はじめのいっぽ
意識が覚醒し、瞼を開けていないことに気付いて彼はゆっくりと重い蓋を押し上げた。
穏やかな視界だ。 緑色の紙の上に描かれた茶色の迷路。 そのところどころが白く掻き消されている。 行き止まりだらけの茶色の迷路に飽き飽きしたころ、彼は一度のんびりと目を閉じて、その迷路をもう一度見つめ直した。
すると、それら抽象的な構図は青く茂る木々と幾多にも別れた枝、そして木漏れ日であることに気付いた。 嗅覚を働かせると、土と葉の匂いがする。 どうにも心地よく、彼は鼻から空気を吸い込んで口から吐き出した。
体を起こした彼は、ここが森の中であることに気付いた。 周囲の木々の背は低く、朝方なのだろうか、柔らかな光が木々の合間から彼の顔を撫ぜる。 川のせせらぎが、聴覚をくすぐる。
「ここは……?」
どこともしれぬ森の中で、一人で目を覚ました。 一刻も早く森を出ないと、最悪は魔物に遭遇する場合も考えられる。
魔物、魔物……いや、それ以前に……。 彼はそこで、異変が起きていることを知る。
そもそも、何故この森のことを知らないのか、何故こんな場所にいるのかという思考に至ったとき、何も思い出せなかったのだ。
それだけでは済まなかった。 それよりもずっと以前、どこの宿で寝て、その前の日は何を食べて、誰と出会い、何を語らったのか。
どこで生まれたのか。 自分は何者なのか。 自分の名前は。 顔は。
その全てが、思い出せなかった。
「え……?」
過去のことを思い出そうとすると、頭が痛くなる。 一体自分の身に何が起きたのか。
言いようのない恐怖に身体が震えたとき、森が、ちゅんと一声鳴いた。
見上げると、一羽の黄緑色をした鳥が彼の頭上からゆっくりと降りてきていた。 随分人懐っこい鳥だ。 困惑する彼を労わるように、鳥は彼の膝の上に降りて首を傾げる。
「君は優しいんだね」
そう言って彼は、軽く折り曲げた人差し指を鳥の足元に伸ばす。
が、その手が、途中で止まった。
「……!?」
強烈な嫌悪感に苛まれながら、彼は指を開いて震える手を眺めた。
何て。 何て――――醜いんだ。
ぶくぶくと太った手。 指は挽肉の腸詰めのように膨らみ、関節の境目も分からない。
腹部に手を当てると、図々しく押し返してくる肉の感触があった。
記憶を失ったせいなのだろうか、自分の体を、ここまで醜悪に思えてしまうのは。
勢いよく立ち上がる。 驚いた小鳥が、彼を非難するように翼をバタバタとはためかせて木々の間から空へと飛び立った。 申し訳ないことをしたと思いつつも、彼は大急ぎで川のせせらぎを頼りに走った。 踏みつけた枝が折れる音が森に木霊する。
森を優しく流れる小川、その反面、わずかな疾走で、彼は汗を頬から滴らせていた。
動悸が収まらない。 胸の辺りが気持ち悪い。
揺れる水面を覗き込み、息を止めた。 そこに映っている人間の、何と醜いこと。
顔にも肉が付き、その姿は、闇の先兵、『悪豚族』……俗に言う、オークと言われても否定が出来ない。 その瞳だけが、唯一理性ある人間だと教えてくれる。
「こんな……こと」
こんなはずは、ない。 記憶をどこかに置いてきたようだが、彼は自分が人間であることは確かに覚えていることに気付いた。 だが、それにしてはおかしいのだ。
人間は……『人族』とは、容姿端麗な種族のはずなのに。 この愚かな見た目は何だ。
「……?」
懐に感触を覚え、彼はポケットに手を突っ込んだ。 紙の感触を逃さず、引っ張り出す。
手紙のようだった。
安っぽい羊皮紙のような紙に、薄いインクが這っている。 あて名はない。
彼は、ゆっくりと文字に目を落とした。
お前は多すぎる罪を犯した。
だからお前は、苦しまなければいけない。
苦しみながら、生きなければいけない。
そして、この世に存在する全てを見ろ。
私は自分の正しいと思う道を歩いた。
お前もそうやって歩け。
一歩目は、私が与える。
お前はこれから、様々なものを見るはずだ。
その最後に、お前が私と同じ場所に立っていないことを、心から望む。
お前の罪が、真に『罪』であることを、証明してくれ。
意味が分からなかった。 ただ、記憶を無くした彼が、それより昔に誰かを苦しめた。
それを、この手紙を書いた人間が告発している、ということは、何となく理解した。
自分が、誰かを深く傷つけた。 そう思った瞬間、手紙を握る両手が誰かの返り血に染まったような気がして、彼は瞠目して手紙を投げ捨て、両手を小川に突っ込んだ。
泥が水中で舞い、涼感が体に染みわたる。 彼はいつの間にか荒い息を吐き、大粒の汗を流していた。 横目で、捨てられた手紙を見る。
誰かの怒りが込められた手紙。 記憶を奪ったのは、あの手紙を書いた人間なのだろうか。 とにかく、あの手紙は捨ててはいけない、そんな気がした。
川面から手を離し、服で水を拭って手紙を拾い上げた。
「……?」
人の声が聞えた気がした。 この森の広さがどれほどのものか分からないが、合流をして道を聞くなり街へ連れて行ってもらうなりしてもらうのが最優先だ。
記憶のことや手紙のことは、近くの街なり都市なりについてから整理しよう。
思い立ったがすぐ、彼は手紙をポケットにしまい込み、川に背を向けて歩き出した。
☆
背が高くなっていく木。 緑はどんどん濃くなり、枝垂れ落ちる光は声を潜ませていく。
虫たちの声は遠のき、鳥の甲高い声が遥かな頭上で響いていた。 誰かの声は次第に近づいてくる。 太い木の幹から伸びる根に足を取られそうになりながらも、陰鬱な森の中を早足で進む。
やがて、視界が開け、彼は足を止めた。 湖の畔に出たようだった。
巨大な水面は退屈そうに森の緑を跳ね返して濁り、その向こうには体を休める三人の人間の姿があった。 冒険者だろうか、弓と矢筒を携えた女性もいる。
(あれは……誰だろう……?)
水面に足を付けてくつろいでいた黒髪の少女が、いち早く彼の存在に気付いた。
見慣れない赤の制服に身を包み、前髪は綺麗に切り揃えられ、真夜中の清流のような黒髪が肩甲骨辺りまで伸びている。 頭の上には赤色のリボンがウサギの耳のように生えていた。 短いスカートから垣間見えた健康的な太腿を、何かを嵌めるための空の入れ物が二つ、しっかりと締め付けられて固定されていた。
その瞳は灰色に水色を滲ませたような色だった。 珍しくはないのだろう。 彼が先ほど川面を除いたとき、彼の一つの目の色も同じだった。
人間を見つけられたことに安堵し、口を緩める。 だがその瞬間、彼はある違和感に気付いて表情を引き締めることになった。 耳を押さえ、一歩後ずさる。
(どうしたんだろう?)
まただ。 また聞こえた。 耳を塞いだのに。
少女の“声だ”。 はっきり聞こえる。 口を開けてすらいないのに。 こんなに距離も離れているのに。 聞こえるわけがない。
彼が困惑する間にも、何故彼があんな反応をしたのか、その予測の数々が彼女の声で幾多にも重なりながら彼の耳に響く。
どうしてこんな森にいるのかな。 そんな声が彼の耳に届いた時も、彼は少女の口元が微塵も動いていないのを見ていた。 声も非常にクリアだ。
「心の、声……」
ぼそりと呟いた疑惑が、妙に核心をついているような気がした。 どういうわけか彼の耳は、遠くで彼を眺めている少女の心の声を拾っている……そうとしか思えなかった。
「ナナセ、どうしたの」
また遠くで、彼のことを眺める少女へ振り返った少年が、次いで彼のことを視界に捉えた。 まだ子供なのだろうか、その体躯は小さく、体を覆うようにぶかぶかの黒いローブを羽織っている。 フードが重苦しそうに頭の上に乗っかり、その隙間から紺色の大きな目と青の髪の毛が見える。 片眼には眼帯を身に着け、どこか暗い雰囲気を醸す少年だった。 少年は彼のことを目に止めると、気味が悪そうに口元を歪めた。
(オークだ……その割には小柄だな、いや十分デカいけど。 あれが依頼の奴かな、本当にいたんだ。 こんな神聖な森の中にオークやゴブリンが群れるなんてイヤだな、街も近いし。 ……気持ち悪い。 不気味な目をしてる)
やはりそうだ。 あの少年は彼を見たまま口を開いていない。 それに、少女に声を掛けたときよりも明瞭に声が聞こえる。
何よりも、歯に衣着せぬ物言いは、心の声に、相応しい。
(でも一体しかいないな。 そうだ、仲間の場所を吐かせよう)
「ねぇ。 依頼の奴がいたよ」
彼の背中が、寒気だつ。 冒険者、依頼、オーク。
聴覚が拾った情報が、あの一行が彼をどういう目で見ているか、悟ったのだ。
彼らは、この森にいるというオークの群れを討伐しに来た冒険者。 そして、彼を、その一党のものだと、闇の至高神のゆりかごより生まれし、『言葉無きもの』の仲間だと確信している。 彼の見た目は、その見解を否定できない。
彼が弁解の声を上げようとしたとき、矢筒と木の弓を背中に差した女性が振り返る。
一つに束ねたクリーム色の髪は上品で、その装束は布の面積が妙に少ない。
足の筋肉はしなやかに、そして強かに鍛え上げられ、腰からその上へと伸びていくラインは見るものが見れば蠱惑的なのだろう、彼にはよく分からないが。 心許ない緑の布切れが、豊満な胸元を必死に押さえつけている。 肌は、深緑に抱きかかえられながら育ったかのように純白だ。 何より目に付くのは、三角に尖った耳。 それは、森に愛され、森を愛する種族、『森人族』……エルフと呼ばれるものたちの特徴であった。
そんな彼女の、エメラルドのように鮮やかな瞳が彼を捉えると、その双眸はキッと研ぎ澄まされた。 そんな彼女を前に、彼は奇妙な感触に行き当たった。
彼女の心が、聞こえない。 否、それが普通なのだ。 だが、他の二人からは今も多くの思考が寄せられてきている。
そこにあって、見えない。 深い霧に沈む街並みを遠くから睨み付けているような、そんな感覚が、エルフの女性を眺めていると脳裏を突く。
聞いたことがある。 森人族の中で、特に神聖な存在……彼らは、この世に生きとし生きるものの声を聞くことが出来る……と。 そして、彼ら自身は、その心を他人に晒すことはない。
ならば、自分は森人族なのか。 いや、彼は、人間なのだ。 それだけは、間違いない。
そんな彼を見て、エルフの女性は盛大に顔をしかめ、次いで軽蔑と嫌悪を顕にした。
「畜生の分際で、私たちの心を覗こうだなんて。 ……覚悟なさい」
心を覗いていることに、気付かれた。 彼女は迷いなく背中の短弓を構え、滑らかな動きで矢を添えた。 ナナセと呼ばれた少女が、驚いて水面から足を引き上げた。
「まっ……!!」
声を上げる間もなく、弓弦が引き絞られ、一直線に彼の元へと鏃が突き進む。
その先にあるのは、彼の、左目。 鋭く虚空を破る音が耳に届いた瞬間、彼は咄嗟に顔を腕で覆った。 直後、腕から這い上がる激痛に、彼は悶絶の声を上げた。
グラつく視界で、彼は己の腕に深々と食い込む矢を見た。 痛みに喚く間にも湖の向こうから銀色が煌めく。
横腹に鏃が突き刺さる。 矢から仄かに香る木の匂いが、斬り裂かれた脂肪の間から零れる血の臭いに濁された。
「ラフィ!! いきなりそんな! 今あの人何か言おうとして……」
「何を言ってるのナナセ。 あれはオークよ。 蛮族よ……言葉なんて通じない。 背中見せたら、殺されるわ」
「いいよ。 やっちゃえラフィアナ」(ナナセはお人よしだなぁ。 化け物に同情なんて、馬鹿みたいだよ)
まずい、殺される。 道を聞く、街へ連れて行ってもらうなんてもってのほかだ。
彼らに聞く耳などない。 ナナセと呼ばれた少女が青ざめた顔で止めようとしているが、態度が弱く、とても殺気立ったあの女性を止められるとは思えない。
とにかく、この場を離れないと。 踵を返して走り出した彼だったが、その幹のような太ももに、またしても矢が突き刺さった。 体勢を崩した彼は、額を木の幹に激突させながら地面に転がった。 視界に朧が掛かり、殺されるという恐怖に内臓が浮いた。
「いつもの威勢はどうしたの? 豚鼻鳴らして足掻きなさいな。 さて、次はどこを撃ち抜いてやろうかしら」
「それなら耳を狙ってみてよ。 エルフは弓の名手なんでしょ?」(ははは、転んでる。 だっさ。 群れからはぐれた間抜けにはぴったりだけど)
ぼやける視界の先で、唇を歪める少年と女性の姿が、嫌にしっかりと見えた。
隔てた距離以上のものが、両者の間にはある気がした。 再び迫る、銀閃。
体を転がして、寸でのところで矢を回避する。 側の木に手を当てて辛くも立ち上がり、足を引きずりながら、木の幹に隠れながら森の奥へと急ぐ。 遮蔽物が多いこの場所なら、これ以上弓の追撃を受けることはない。 木の幹と傷に足を引っ張られながら、彼は息も荒く急ぐ。
そんな彼の前に、人影が浮かび上がる。 大きい、彼と同じくらいの体躯だ。
慇懃無礼な歪みを見せる金色の双眸。 髪は赤く、質の高い白の軽装備に身を包んでいる。 背中には大量の荷物で膨らんだバッグ……そこからロープがはみ出して垂れていた。 湖にいた冒険者の一党の一人だと、直ぐに分かった。 彼の心の声から、ナナセ、ラフィアナ、カナタという名前が出てきたからだ。
「あぁ?」
男は不機嫌そうな顔で彼を睨み付ける。 豚のような見た目をした男、仲間が放った弓が突き刺さった男、彼らが受けた依頼。 この男に、彼がどういう風に見えたか。
男の虫の居所は悪かった。 必要物資の買出しに行かされたのが気に入らなかったらしい。 男の頭の中に、殺すという言葉が過る。 彼の心臓が不気味な拍動をすると同時、男は担いだ荷物を投げ出した。 不穏な風が流れる。
「テメェか。 蛮族のくせに、人様に迷惑かけやがって」
「それは……ゎ、ぼ、ぼくじゃ……ない」
「あぁ?」(こいつ、今喋ったか? 気味が悪い。 豚の分際で俺たちの言葉を使うな)
弁解は、男の機嫌を悪い方へ導いただけだった。
男は明確な殺意を胸に、何の気もなしに呟いた。
「『神装をこの手に』」
彼は目を見開いた。 男の周囲に、突如として火の粉が飛び散った。 火の粉は量を増やしていきやがて燃え盛る炎へ。 水気の多い森の中で、決して何もなく起きていい現象ではない。 炎は轟々と地面を燃やしながら、男の体を包み込む。
そして、弾ける。 多量の火花が彼の服と肌に飛び移り、彼は慌てて後ずさった。
男は、自分の体を覆う深紅の鎧を指先でつつき、調子を確かめた後に背中に現れた剣を抜き放った。 男の姿は、一瞬で高潔で勇猛な戦士へと変わっていた。
大地を砕き割る巨人のような迫力が、男にはあった。 地面に落ちてちらちらと燻ぶる火が、彼の心を焦らせ、足を引かせた。
「『神装』……」
この不完全な世界を見下ろす残酷で性悪な至高神たち。 彼らが信心深きものたちに与える奇跡……その中で最上位に位置するものが、『神装』。
至高神の力の一部を分け与えられ、生きとし生きるものは戦場を踊り舞う猛者となる。
さしずめ、男を愛している神は、炎の至高神か。
男の体が俄かに動く。 重厚な鎧と大剣を背負う体は、至高神に背中を押されて風のように彼との距離を詰めた。 掲げた刃に、深紅の炎が宿る。 単調であるからこそ、その素早さに対処するのは困難を極める。
だが、彼は知っていた……その攻撃が来ることを。 男の曝け出された意思が、彼にその攻撃をしきりに予告していたからだ。
だからこそ、彼の体は男の刃が振り下ろされるよりも先に横合いへと逃げ出した。
遅れて巨大な凶器が虚空を斬り裂く。 そのまま、刃は地面に激突し――
「!!」
爆ぜた。 半身が焼けつくような痛みに襲われ、視界が赤く燃える。 爆音が耳をつんざき、ぐるりと世界が回る。 一、二秒宙を舞った彼は地面にぶつかり、その勢いのまま大木に身を打ち付けた。体に刺さった矢が食い込み、彼は喘いだ。
痛い、苦しい、起き上がりたくない。 彼の感じた恐怖は、しかし、そんな気持ちを押さえつけて彼を即座に立ち上がらせるには十分だった。
男は苛立っていたが、動きは緩慢。 男がゆっくりと爆心地から剣を引き上げる間に、彼は振り返って足の痛みを黙らせ、全速力で駆け出した。
『神装』で強化された肉体なら、彼に追いつくことは容易いだろう。 男はそれを知っていながら、追いかけることもまた自分をイライラさせるだけだと割り切って、その場から動かなかった。
☆
どれほどの距離を越えたか。 思ったより短かったかもしれない。 長かったかもしれない。 苦悩の道のりだった。 何故こんな目に。 己の醜い容姿を恨んだ。
やがて彼は、太陽の光を全身で浴びた。 森から出たのだ。 追っ手はない。
目の前にはだだっ広く横たわる緑の絨毯。 見渡せば、ぽっこりと盛り上がる緩やかな丘や、緑を分断する刈り取られた黄土色の小道があり、それは彼方に小さく見える牧場へと続いていた。 風車が見える。
早足で小道へと向かい、牧場へ向かうことを決める。 体が痛い。
火傷も酷く、走っている途中で引き抜いた矢のあった箇所からは血が止まらない。
小道には、古ぼけた看板が今にも倒れそうな頼りなさで佇んでいる。
看板は森を指差し、『エシュナシーアの森』と小声で説明していた。
追っ手から逃れたことで脱力した体を引きずるのは、かなりの苦労を伴った。
それでも、陽が頂点に昇るころには、彼は何とか牧場に辿り着く。
馬の蹄の音が遠くで聞こえる。 放牧場の中で彼に気付いた牛たちが、威嚇するように鼻を鳴らし、前足で地面を引っ掻いた。 彼に駆け寄って来た白毛の犬が、毛を逆立てて吠え立てる。 搾りたての乳で一杯になったバケツを抱えた牧場の娘が、喧騒に気づいた。
「ひゃっ……!! オーク……!!」
少女は彼を見るなり顔を青ざめさせ、バケツを取り落とした。
(か、家畜を守らないと)(お父さんに知らせて、それで)(こ、殺されちゃうかも)
心の中から聞こえる声は、恐怖で瞬く間に埋め尽くされた。 こんな状況で傷を塞ぐ布なり軟膏や薬を借りるのは無理だ。 いたたまれない気持ちが後押しして、彼はそそくさとその場を離れた。 牧場を越えた先には、大きな街が見える。
あそこなら、薬屋の一つや二つはあるだろう。 先ほど懐を漁ったが、銀貨が六枚ほど出てきた。 今は距離が離れていたからオークに間違われただけだ。 あの町に行けば、人間であることなどすぐ分かってもらえる。
☆
この街では数年前に街全体を覆うほどの大火事があったらしい。 街の外れは未だに復興中であった。
それでも街の中央にある広場から伸びる大通りには出店が多く並んでいる。 目的のものを探すのに苦労はしないはずだった。
そんな中、彼は今、好奇……いや、強烈な嫌悪の視線と言葉に曝されていた。 近衛騎士育成学校を抱えているらしい街は人で溢れかえっているが、彼が歩くと周りはさっと人が掃けていく。
街には『鉱夫族』……ドワーフや、『森人族』、蜥蜴のような見た目をしたもの、鳥の羽を生やしたもの、人間から見れば異端も大勢いるのに、彼の目立ち方は一際だった。
(気持ち悪い。 化け物のような見た目をしている)(何あれ、オークじゃないの)「パパ、あれ何て言う種族なの?」(目が合った、殺されるんじゃないだろうな)「うわぁ」(目も不気味だ)(冒険者に討伐の依頼をしようか。 それとも自警団でも呼ぼうか)(気味が悪い。 神に見放されて生まれたんだろう。 町をうろつきおって)「あれ人間なのかな……?」「バカ言え、あんな歪んだ人間いるかよ」「ちょっと、聞こえちゃうよ!」
絶え間なく押し寄せる罵詈雑言。 それが人々の口から実際に漏れたものなのか、心から聞こえてきたのかすら分からない量の悪意が、彼の頭を掻き混ぜた。
「いつからこの町は闇の至高神に支配されたんだ?」「ははは」(町から出ていけよ)(オークめ)「オークだろう」
頭が痛く、気分が悪い。 蔑みの目、嘲る興味。 油断すれば吐いてしまいそうだ。
早く町を出たい、そう願って治療できるものを売ってそうな出店を探した。
彼が目に止めたのは、果物屋の隣に出ていた少し怪しげな出店だった。 諸外国からかき集めただろう骨董品の数々に紛れて、ビンに入った液体も見えた。 どこで見たのかは覚えてないが、あれは『神々の遺産』が混ぜられた秘薬だ。 飲めばたちまちに傷も癒える……本物ならば、だが。
出店の前に立つと、細身で鋭い目つきをした店主が露骨に怪訝な顔をして彼を見上げ、やがてボロボロの彼を見回して意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうした、冒険者に狩られかけたか? 身を隠すなら養豚場にでも行ったらどうだ?」
この男、どうやら包み隠さないタイプらしい。 彼は唇を噛んでコインを握る手に力を入れた。 秘薬を見つめる彼に、「オークに理解できるものは置いてないぞ」と、男はニヤリと笑う。 指をもたげる。
「そ、それを……」
「化け物!!!!」
彼が秘薬を指差そうとしたとき、溌溂な罵声が彼の動きを止めた。 見下ろせば、ちっぽけな少年が、彼の顔を見上げながら笑顔で指差している。 周囲に、どっと笑いが起きた。 水を得た魚のように、心の中で留まっていた侮蔑が喉を通って口々に彼を責め立てる。 町を出ていけと、彼を脅す。 称賛を受けた少年は、ニコニコ笑っている。 店主は、「お前に売るもんはねぇよ」と、周囲の爆笑に混じっている。 顔に熱が込み上げる。 石が投げられる。 彼は、目じりに溜まるものを堪えながら、走り出した。
☆
青い空に、白い雲を少々。 陽射しは控えめに、最後に風をまぶせばいい陽気になる。
世界は今日も幸せそうだ。 なのに、彼の心は酷く打ちのめされていた。 流れ落ちる血の川が、丘の下へ延々と伸びている。
慈悲なき拒絶。 心の声は容赦ない。
彼は来た道を戻り、森を出たときに見つけた小高い丘を目指した。 丘のてっぺんには小高い木が一つ傘を差している。
彼はそこに腰かけ、膝に顔を埋めた。 苦しかった。 同じ人間なのに、誰も彼を認めない。 それどころか拒絶と嘲笑に回る一方だ。
丘から見える町は見るからに活発に動いている。 彼らは町に迷い込んだ醜いオークのことなどもう忘れてしまっただろう。 自分が誰かを刃物で切りつけたことなど、彼らの記憶には残らない。
悲しかった。 切りつけた人間たちは平然として、彼の苦しみを理解できるのは世界で彼一人。 世界の片隅でうずくまり、彼らの世界はそれを無視して今日も回る。
ああ、なんて――
彼が虚しい言葉を浮かべようとするより先に、彼の視界に一人の人陰が映り込んだ。
(あら、珍しい。 先客がいるなんて)
その人陰は、丘の下で彼のことを見上げていた。 心の声から察するに女のようだが、黒いローブを目深に被っているせいで顔がよく見えない。 どうやら、彼女のお気に入りの場所を取ってしまったらしい。 だが、彼は勝手にもこっちへ来るなと願った。
しかし、願い叶わず彼女は小高い丘を登り始める。 そして、ある程度近づいたとき、彼女は彼の異変に気付いた。
「!! 大丈夫ですか!?」
彼女は急いた様子で彼に駆け寄った。 弓に射抜かれ、炎に焼かれ、石を投げられた豚の有様は、さぞ無様だっただろう。 ローブの隙間から、金色の髪と青色の瞳が見える。
見覚えのある組み合わせだな、と彼が失った記憶に尋ねていると、
「まあ、何て酷い怪我……! 早く医師に診てもらわないと! 近くに街があります、さあ……!」
彼女は牧場の先の街を一瞥すると、彼の太い腕を両手で握った。 街へ連れ戻そうとする彼女に苛立ち、彼はその華奢な腕を力強く振り払う。
勢いでローブがはだけ、彼女の髪が太陽の光にふわりと晒される。 拒絶を示した身にも関わらず、彼はそのウェーブの掛かった金髪を美しく思った。 陽の光をキラキラと反射するその髪は、逆に太陽の光をさらに強めているようだった。 前髪の一部を編み込み、その横で優しい青の瞳が心配げに彼を見下ろしている。 それだけで注目を集める、美女だった。 首には、八面に切り揃えられた水晶がぶら下がっている。 彼は、ふと自分が苛立っていたことを思い出し、言う。
「どうして街に行かなきゃいけないんですか」
「どうしてって、怪我を治さないと! だから早く街に――」
「そんなの、怪我を増やしに行くようなものじゃないか!!」
わずかな沈黙。 彼女は目を見開いて、動きを止めた。
「その怪我は、あの街の人が……?」
彼は、肯定を示すように顔を背けた。 先ほどよりも長い沈黙がそれに続く。
それから、数十秒の後。 目の前に人間がいることに落ち着きを無くして彼女を見た彼が、今度は目を見開く番だった。
彼女の瞳から、一滴の涙が流れていた。 足が震え、彼女の体が頽れる。 唇を噛み締める彼女は、何かを強烈に憎んでいた。 聞かなくても分かる、彼には彼女の心の声も筒抜けなのだから。
「何て、愚かな……」
人間の醜さ。 それを彼女は悲しく思い、それ以上に憎んでもいた。 そこに来て、ようやく気付く。 口先だけでなく、彼女が、その広い心の中で、わずかでも、彼の容姿に対して負の感情を抱いていないことを。 彼の目をしっかりと見つめてから、彼女は深く頭を下げた。
「本当にごめんなさい。 彼らに変わって、私に謝らせてください。 同じ人間なのに、酷すぎます……。 必ずや、償わせます。 ……彼らのことが、憎い、ですよね」
彼女の真摯な言葉と態度に、彼は先ほど彼女の手を強く振り払った自分を恥じた。
あなたが謝ることじゃない。 そう口にしようとした矢先、彼女は顔を上げ、膝を擦らせて彼との距離をぐいっと近づけた。
その秀麗な顔に見惚れている内に、彼女は前屈みになって右手を差し出す。 その五つの指先で、彼の胸板に、そっと触れた。
「動かないで」
風が吹くような優しい声は、されど獅子の如き威圧で彼の動きを止めた。 そして、唱える。
「『彼方の御方へ、愛しき貴方へ、光の至高神へ。 その大いなる御慈悲を癒える光に、その指先で我らをお救いください』」
彼女の手に、小さく柔らかい、白の光が宿る。 その光は、指先を伝って彼の身体に移り、そのまま体全体へ広がっていく。 程よい眠気を伴って、心地のいい感触が傷を癒していくのが分かる。 今もこの世界を見下ろす至高神。 その神に、彼女の願いは聞き届けられ、『奇跡』として舞い降りたのだ。
全能の神にかかれば、弓矢に抉られた傷も火に炙られた傷も、大したことではない。 いつの間にか閉じていた目を開く。 体を苛んでいた重みと痛みはどこかへ消え去り、依然醜悪な見た目はどうにもならないにしても、傷は消え去っていた。
ところが、彼の傷を一瞬にして消し去った彼女は、曇った顔をしている。
「あ、ありがとうございます……」
「いえ……天上の御方は、心の傷までは、癒してくれませんから……」
彼女は、彼の心に入ったヒビを、憂いていた。 彼の心を槌で打ち付けた人間の悪意を憎みながら。 彼女の中は、彼に対するいたたまれない気持ちと人間たちの傲慢さを恨む気持ちでいっぱいだった。
だからこそ、聞かずにはいられなかった。
「あの……ぼくのこと、醜いとは思わないんですか?」
「何故?」
「何故って……だってぼくは人間なのにこんな見た目だ! ぼくだけがこんなに醜いじゃないですか! 気味悪いと思うでしょう!? ぼくだって自分のことをこんなに……」
「…………。 隣に座ってもいいですか?」
続きを言えなかった彼は黙って頷いた。 彼女は嫌がることなく肩が触れるほど近くに腰を下ろす。
「この世に生きるものは全て、見た目で判断できる……でも、それを正確に判断できる人間は、限りなく少ない。 私はそう思います」
彼女は彼の顔を……否、瞳を真摯に見つめて、微笑んだ。 聖母のような微笑みという表現が生まれた理由を、彼はこのとき知った。
「あなたは、とても優しい目をしています。 他人を思いやり、人の痛みや苦しみを分かち合える、そして未だ何にも染まっていない、純粋な心を持っています。 とても、美しい人です。 そんなあなたを、何故醜いと言えるんです。 あなたも自分のことをそんな風に言ってはいけませんよ」
自分でも自分のことを何も知らないのに、彼女は彼のことを分かったように言う。
しかし彼は、それが間違いだと胸を張って言うことは出来なかった。
彼女は、何よりも人の目をよく見ていた。 心を覗いているからこそ分かる。 彼女は容姿にまるで目を向けていないわけではない。 彼の見た目が人間にしては珍しい程度のことは思っている。 だが、それ以上は何もない。
彼女は、彼の目を見て、内面を推し量り、彼という存在を判断し、優しいだなんだとこそばゆいことを言っているのだ。 彼女にとっての美しいという評価が、ただ内面にしか向けられていないことを知った彼は、彼女の美しいという評価を皮肉とは思わなかった。
彼女という存在に惹かれている自分に、気付く。
「あ、あの……あなたの名前は?」
「私はエセリア=ネーヴァ=メセトニア。 一端の冒険者ですよ」
ニッコリと笑って、彼女は軽軽と王族の名を名乗った。 彼の中の眠っていた記憶にその名前が引っかかり、知識が広がる。
一端の冒険者、そんな矮小な存在じゃない。 人間の生存域に乱立する国家を席捲する女帝国家、神峰メセトニア帝国の第二王女ではないか!
金色の御髪と青色の双眸、この国の王族のみが持つ色だ。 そして、光の至高神の奇跡を享受できるのもまた、この国の王族にのみ為せる技。 彼があまりに尊大な存在を前に困惑するのを察して、彼女は――エセリアは、「気を遣わなくて結構ですよ。 今は本当にただの冒険者ですから」と釘を刺した。
どこかで聞いたことがある。 失踪した第一王女に変わり、次代の女帝と謳われた第二王女。 そんな王女は今、王位継承権を放棄して冒険者をしているとか。
「な、なんで冒険者なんか……」
問いかけに、エセリアは微笑んで遠くの街を眺めた。
冒険者。 世界を切り開き、依頼を受けて雑用でも戦でもこなし、財宝を求め、危険を顧みずに毎日を生き繋ぐものたち。 充足した生活を送る王族がやりたがる仕事ではない。
ただでさえ、野蛮だならず者だと言われる職種なのに。
「……冒険者ギルドには、毎日たくさんの依頼が来ます。 それは人々の苦しみの声であったり、訴えであったり。 そしてそれ以外にもこの国の法や秩序では救えないものが、王宮の外にはたくさんあります」
彼女の頭の中に、人々の苦悩の表情と笑顔が浮かんでは消える。 救いを求める顔、そして彼女が救った人間の笑顔だった。
「どんなに善良な王が上に立とうが、傷つく人たちがいる。 だったら私は、王になるよりも、王の御手では守り切れなかった人たちの笑顔を守りたい。 そう思ったんです」
エセリアは彼のことを優しいと言ったが、彼女のそれは彼の比ではないと思った。
今もどこかで悲しい運命に打ちひしがられる人間に思いを馳せることができる人間。
もはや神の慈愛に近い。 そんな彼女の意識は今、彼に向けられていた。
「…………人間が、憎いですか?」
街を見据えるエセリアの口から、そんな言葉が漏れた。 彼はその質問に真摯に向き合ったが、エセリアと出会ったからだろうか、はい、と言うことが出来なかった。
「人間は、その浅ましい自意識を正義と思い込み、人を傷つける。 差別する。 見た目、性格、暮らし……皆が皆全部違うのに、人々は異端を恐れ、毛嫌う。 恐れや嫌悪は集まって膨れ上がると、ただの醜悪な、正義の皮を被った暴力へと変わってしまう。 人間は、そういう生き物です。 私は、そんな人間の弱さと傲慢さを憎みます」
きっと、旅の中でそういう光景を何度も見てきたのだろう。 彼女の頭を過る凄惨な風景に、彼も歯噛みする。
「じゃあ何で、旅を続けてるんですか? 人間を憎んでるのに、何故人間を助けるんですか?」
何か変なことを言っただろうか。 口元に手を当ててクススと笑うエセリアを見る。
「変ですよね。 私は、人間の弱さや醜さを憎んでいます。 でも、人間のことは愛しています。 憎しみと愛は共存するんです。 もしあなたを傷つけた人間が不幸に陥ったら、全力で力になるでしょう。 しかし、あなたを傷つけたことを、私は許さない。 良心と悪意が、人の中にはある。 私は人の悪意を憎み、人の良心を心の底から愛しています。 あなたは、さぞつらい思いをしたでしょう。 でも、どうか、人間を、人間そのものを、憎まないでください」
「……人間の良心って、そんなにいいものなんですか?」
記憶を失い、目覚めてから彼に押し寄せたのは、悪意の塊。 彼女の言う、良心が、分かるはずもない。
「はい。 良心……良き心、優しい気持ちを、皆が持っているはずです。 人を愛し、助けあい、笑いあい、損得を気にせずに手を差し伸べる。 彼らにはそれができる。 とても、いいものなんですよ」
そう言うと、エセリアは静かに瞼を閉じた。
「人々の悪意に触れすぎて、自信を無くすときがあります……彼らは本当に守る価値のあるものなのかと。 そういうときは、こうやって瞼を閉じるんです。 瞼の奥には、いつだってその人が大切にしているものが映るんです。 それを見ると、やはり、彼らは、素晴らしいものだと思えるんです」
思いに耽るエセリアの、瞼の奥の風景が、彼の脳裏にも過る。
笑いあう人々と、それに混ざるエセリア。 田んぼ作業で転げた人に手を伸ばす人々、酒場で大声で語る酔っ払いたち、どこかの舞踏会で踊る人々、そして――
『姉さん、姉さん』
どこかの花畑。 金色の髪を二つに結んだ幼子が、エセリアに花飾りを渡そうとしてニッコリと笑っている。 「まぁ」と大げさに喜びながらエセリアはそれを頭に受け取った。
風に乗って流れる、二人の笑い声。 毒気は抜ける。
「確かに、悪いものじゃないかもしれませんね」
それを聞いたエセリアは、「嬉しいです」と、優しく微笑んだ。
人間の良心そのもののようなエセリアに触れたからかもしれない。 彼女の頭の中に流れる思い出の風に、彼の心に芽生えかけた怒りの産声は流され、そのまま消えていった。
「あなたには、何が見えますか?」
「え?」
「瞼の奥に、何が見えますか?」
記憶を無くした彼に、何かが見えるわけがない。 しかし不自然に思われるのを嫌った彼は、慌てて目を閉じた。 予想通り、何も見えてこない。 暗闇が広がるばかりだ。
居心地の悪い彼の耳の側を風が吹き抜ける。
「あの、ぼく、記憶が――」
ないから何も見えてこない。 そう言葉は続かなかった。
彼が眺めていた暗闇の中で、小さな星々がキラキラと光っていることに気付いたからだった。 彼が眺めていたのは、瞼の裏ではなく、どこまでも続く星空だった。
瞼の奥に、景色はあった。 星の煌めきは増し、その数も増えていく。
漆黒の暗闇を深い群青に染め上げ、その真ん中を膨大な星々で作られた河が流れていく。
何と、美しきことか。 見えていない星がないのではと思うほどの満天の空。 他には何も見えない。 街の明かりも、活気のある声も。 それが少し寂しく思えたが――
「星、だ。 星だ! 星が見えます!」
感嘆の声が出るほどに、その空は澄んでいて綺麗だった。 何より、自分の中にまだ知識ではない何かがあったことが、嬉しかった。
「それが、あなたの大切なものなんですね……とっても素敵ですね。 そういえば、最近星を見上げてないなぁ」
エセリアの声に、彼は何度も首肯した。 そんな彼に、彼女はまた声を掛ける。
「――それで、記憶がどうしたんですか?」
先ほど区切った言葉を、しっかりと聞いていたらしい。 彼は目を開けて、エセリアを見た。 優しく、大らかな瞳。 彼女なら、話しても構わないだろうと思った。
彼は話した。 自分の身に起きたこと、手紙のこと、記憶のこと。 その間、エセリアは「大変でしたね」、「そんなことが」と相槌を打ってくれた。
「自分の名前も、思い出せないんです……自分がどこで何をしていたのかも」
エセリアは目を閉じていくつか頷いている。 彼女は、思考の全てを使って彼に何が起きたのか、起こり得る事由を考えていた。 例えば、魔法使いに記憶を消された、とか。
しかし、流石に真実は分からなかったらしい。 代わりに、こう尋ねた。
「記憶を、取り戻したいですか?」
「……。 はい。 ぼくは、自分が何者なのか、知りたいです。 ぼくに手紙を出した人は誰なのか。 ぼくが……誰を傷つけてしまったのか」
少し考えて、彼はそう答えた。 それを聞くと、彼女は立ち上がり、丘を少し下って、彼を振り返る。
「では、私と旅をしませんか?」
「え?」
「あなたの記憶を取り戻す旅をしましょう、私と。 私が旅を始めたのは、あなたの役に立ちたかったからなんですよ。 それに、あなたが何者であろうと、私は最後の最後まであなたの味方ですから」
たおやかな微笑みに、甘えたくなる。 でも、甘えてばかりではいけない。
そうは思った彼であったが、彼は自然と頷いていた。 エセリアは笑う。
「ふふ、ではこれから私たちは、命を共にする仲間ですね。 そうだ。 全てを取り戻すまで、名前がないと困りますよね……うーん」
顎に手を当てて悩ましく唸る彼女の様は、やはり上品だ。 彼女の頭の中では、多くの名前が取捨選択されていた。 ムサシマルという大変ユニークな名前が優勢になったときは、ヒヤヒヤしたが。 やがて彼女は、「そうだ!」と、顔をパアっと輝かせた。
「マブタ。 あなたの名前は、マブタ。 誰にでもある、目を閉じると浮かぶ心の拠り所……弱い人間を支え、抱く、そんな場所。 優しい目をしたあなたに、ぜひこの名を」
「……ありがとうございます。 そんな名前の似合う人に、ぼくもなってみたいです」
彼は……マブタは、このとき、初めて口元を綻ばせた。
「やっぱり、いい笑顔ですね。 もっと、あなたの笑顔を見てみたいです」
そう言ってエセリアが伸ばした手を、マブタはしっかりと掴んだ。
☆
エセリアに手を引っ張られる旅は、寄り道ばかりだった。 迷子の子どもの道案内、落し物の主を探す、そんなものは日常茶飯事。 『小鬼族』……ゴブリンの退治、商行人の護衛、失踪人の捜索、下水のネズミ退治、それらの仕事も無償で請け負うのだから、呆れたお人よしだと思った。 それでも、そんな旅は楽しくて、カツカツのやりくりのせいで少しくすんだエセリアの金髪も、愛おしかった。
世界は美しかった。 彼は道程でそれを知った。
挫折することもあった。 どこへ行ってもマブタへの差別は酷かったからだ。 王女の手前マブタを立てる人間も大勢いたが、剥き出しの内心はマブタを酷く罵っていた。
そんな彼を、エセリアは毎日慰めてくれた。
「いくら人間の良心を愛しているからって、どうしてそこまで人間のことを守ろうとするんですか!?」
ある日彼はこう尋ねた。 エセリアは、地母神のような笑みを浮かべて、こう言った。
「それはね、マブタ。 私があなたのことを、大好きだからですよ。 私も、心が折れそうになるときがあります。 そういうときに、そう考えるんです」
多くの人間に出会った。 多くの悪意と敵意を見た。 それでも彼の旅は幸せだった。
エセリアがいてくれたからだ。 彼女が笑うと、マブタも笑う。
☆
「私の前から消えなさい。 その穢れた魂を、至高神様の元へ還されたくなければ」
この国では、よく伝わる話だ。 王族にしか許されない光の奇跡。 この奇跡を享受できるものは、その一挙手一投足を神聖なものとされ、“殺人すら法の下に許可される”。
エセリアがいない間にマブタを痛めつけていた町人に対し彼女が放った言葉は、血の気が引くほどに冷たかった。
エセリアの周りには光の粒子が彼女を祝福するようにキラキラと舞い、純白の『神装』が冷徹な殺意をありありと浮かべていた。 手に握るは金色の刃に青い刀身を構えた聖剣。
あまりの気迫に、失禁する男すらいた。 引き締まった瞳孔に、慈愛はない。
「慈悲を乞いなさい。 己の愚行を憎み、私の顔を決して忘れるな」
彼女の見せる優しさは、誰にでも向けられる本物の愛であり、また、彼女の見せる冷酷さは、本物の『罰』であった。
彼女は、人間の醜さを前に、容赦はしない。
「この世には、決して許してはいけない悪がある。 そんな悪に嬉々として身を委ねる人間がいる。 一線を越え、それでもまだ止まろうとしない邪悪に対峙したとき、私は剣を抜きます。 そんな罪人に与える慈悲は、そうなった過去を憐れむことだけで十分です」
後にそう語ったエセリアを、語りながら震えていた彼女の手を、マブタは包むように握り締めた。 英雄は、孤独でいてはいけないのだ。
☆
「ぼくはどうして、こんな見た目なんでしょうか……?」
布団の中で向かい合い、エセリアの秀美な顔を眺めていたマブタの口から、ほろりと零れた言葉だった。 エセリアは手を伸ばして、掌でマブタの頬を撫でた。
「あなたを見ていると、不思議な気持ちになります。 その見た目はまるで、誰かに仮面を被らされているみたい……」
☆
「マブタ」
メセトニア中を歩き回った彼らだったが、遂にマブタを知っているものや彼の記憶を刺激するものは現れなかった。 しかし、マブタは絶望はしなかった。 その逆だった。
「もし私が死ぬことがあったら、お願いしたいことがあるんです」
二人は、二人が最初に出会った小高い丘にやってきていた。 傘を差す木の幹に二人で背中を預けているときに、エセリアは胸の青い水晶に触れながらそう呟いた。
「私には、妹がいるんです。 いえ、妹はたくさんいるんですが……その中で、ルイという、妹がいまして。 あの子はあなたに似てるんですが、危なっかしくて、私のことを愛してくれて……そして、憎んでいるんです。 私の、世界で一番大切な人……でも、私ではあの子を救えなかった。 それどころか、私のせいで、あの子は……」
目には憂い。 エセリアの頭の中に浮かぶ顔は、あのとき花飾りを彼女に渡した少女のものだった。 彼女が弱音を口にするのは、珍しい。
「だから、私に何かあったときは……あの子のことを、頼みたいんです」
「もちろんです。 エセリアさんの頼みを、ぼくが断るわけないじゃないですか」
マブタは快諾した。 彼女にもらった恩は、そんなことで返せるものじゃない。
でも、と前置きして、マブタは言う。
「そんな淋しいこと、言わないでくださいよ。 ぼく、まだまだエセリアさんと旅がしたいです。 ぼくの記憶を、取り戻してくれるって、言ってくれたじゃないですか。 じゃあ、今度二人で妹さんに会いに行きましょうよ」
「……そうでしたね。 私も、もっとあなたのことを笑顔にしたい」
彼らが出会ってから、早三か月。 エセリアに出会えてなかったら、どんな地獄が待っていただろう。 道を踏み間違えていたかもしれない。
「マブタ。 私はあなたが、大好きですよ」
エセリアとの旅路は、荒波打ち付ける嵐の中でも、優しく、愛に満ちていた。
……そして、彼は今、
「――――エセリアさん!! エセリアさんッッ!!!!!!」
燃え盛る街の中で、彼女の名を呼んでいた。




