憎しみという悲哀
どうやら、先の事件からマブタは丸三日ほど寝ていたようだった。 サンティに案内してもらい、マブタはルイたちのいる森の奥へ堂々と踏み込んだ。
「ぼくと街に行きましょう!!」
ルイがマブタに怒りの一瞥を向けるより先に放った言葉は、逆にルイの目を丸くさせた。
返事をするよりも先に、マブタはルイの手を掴んで三日前に訪れた街の方向へ走り出す。
「ちょ、ちょっと!!」
ルイがあたふたと走り、その後ろを金色のツインテールの尾がふわりと追いかける。
そんな二人にサンティが光を灯した手を向け、呪文を唱えた。
レッパとフタバが小さく笑い、スズリとサンティは一つ頷いた。
(改めて、お手並み拝見だな兄弟)
(待っていますよ)
二人の心の応援にマブタは首肯で返し、木々の間を抜けていく。
街までは、半刻も掛からなかった。 無論、走り続けていたので、二人は街の入り口に着くころには汗だくである。 ルイは何度も待ってと声を上げていたが、途中から荒い呼吸だけになった。
「はぁ……あああ……!!」
「ハァ……ハァ……何なのよ……!」
ルイは腕を払おうとするが、マブタは手汗だらけで申し訳ないと思いながらもその手をぎゅっと握り締めた。
小さい手だ。 小さくて、死ぬほど足掻いてきた少女の手だ。
「…………、あなたに、見せたいものがあります」
「……………いやよ」
息を整えたマブタに反応する声は遠い。 恐らくそっぽを向いている。
周囲の賑わいはいつもより少ないがマブタたちを気にも留めない。 彼らが認知できるのは、話し声と足音くらいだ。 この人ごみでは、どこからか聞こえる声の音の元を特定しようとは誰も思わない。 サンティの魔法は今日も活躍の場が多い。
マブタは手をほどけないのをいいことに、ずんずんと街を進んだ。 ルイは腕をリードのようにピンと伸ばしながら引き摺り気味についてくる。
「この前の怪我、大丈夫でしたか」
「アンタみたいな新兵まがいに殴られたぐらいで何がどうなるっていうの」
「そうですか。 ………………手、離さないでくださいね」
「……」
広場に近づけば近づくほど、砕けたり壊れたりしている家屋が目立つようになる。 汗を気にして控えめに触れていたルイの手に、力が籠った。
広場の死んだ色は未だに元に戻っていない。 被害を奇跡的に逃れた露店商人や吟遊詩人は仕事の場所をもう一つの広場に移したようで、ここにいるのはほとんどが近くの住人か野次馬だった。
「第三王女が正体を現したらしい。 闇の力で辺りは無茶苦茶だ」「冒険者たちが懸命に戦ったらしいけど……」「広場に近づいたら闇が移るわい」「エセリア様が知ったらなんとお嘆きになるか」
ルイの手を逃がさないように力を込めようとしたマブタだが、彼女の心にそんな気持ちがないのを聞いて、代わりに鼻から小さく息を吐く。
「……こいつらにとってはいつも、私たちが悪役なのよ」
「この世界に悪意が多く存在しているのは知っています。 でも、これだけ悪意があって、エセリアさんがそれに気付いてないなんてこと、ないと思いませんか」
「どうかしら。 あの人を見たこいつらは、媚びて、胡散臭い笑顔の仮面を被るから」
二人は人々の合間を縫って広場に入る。 マブタは機能を失った噴水や死んだ色には目もくれず広場を横断し、向かいの大通りへと分け入った。
ルイは、自分の言葉を形式的に口にしていただけだった。
「ルイがこの前見たエセリアさんの姿は、そんなぬるま湯に浸かっていた人のものではなかった。 違いますか。 あの人にも、空を覆うような悪意が沢山見えていた」
「……」
「そして彼女は、そんな悪意を決して許さなかった。 いつも、悪意と戦っていた」
「だったら、この世界の奴ら全員あの人の敵じゃない。 守る理由なんてないわ」
「悪意は誰でも持っているものです。 でもそんな彼らを守るだけの理由が、彼らにあったからですよ。 ぼくにとっても、最初は信じがたかった」
広場から離れていくと、野次の声は遠のき、普通の日常が見えてくる。
教会を抜け、街の中心部にある商人ギルドの隣をさらに進み、宛てもなく進む。
「人の心の声が聞こえるのは、悪いことのほうが多いんですよね。 皆ぼくを見ると、トゲのある感情を向けてしまうから。 でも、心の声が聞こえて、よかったこともたくさんありました。 見えていないだけの良心が、聞こえたりとか」
「……良心。 そんなものがあったら、今私はここにいないわ」
「ぼくは、知っていてほしいんです」
水路ではしゃぐ子どもの水しぶきがズボンに跳ねる。
遠くで昼間から酒盛りをするドワーフの声が聞こえた。
「あなたにとって、ショウドウという人は、どんな人ですか?」
「……? ただのクソ野郎よ。 会うたび会うたび、無礼なことばかり」
意図が分からないと言った様子のルイだったが、渋々過去の恨みを思い出して舌に乗せた。
マブタはようやく目的の人物を探し出して立ち止まる。
「それは事実だと思います。 彼は酷い人だ。 でも、ぼくばそれだけの人とは思わない」
ルイもそれに気付き、マブタの手を強く握りしめた。
ショウドウだ。 いくつも並んだベンチに腰かけ、憂い気に空を見ていた。 身体中包帯だらけで、未だ血が滲んでいる箇所もある。 恐らくナナセの光の奇跡は施されているが、それでも完治というにはまだ遠いようだ。
彼に袋を抱えて近寄ってくる少女がいた。
「お兄ちゃん、昨日はありがとう!! これ、お礼の……」
「ああ? 依頼なんか受けちゃいねーよ。 昨日断っただろ」
「で、でも……お兄ちゃんがその後に小鬼を退治してくれて、それで、お母さんを助けてくれたって……」
「悪いがその程度の報酬で動くほど冒険者は安かねぇ。 あれは俺の事情で小鬼を潰した、それだけの話だ。 お前のおふくろは、そのついでだ」
少女はまじまじとショウドウを見上げる。 その視線を無視していたショウドウだが、十秒ほど経ってから少女を見て、それからベンチの隅に寄った。
少女がちょこんとショウドウの横に座り、見上げる。
「…………いいの?」
「何の話だ。 お前に出来る一番のことは、その金で夕飯の買出しでもすることだろうよ」
「……一人で行ったことないなぁ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………どうしよう」
「…………夕飯は何にするんだ」
少女はありがとうとにっこり笑うと、ショウドウの手を取って走り出す。 ショウドウはやれやれといった様子で頭を掻きながら少女の小さな歩幅に合わせた。
ルイの手から、力が抜けていた。 そんなルイの手をしっかりと包みながら、マブタはまた歩き出す。 ルイは、静かについてきた。
しばらく歩いていると、迷子の少年の泣き声に突き当たった。
こういう都市では厄介事も多いものだ。 そんな少年の側を、黒いローブの少年が通りすがる。
少年は立ち止まり、目深に被ったローブの隙間から気だるげに泣き喚く少年を見る。 カナタだ。
カナタは一瞬無視して歩き始めたが、少年の泣き声に後ろ髪を引っ張られまくって観念したらしく、頭を抱えて少年の元へ舞い戻る。 右腕には留め木がくくられていた。
「どうした少年~、男がめそめそしてたらダメだぞ~」
少年は大声を上げながらカナタに状況を説明する。 正直何を言っているか分からないが、迷子という状況はハッキリしているので、カナタは「うんうん」とてきとうに相槌を打っていた。 少年は泣き続け、カナタは頭を抱える。
「しょうがないなぁ。 ほら、注目」
まずは少年を泣き止ませることにしたらしい。 懐から杖を取り出し、少年の視線の真ん中に持ってくる。 カナタの杖に白い光が浮かび、くるくると杖を弄ぶと小さな赤い火が杖の先から現れる。
それはいくつかに切り取られてもっと小さな火の玉の群れになり、さらに杖を振ると火の玉は人型に姿を変えた。 少年の目が丸くなり、最後の涙の粒が落ちた。 人型の火は少年の周りをくるくると回ったり、芸をしてみせたり。 涙を忘れた少年は、次第に笑顔になっていった。 カナタは指揮者のように杖を振るい、人型の火は意気揚々と踊る。
「あら、カナタ。 何しているの?」
「ラフィアナ! 丁度良かったよ」
カナタの技に周囲の人が興味をそそり始めたころ、クリーム色の髪をしたエルフが通りかかる。 彼女も腕に留め木を付けていたが、その他の傷の具合はよさそうだ。
事情を説明されたラフィアナは、少年の前にかがみ、頭を撫でる。
「そういうことね。 お姉さんに任せなさい。 私人探しは得意なのよ」
そう言ってぴくぴくと耳を動かした。 少年はありがとうと笑い、ラフィアナの手を取った。 カナタが安堵して胸を撫でおろすが、周囲に人が集まっているのに気付いてフードを両手でさらに下げ、それでも赤面した顔を隠せないままラフィアナの後を追う。
マブタはルイの手をくいくいと引く。 我に返ったようにルイの手に意識が戻った。
「行きましょう」
空は呑気に青い。 だが、見えないのが惜しいほどに、マブタは手を繋いだ少女の目の方が綺麗だと思う。
「……心の光と闇は、とても複雑なんだということに、エセリアさんと旅をしてから気づきました」
街の出口へと向かいながら、マブタは語る。 ルイは、黙ったままだった。
「彼らの心の中にはいつだって闇と光がある。 誰だって傷つけることもできるし、誰だって愛することができる。 でも実際、誰もを愛することはできないんです。 闇と光は不安定で、誰かを愛することができたと思ったら、他の誰かに牙を剥けてしまう。 自分に牙を剥けるものが他の人にも悪意を向けるわけじゃないし、自分に良心を捧げてくれる人が、必ずしも善人というわけではない。 悪意があるからといって、光を持っていないわけじゃない。 この世界の人たちは皆、そんな光と闇の狭間で必死に生きているんです。 どんな聖人であっても、この空にある全ての星が見えることはない……どこかは闇に覆われているから」
都市の大きな城門を潜る。 反対からやって来た辻馬車の中から、冒険者たちの陽気な声が聞こえた。 舗装された道は遥か彼方まで伸び、その先にぼんやりとした最後の都市の姿と広大な森の地平線があった。
空は果てしなく青い。
「エセリアさんは、彼らの優しい光が見えていた。 それはエセリアさんに媚びるためにつけた仮面じゃない。 彼らがその心から放つ光。 だからエセリアさんは、彼らの光を愛し、悪意を憎んでいた。 悪意と戦い続け、この世界をたくさんの光で満たそうと。 だから、エセリアさんは彼らのために戦えた」
マブタは立ち止まるが、ルイはそのまま呆然と歩いていく。 絡んでいた手が緩やかにほどけていく。 金色の後姿が見える。 彼女もまた立ち止まり、俯いた。
「エセリアさんがあなたを精一杯愛していたように、今も誰かが誰かを愛し、自分の闇と戦っている。 あなたに、この世界が壊せますか? ……本当は心優しい、あなたに」
ルイの手が拳を作る。 風が流れ、金色のツインテールが揺れた。
「…………だとしたら、余計に度し難いわよ」
ルイは背中を向けながらそう言った。
「この世界の光が見えても、私の過去は変わらない。 今も未来もそうよ。 光を知ったところで、これからも私は愛されない。 私が彼らを認めたところで、彼らは私を認めない。 そんなもののために戦う義理もないし、刃を納める必要も感じない」
振り返った若き少女の目は、潤んでいた。 だが、目に蓋がされているかのように涙が零れることはない。 心の声が切なさを訴え、マブタの胸も同じように軋む。
「姉さんは私とは違う……彼らを愛せば、あの人は愛される、感謝される! でも私は違う! 例え彼らに光があったとしても、私の空に星が見えることはない! それなのに、空からは痛い雨ばかり降ってくる!! アンタだってそうでしょう!! 私たちは愛されない!! もう耐えられないのよ!! なのに、どうしてアンタは……!」
胸に手を当てて訴えるルイ。 そんな彼女の姿が痛ましくて、マブタはルイへと歩み寄り、そっと、抱きしめた。 冒険者の匂いの中に、少女のか細い香りがあった。
「ッ、離してよっ」
「離しません」
マブタはきっぱりと言ってみせる。
「どうしてと言いましたよね。 ルイ。 それは……それはぼくが、あなたのことを、とっても大好きだからですよ」
胸を押して抵抗していたルイの手が止まる。 行き場を無くした手が力なく腰に落ちた。
「ぼくはエセリアさんのことが人として大好きでした。 だから彼女がこの世界からいなくなったとき、本当に悲しかった。 あまりにも辛くて、誰もぼくの悲しみを理解できないと思うほどに。 でも、それはぼくだけじゃないと、思いました」
近くをまた辻馬車が通る。 ルイは俯いたままだ。 腰に当てられた両手はマブタの服の裾を小さく摘まむ。 ルイの細い体を内側から溢れる感情のままさらに強く抱きしめた。
「この世界には愛がたくさんある。 繋がった愛が理不尽な死によって引き裂かれれば、誰だってぼくと同じように悲しくなるんだと。 ぼくは、あんなに悲しい思いを誰にもしてほしくないんです。 だから、誰かが苦しんでいるなら、助けたい。 そしてその気持ちは、もっと強くなりました。 ……ルイ、あなたに出会ったから。 ぼくは、この世界の誰よりもあなたのことを愛しています」
マブタは腕をほどき、代わりにルイの両肩を掴んで目を合わせる。 青い瞳の奥には、決して捨てきれなかった思い出が渦巻く。
「ルイだって、エセリアさんを愛している。 彼女への憎しみと同じくらい存在する愛が理解できなくて、歪めて、こうだと無理矢理決めつけて、心のどこかに閉じ込めた愛があるはずです。 あなたにも、大切な人がいなくなることの悲しさが分かるはずです。 そんな悲しい思いを、ルイの手で皆にさせないでください……!」
「私は……私はそんなこと」
ルイの目が、一点を見つめて思い悩む。 マブタの手をするりと抜けて、ルイは背中を向けて数歩だけ前に進んだ。
信じたくない気持ちで溢れていた。 目に見えるもの全てが悪意であった方が、彼女にとっては都合がよかったのに。 マブタが見せた完膚なきまでのエセリアの愛。
そして世界の良心と、自分の愛。 それを暴かれたら、それすらを憎しみで叩き斬る覚悟が必要になる。 本当は心優しいルイに、それが出来るか。
「あなたは、自分がボロボロに傷ついても、限界までエセリアさんの願いを叶えようとした。 今だって、もうエセリアさんはいないのに、ぼくがルイの嫌いな人間であることを知っても、ぼくの記憶を探す旅をすぐそこで投げ出そうとはしなかった。 それは、エセリアさんにお世話になったお返しの感情以上の何かがあるからじゃないんですか?」
「……」
沈黙の間に風が入り込む。 ルイの中の憎しみと良心がせめぎ合って心をすり減らす。
ルイが次に口を開くまでの間、二台ほどの馬車と三組ほどの交易商に吟遊詩人が行き交い、太陽とマブタの間を鳥が二回遮った。
「………………アンタって、優しくて、底抜けの馬鹿ね」
マブタはまっすぐそう口にした少女の背中を見つめる。
「私は……私に向けられない光なんていらない……そんなもの、ないのと同じよ。 光なんて絶対に見えないのに、光があるからって、何故壊してはいけないの? 私は、あなたみたいに優しくいられない。 あまつさえ、悪意だけを憎んで、守るなんて、無理よ」
膨らむのは、敵意。 マブタは、それに気付いてなお、動けなかった。
「彼らの意識は、変えられます!」
「変わらない!! 聖女はもういないのよ!!」
口元が奇跡を紡ぎ、ルイの右手で青い稲妻が奔る。 翳した手の先にいたマブタに一筋の雷が炸裂し、体が跳ねる。 受け身も取れず、マブタは空を仰いだ。
青い稲妻が龍に似て体を締め付け、痺れた体は脳の指令を拒絶する。
青い空の手前に、ルイの荒い息の拍動が聞こえた。 やがて影がマブタの上に覆いかぶさり、青い瞳が悲痛に潤みながら見下ろす。
「エシュナケーアでアンタの記憶の手がかりは見つける。 それが姉さんとの約束だから。 ……その後は、極圏に行く。 だから、アンタとの旅は、ここで終わりよ」
マブタは許されたわずかな挙動で首を左右に振る。 ルイはマブタの腕を肩で支えて持ち上げ、側の大きな岩の裏へ易々と運び始める。
「…………ダメです」
担がれたまま、抗議する。 返事は、どこか諦めたような声色だった。
「アンタのこと嫌いって言って、悪かったわね。 アンタは優しいし、私のことを想ってくれる。 でも、いえ、だからこそ、私と一緒にいない方がいいわ」
「…………あなたは、幸せにならないといけない。 そのために、エセリアさんは、あなたを、守り続けてきたんだ……!」
「……私には、これしか残っていないのよ。 この世界の光も、見た気がする。 姉さんが私に光があると口酸っぱく言い続けた理由も分かった。 でも、この道の先に、私の幸せはないのよ。 結局、私に光が向けられないのが分かってしまったから。 この世界が、私が幸せになることを許さない……私は、自分の過去と、そこに積もった憎しみだけを糧に、この世界に復讐するしかないの……!」
全力を捧げて動いた指先が摘まんだルイの服の裾。 それはあっさりと剥がれ、マブタは岩肌に立てかけられる。
青い瞳がマブタを真摯に見つめて、戸惑いの色を見せた。
「………………どうして、泣いているの」
唇を引き結ぼうとしても、出来なかった。 両目から涙がボロボロと零れ落ちていく。
「ルイがしようとしていることは、不幸なことだから」
「……どうかしら。 復讐したら、胸が空く思いでしょうね。 私はきっと、幸せよ」
「それは……嘘ですね」
目を反らしたルイの視線が、戻ってくる。 マブタは出来ないのに、自分ばっかり歯を食いしばる彼女を、ズルいと思った。
「誰かを殺すことで幸せになろうとする人が、この世界にはいる」 ゆっくりと、語る。
「でも、その人が元々、とっても優しくて、ただ幸せになりたくて、苦しい思いをしたくなくて、堪えて、踏ん張って、がむしゃらにもがいて、それでも行く手を阻まれて、拒絶されて、生き方を削られて、最後に、世界を殺す選択肢しか残らなかったんだとしたら…………復讐をしたとて、その人が幸せだと、ぼくは思えない」
ルイは、マブタの涙から逃げてまた目を反らす。 それでも心を咎める罪悪感と良心に、小さな少女は胸を押さえて目を固く瞑った。
「……私には、これしかないの……今さら、他の選択肢なんて」
目を反らしたまま、ルイは立ち上がる。 涙に詰まって呼んだ名前も、彼女には届かない。 わずかにもたげた手も、虚空を掠める。
「私には、これしかない」 自分に言い聞かせるように、もう一度言う。
「あの日、あの街が炎に覆われたときから……私には、これしか、残ってない。 私は、大勢の人を殺した……化け物よ」
「待って……!!」
しわがれた声で叫んだ言葉も、金色の少女には届かない。 少女の背中は呆然と北へ向かう。 エシュナケーアの森へ。 そしてその先にそびえる、冷たい場所へ。
マブタは動かない体をもがかせて何度もルイを呼ぶ。 声は届かない。 街道を流れる風は、もうルイの香りを運んでくることはなかった。
涙だけが止まらない。 それを隠すように、頬に冷たい感触が落ちてくる。 見上げたマブタの額に、また一滴。 やがてそれは数えられないほどの水の流れになってマブタの体を濡らす。 見上げた空は青いのに、どこからか落ちてくる水は絶え間ない。
ルイを追いかけたかった。 追いついて、抱きしめたかった。
彼女を追い詰める運命が憎くて、動かない体がもどかしくて、エセリアとの約束を果たせない自分がやるせなくて、マブタは空に向かって嗚咽を漏らした。
雨がしばらく降り続いたころには空は曇天に覆われ始め、マブタは雨に打たれる感触も感じなくなっていた。 冷たかった雨粒にすら温もりを感じ、痺れ続ける体は震える指先の嘆きを無視した。 涙は相変わらず流れ続け、マブタの瞳は虚ろに雲の動きを追う。
マブタの視界が、ふと黒い何かに遮られた。
打ち付ける雨がくぐもった音に変わり、思い出したように白い息がマブタの口から零れた。 傘の下で、灰色に水色を滲ませた瞳の少女と目が合った。 服の裾から包帯が顔を出しているが、制服はいつもの変わったものだ。 その少女、ナナセは微笑みを浮かべて、マブタに言った。
「風邪引きますよ」
マブタの目から、涙は流れ続ける。