭の中に、苦みのあるエセリアの記憶と、王宮の窮屈で心臓の張り裂けそうな出来事が水を差していた。
「でも、北方に行くなら奇跡の一つや二つは覚えていた方がいいねっ」
地図がしまわれて暇を貰った切り株の上に尻を乗せながら、フタバが笑う。
「でも、やり方が分からなくて……」
教えを乞おうとしてマブタが視線を流した先にいたのは、サンティだった。 彼女なら、喜んで教えてくれると思ったからだったが、予想に反して、彼女はその大きく穏やかな碧眼を伏せて顔を背けてしまった。 そのまま、足早に距離を取る。
「気にするな。 アイツは魔法使いだからな。 奇跡に関する知識を持ってもいないし、興味もない。 というより、アイツは基本的に神が嫌いだ」
「?」
「スズリの言う通り、往来にして、魔道とはそのような嫌いがある。 天上の御方は、自らに傅くものにはご慈悲をくださるが、己が古に放った力の残滓を虐使する小賢しい者にその御手を伸ばすことはない。 故に魔道に生きるものは、天上の御方から奇跡を与えられることはない」
小賢しい者。 レッパの言葉は明らかにサンティに対する刃であったが、サンティは気にする様子がない。
(神は誰も救わない。 そんな傲慢な神に心酔して股を開く奴の方がよっぽど愚か者)
あくまで表向きは。 至高神を強く崇拝しているらしいレッパと信心を放棄したサンティでは折り合いの付かないところもあるらしい。
結局、奇跡の何たるかを教授してくれるのはルイということになったらしい。 サンティは切り株に座り込むフタバの側に腰を下ろし、レッパとスズリは何やら話し込んでいる。
切り株に座る二人は時折笑顔で会話を交わしていたが、やがてレッパと笑顔で言葉を交わすスズリにちらちらと目配せし、不安なり不満なりの顔を浮かべた。
異性として注目を集めるに足る鑑賞に優れた好青年は、そんな視線に気付かなった。
ルイも同じような気持ちを抱えていたが、気を取り直して足を組むマブタの後ろに立った。 ちなみに、マブタもそんなルイを見て心穏やかではない。
「前提として、天上に座す至高神は全部で七体よ。 風の至高神、雷の至高神、水の至高神、炎の至高神、土の至高神、そして闇の至高神と光の至高神。 基本的に人間はその内の誰か一体から加護を受けることが出来る。 風は静かなる心を、雷は荒く猛る刃を、水は優しき思いを、炎は熱き血潮を、土は厳かなる冷静を、闇は醜悪な本能を、光は聖なる志と運命を持つ人間を好み、加護を与えるとされてるわ」
「な、なるほど」
「奇跡はその信心によって起こせる事象も変わるって言うけど、それは迷信よ。 奇跡は、使うごとに体力を激しく消耗するわ。 事象が大きくなればなるほど、その消耗は大きくなる。 至高神は、その人間に耐えれるだけの奇跡しか与えないの。 神装はその最上級。 要は、鍛えてさえいればちょっとの信心でも神装は使えるわ。 逆に、敬虔であっても一般的な人間の肉体だと、一番簡単な奇跡でも半日は気が飛ぶし神装なんてできない」
ルイは両手をマブタの肩に置く。 マブタの体が小さく震え、鼓動が高鳴る。
「目を閉じて」
「はい」
上ずった声が出た。
「この世に生きる全ての生き物の身体には霊脈という力の道が隅々まで張り巡らされているの。 あくまでイメージだけれど、その流れの根源に、至高神と繋がる場所がある。 そこへ向かって、祝詞を唱えるだけ。 人間だとそれは心臓の反対側、右の胸のところね」
体が近い。 垂れたツインテールが首元を撫ぜる。 スズリの嫉妬が飛んでくる。 ルイはまったく同じものをスズリに返す。 最早この場で心穏やかなのはレッパだけだ。
「集中して。 イメージしたら感触は必ずあるわ」
先ずは離れてから言ってくれ。 叶ってほしく、叶わないでも欲しい願望をマブタが抱えてヤキモキしていると、ルイは手を離して距離を取った。
精神統一なのかため息なのか分からない息を吐き出すと、マブタはようやくしっかりと目を閉じた。 瞼の奥に浮かぶ、エセリアとの思い出。 彼が目を閉じる度に見ていた天上の宝石たちはいつしか、金色の聖女の笑顔に変わっていた。
彼は、心が揺れる前の彼女の姿を脇に寄せ、意識を己の身体の中に向ける。
記憶のない己のなかに潜っていく。 誰それの嫉妬よりも、風の靡きよりも、遠くの街の喧騒よりも手前に、自分の吐息が聞える。 やがてそれすらも掃け、内なる力の網に、意識の指先が触れた。
体の中を蜘蛛の巣のように広がる力の流れ。 指先から肩へ、腰を通って足へ、どこまでも分岐し、身体中を奔る。 心臓へ向かう道を手繰り寄せる。 そして、右の胸へ。
心臓のように波打つ光の奔流がある。 その先は眩しくて見えない。 だが、何か偉大なものが、マブタに耳を傾けているようだった。 ルイが気付く。
「辿り着いたら、そこにいるのがどんな神か問いかけるのよ。 一番簡単な奇跡はそれぞれ違う。 それらを唱えてみて発動した奇跡が、あなたを庇護する至高神」
一呼吸置いて、ルイはマブタに復唱するように促してから祝詞を口にする。
「先ずは風の至高神よ。 『彼方の御方へ、空の貴方へ、風の至高神へ。 その吐息を荒ぶ風へ。 我が目前の曇りを払え』」
「か、彼方の御方へ……空の貴方へ……風の至高神へ……その吐息を荒ぶ風へ……我が目前の曇りを……払え……」
何も起こらない。 呑気なそよ風が体の隙間を通り抜けていくが、これのことではないだろう。 失敗ね、とルイが呟いて、マブタは頬を掻く。 失敗が続いた。 雷の至高神も、水の至高神も、炎の至高神も、土の至高神も、彼の呼び掛けに応じることはない。
努めて儀式を無視していたサンティも、これには首を傾げている。
「……? ルイさん、次の祝詞は……」
「いえ、残りの二つは、やるまでもないわ。 光の至高神は歴史上この国では王族にしか奇跡を与えないし、闇の至高神が人間に奇跡を与えることは前例がない」
しかし、生きとし生けるものは魔道の道を行かぬのなら何かしらの神に身体を預けている。 となると考えられるのは、闇の至高神だけ。 しかし、ルイはそれを頭に浮かべながらもマブタにそれを言うことは決してしなかった。 それの意味するところが、彼が人間でない可能性を強めるからだった。
「まぁ、奇跡がなくたって別にいいんじゃない。 何かあっても私が必ず守るわ」
「そ、そうですよ! 私たちがいますから!」
頭を小さく撫でるルイと、両の拳に力を入れて励ますサンティ。 前者は純粋な気遣いだが、後者はそのフォローの裏でマブタを魔法使いに仕立てようとしていた。
ともあれ、己に寄り添う神の存在を知らず、マブタの旅路は再び始まった。
目指すはエシュナケーアの森。 彼が生まれた場所。
☆
草原のさざめきが心地よい。 肺に柔らかい風が入り込み、芽生える不安を攫っては外に還っていく。太陽の光を泳ぐ雲たちが受け止め、旅人たちに親切な影を落とす。 開拓された灰色の街道に出て北へ。
賑やかだなぁ。 彼は後ろからルイたちを見つめながら、そんなことを思った。
「これスズリ、手癖が悪いぞ」
「え? ひゃああああ!! スズくん、直ぐにそれをどこかに放ってください~!!」
レッパが諫め、サンティが飛び退いて悲鳴を上げる。 スズリが、側を這っていた蛇を凄まじいスピードでひっとらえていた。 フタバにも注意され、「夜飯にはちょうどいいのにな」と愚痴りながら蛇を放り投げる。
「……おお。 なんと……」
不意にレッパが立ち止まる。 彼女の視線の先には、炉端に鎮座する石を削って作られた彫像がある。 彫られているのは至高神だろうか。 何の神かは分からない。
引き締まった筋肉で一又の巨大な槍を掲げ、蓄えた髪や髭まで細かく彫られている見事な男性の姿をしている。
(あれ、そういえば……)
マブタが記憶に引っ掛かるものを感じている間にも、レッパは小さな彫像にしゃがみ込み、懐から金で出来た小さな犬のお守りを手のひらに乗せて両手を合わせた。
至高神には従えている空想上の生き物がいる。 綺麗な姿勢で座り込む尾は複数に別れ、その先端が靄が掛かったように空気に溶けている姿を見るに、彼女が持っているのは炎の至高神が従える『八尾の御灯犬』だろう。
八叉の尻尾は炎で出来ているとか。 とにかく、これは炎の至高神の像なのだろう。 竜族は基本的に個人単位で至高神全てを崇めているが、特に炎の至高神への崇拝は強いという。
その後レッパは、伸びきった周囲の草を払い、雑草を抜き始める。
また拝む。 一行は足を止め、彼女の祈祷が終わるのを待つ。
昆虫がマブタの頭上をゆっくりと通り過ぎていく。 ルイが風に乗って肩に落ちた草を吐息で払う。 スズリがくしゃみをして、近くで羽根を休めていた鳥たちが一斉に飛び立った。
レッパは祈っている。 サンティは地面を歩く蟻の行列を見つけて飛び退きながらも興味深そうに眺めている。 フタバは締め付ける服の隙間に指を入れて涼を得ている。
レッパは、祈っている。
スズリの踵が地面を苛立たし気に叩き、ルイは腕を組んだ。
(長いわね)(長いですね)(長ぇぞ)「長いよレッパ」
フタバも気持ちは同じらしかった。 彼女の声を聞き入れて、レッパはゆっくり立ち上がった。 だてに千年生きているわけではない。 どんなことでも、急くことはない。
上空を巨大な鳥類が飛んでいった。 大鳳族。 あれを辻馬車代わりに使うと国の端から端まで三日ほどだというが、庶民の稼ぎ一生分の交通料金を持っていかれるらしい。
一行はまた歩き始める。 レッパに嫌味を言うスズリとフタバ。 ルイは地図を片手に遠方の山の稜線を指差してサンティと何かを示し合っていた。
彼らの背中は、普通の冒険者と何ら変わりない。 だが、世間は彼らを差別し、彼らは世の中を憎む。 やるせない世界の片隅をマブタは歩いていた。
「輪に入るのは苦手かしら?」
ルイが歩幅を遅めてマブタに並ぶ。 彼は、思ったことを口にした。
「ええ。 ずっと、エセリアさんと二人でしたから。 賑やかで、外から見ているのが、性に合うようで」
「あなたも仲間なんだから、中に来なさいよ。 ここにいるのは、皆仲間なんだから」
まるで、それ以外は、全て敵であるような言い方だった。
事実、彼女は心の中でそう語る。
「皆、同じ志でここにいるのよ」
自分は違う、マブタがそう言い放ったら、ルイはどんな反応をするだろう。
「皆さん、種族も年齢も、生まれも育ちも違うのに、ここでこうやって仲間として旅をしているのは、ぼくはとても素敵だと思います」
だから、そう言うだけに留めた。 ルイは不思議そうにマブタの顔を覗き込む。
彼らの旅は進む。