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マブタの奥に  作者: 裕道 麩葱
第五章『蠢く』
12/20

北で生まれた善意を



――俺は、嘘に負けたのだろう――



「さも知性のあるような顔をしているが、醜く下等な獣だ……小鬼と、何ら変わりない」



 彼には父親がいた。 残忍な父親だった。 だが周りの連中に父親の行為をそう表現するものは一人としていなかった。


 視界は暗い。 父親の身体から噴き出る漆黒の瘴気が辺りを闇に堕としている。

 見上げた父親の表情は見えなかったが、挟んで反対側にいる妹の姿は見えた。


 ハーフアップに纏められた銀髪と、深紅の双眸。 煌魔族の象徴だ。 その唇は幼くも妖艶に歪んでいる。

 目の前で悶絶する人間を見てそんな笑顔を浮かべる妹が恐ろしかった。


 苦しんでいるのは夫婦だろうか。 瘴気が体の中に侵食し、その代わりに大量の絶叫と血を吐き出している。 目、耳、鼻、口、絶え間なく溢れる血に、スズリは暗闇の中でこっそり顔をしかめた。

 男の方が女の上から庇って慈悲を求めている。 彼女だけは助けてくれと。


 父親は言う。 彼らは小鬼と同じだと。 しかしスズリは思うのだ。

 ほんとうにそうだろうか、と。


 男の口から最期の赤黒い血が飛び散った。 その血に映る、銀髪に灼眼の少年。 頬には不気味な紋章。 それが、煌魔族であるスズリの姿であった。



 ――醜いのは、俺たちの方ではないか。



 だから十歳になったとき、彼はこの悪魔の城を出ることにした。





「セセラ。 ここを出よう」

「何故?」



 神殿の入り口で、スズリは妹のセセラ=ラブカフォビアの手を取ってそう言った。 セセラは露出の多い精緻なドレスを纏って瞬きをしながら兄を見上げる。 臍の下部には、スズリと同じ煌魔族の紋章があった。



「親父は間違ってるよ。 中央区と戦争なんて。 敵対するにしても、もっと別の方法があるだろう? あんな…………親父は虐殺を愉しんでるだけじゃないか。 俺たちに嘘を吹き込んでるんだよ」



 小声ながら力を込めてスズリは妹を説得しようとした。 しかし、妹は瞠目して瞳を冷え切らせ、口元を小さく歪めた。



「まあ、イケナイお兄様」



 少女は見た目にそぐわない握力でスズリの腕を掴む。 ミシミシと音を立てる自分の腕に、スズリは顔を引きつらせた。



「何故そんなことを言うのです? セントラルなど、ただの害虫の巣。 害虫と話し合いだなんて……ああ、お父様が聞いたらなんとお嘆きになるか……」

「……ッ、離せ……!!」

「いけません、私の愛おしいお兄様……気が触れてしまわれたのですね。 私が元のお兄様に戻して差し上げないと」



 少女の身体から黒の瘴気が溢れ出す。 瞬間、肌が裂けるような痛みに苛まれる。

 寒いのだ、耐えられないほどに。 見れば、瘴気に当てられた周囲の地面や柱は徐々に凍結し始めている。



「違う、俺は正気だ……間違ってるのはお前と、親父だろう!」

「なんて痛ましい。 心の底まで病に侵されてしまったのね。 あまつさえ……お父様を侮辱するなんて……」



 少女の目に殺気が漲る。 この女は、こうなったら手が負えない。 強引に手を振りほどき、たたらを踏みながらスズリは後ずさる。



「私たちは気味の悪い害虫を駆逐しているだけ……それを間違っている? 見てわかることなのにお父様が嘘を吹き込んでいる?」



 瘴気が空間を飲み込んでいく。 奇怪な彫刻も、聳える太い石柱も、青白く凍てつく。

 セセラは己から瘴気を放ちながら一歩ずつスズリに近づいていく。



「私たちを間違っているなどと言う愚か者は……奴らと同じ……虫けらだ!!!!!!」



 瘴気が一気に噴き出し、スズリは城の外へとはじき出される。 アギトの如く開いた城の入り口から大量の黒い霧が溢れ出す。 最早寒気が体の内と外、どちらから来ているのか分からなかった。 


 白銀の蛇のような細長い巨体が、城の天井をぶち破った。 尾を揺らしながら、月の手前で光り輝き、吠え猛る。


 龍だった。 巨大に過ぎる肉体をうねらせて翼もなしに空を舞い、白銀の鱗の隙間から黒い瘴気を漏れさせている。 スズリの身体ほどありそうな牙と牙の隙間から、低い声がシューと吐き出される。



『物言わぬ肉塊にして、愛して差し上げますわ』



 龍の口腔に、冷気が収斂する。 辺りに雪の結晶が降り、風に肌が割かれそうだ。

 スズリは本能的に竦む足を叱咤して走り出した。 背中に爆風と冷気が吹きすさぶ。


 わずかな余裕の中で背後を見やれば、巨大な氷の柱が新たな城を築き上げていた。

 スズリは風になった気持ちで深い森の中に入り、何度も蛇行しながら全力で走り続ける。


 目標を見失った妹が吠え猛り、幾千もの鋭利な氷の礫を森に飛来させる。 ふくらはぎや腕を掠めながらも、スズリは疾走する。

 一刻ほどが経って、スズリはようやく木の幹に凭れ掛かった。 龍の咆哮は、遠くで何度も空に響いている。


 汗で頬に張り付いた髪を乱暴に拭いながら、血の味がする口腔から蒸された熱を吐き出した。 周囲に、気配。


 豚鼻を鳴らすオークと、肉がこそげ落ちた骨だけの人型スケルトン、泥で出来た小型のゴーレム。 どれもこれも、最底辺の卑しいものたちだ。

 それが徒党をなしてスズリを取り囲んでいるということは――



「あら、皇子様とあろうものが、どこへいくの?」



 使役するものがいる。 素材のよい煉瓦で出来た一回り大きいゴーレムの肩に乗せられた銀髪の少女が、不吉な笑みを浮かべている。 最近、父親に謁見をしているのをよく見かける、黒の神官服を着た人間だ。 名はエーアイと言ったか。



「俺を連れ戻しに来たのか……!?」

「あなたのお父様にはそう言われてきたけれど……私は別の用件。 勧誘に来たのよ」



 錫杖をしゃなりと鳴らしながら、エーアイは微笑む。 セセラとは全く別物の深い闇が見える。 擦れたガラスのような、見慣れぬ青い目だった。



「私の元へ来なさいよ。 まだ力が沢山いるの。 どうせ行く宛もないんでしょう?」

「俺は、極圏の連中には手を貸さない……!!」



 ここにいる怪物たちには数で圧倒的に劣るが、スズリも気高き煌魔族の一人、巻くことは出来る。 しかし、エーアイが攻撃の指令を下す気配はなかった。



「もうじき、新たな王が頭角を現す。 あなたの御父上さえ、いえ、世界の全てが束になっても太刀打ちできない最強の魔王が。 身の振り方は考えておいたほうがいいわよ」



 未来を確信した笑みには余裕が宿る。 この辺りで新たな王などという言葉に安易に言えるほどの。



「……この森を抜けて、遥か南。 業魔族の炎山の先、夜行族の大魔道図書館よりももっと先……虹ノ骸ヶ原を渡ったら、巨大な森がある。 エシュナケーアの森。 そこを生きて出られたら、セントラル。 そこに行きたいんでしょう?」



 エーアイが錫杖を鳴らすと、オークが下品に鼻を鳴らしながら道を開ける。



「どういうつもりだ?」

「あら、親切のつもりよ。 彼らを可哀想に思うなら向こうで騎士団にでも入れば? 応援するわよ」



 嘲笑うような笑みが気に入らなかったが、行かせてくれるなら、連れ戻されて肉片にされるよりよっぽどいい。



「もし戻ってくるときは、あなたの場所は開けておいてあげる。 あのイカれたお人形さんに刻まれるには惜しいからね」

「俺は二度と、こんなところには戻らない」

「いい知らせを期待してるわ」



 エーアイが話を切り上げると、怪物たちはその場から散り散りになる。 煉瓦で出来たゴーレムも振り返り、魔王の城の方へ消えていく。



「あそこは、お前が思うほどいいところじゃないわよ。 ふふ……馬鹿な奴」



 意味深な、嘲笑を残して。





 魔王の息子が逃げた、瞬く間にその話題が極圏を駆け巡る。 魔王によって統率された極圏から脱出するのは十歳のスズリにはかなりの困難を極めた。


 とはいえ、寄り道、牛歩、追っ手の殲滅……たった二年でエシュナケーアの森に着いたのは、幸運だった。 その森を抜けるのは、あっという間だった。 そして、彼は初めてセントラルに辿り着いた。


 人やエルフ、獣人たち。 集落や都市を構成するか弱き種族たち。 スズリの顔に二年ぶりの笑顔が宿った。


 だが、その笑顔は、たったの一日も持たなかった。



「煌魔族だッ!!」



 スズリがようやくたどり着いた街で、スズリは悲鳴と殺気を見舞われた。 やってきた自警団の男たちが、色鮮やかな奇跡を牙に変えて、頬に煌魔族の紋章があるスズリを襲う。


 俺は味方だよ、力になりに来たんだ。 そんな声は街の怒号に掻き消された。

 彼の強固な肉体すら抉る威力の攻撃に、彼は血を噴き出しながらエシュナケーアの森へと逃げ帰る。 セントラルのものたちは、スズリが思っているよりずっと、獰猛で狂暴だった。

 父親の虐殺を見すぎて、錯覚していた。 踏みにじられるものが、牙を持っていないわけではない。 虐げられる弱きものが、狡猾でないとは限らない。


 しかし、少年に帰る場所はなかった。 浮かぶエーアイの顔を振り払う虚しいプライド。

 だから彼は信じた。 きっと戦場に近い場所だからだと思い込んだ。


 放浪を始めた。 食には困らなかった。 そこら中の土や草原にいる食事に、他の彼らは目もくれなかったからだ。


 少年の予想を裏切り、セントラルは厳めしく彼を拒絶した。 いつの間にか、中央区に逃げ込んだ煌魔族は魔王の息子と判明し、一級の賞金首になった。


 さらに、極圏の追っ手はセントラルに来てもしつこく彼を追い回した。

 極圏と中央区双方の追っ手は苛烈を極め、少年は種族としての圧倒的な生命力だけを頼りに大陸を放浪する。 東の大国に流れ着いたときも、彼は追われ続けた。


 ある日、負傷しきった彼は、優しい老夫婦の家に匿われた。

 彼らの光をようやく見つけたと思った。 スズリが彼らに求めたものがあった。

 だが、暗い部屋の外から聞こえた大勢の足跡と罵声が、青い少年の安堵を再び砕く。



「早く!! 魔王の息子を閉じ込めたぞ!!」



 あの優しい老夫婦の、血走った声だった。 自警団や冒険者の不規則な足音。

 老夫婦は、スズリを確実に捕えるためにわざと彼をかくまっただけだった。


 壁を突き破って逃走を図る彼の赤い瞳に、彼らの獰猛な貌が焼き付いた。

 沸々と、心の内で湧き上がるものがあった。


 一年が経つ。 彼は、激しい迫害の中で、唐突に諦めていたものに出会った。

 一人の少年と、二人の少女。 彼らは周辺小国との争いが絶えない東の大国で冒険者をしているものたちだった。


 ヨゾラ、スピカ、カナタ。 彼らはスズリが魔王の息子と知っても何の反応も示さなかった。 少年期に戦の負荷がかかりすぎておかしくなったのだろうと思った。

 彼らはスズリに冒険者になることを勧めた。 魔法使いのカナタは、



「どうせ冒険者なんかやってたらその紋章なんて泥だらけでわかんないよ」



 と汚れた身なりで笑った。 冒険者生活がさらに一年経つ。 若き四人組は欠けることなく死地を切り抜け、絆を育む。


 環境は苛烈だったが、スズリは笑うことが出来た。 スズリが父親の前で感じた感情は間違っていないと、ようやく思えた。



「何があっても、一緒にいようね。 どんなときでもぼくはスズリの味方だよ」



 あのときまでは、だったが。


 彼ら四人は、あるとき三国入り乱れる最大の戦争に巻き込まれた。


 戦地は混乱を極め、加えてそこに極圏からの大群が押し寄せたことによって敵味方も分からないほどだった。 湧き上がる黒煙が雲となり空を覆う。 死屍累々を飛び越えた先で、戦士たちがイカれた目をして武器と奇跡を振り回している。 四人は声を掛け合いながら生き延びようとするが、散り散りになってしまった。



「スズリ!!」「ヨゾラ!!」



 奇跡と魔法が飛び交う中、ようやく仲間の一人を見つけて安堵の笑みをスズリ。 少女も笑みを浮かべる。 ……いつか昔に見たような、酷薄な笑みを。



「今がそのときだよ」

「え?」



 ヨゾラの杖が光り、稲妻がスズリの身体を穿つ。 肌が割かれ、痺れた体が抵抗することなく焦げ臭い空を仰ぐ。 どこからともなく現れた鎖が、スズリを拘束した。



「何を……ヨゾラ……!!」

「メセトニアの繁栄にあなたが必要なの。 あなたみたいな煌魔族の実験体がね。 東国に逃げたって聞いて、焦ったよぉ」

「……ずっと……騙してたのか……ヨゾラ!!」

「こういう混乱に乗じないと、中々連れ帰るのって難しいんだよね」



 ドクン。 心臓が跳ねる。 目の前にある人間が、スズリの知っている人間に見えない。

 彼女は仮面を被っていたのだ。 ――この世界にあるはずのない、善意の仮面を。

 高笑いが雑多な戦場の音の中で響く。



「ふふ……やった……魔王の息子を捕まえた!! これで私も……認め」



 歓喜に打ち震える時間は、長く続かなかった。 炎だけで出来た槍が、少女のこめかみを突き刺したのだ。 少女は笑顔を固めたまま一瞬で絶命し、頽れた亡骸が燃え上がる。

 スピカ。 槍を投げたのはスズリの仲間だった。 彼もまた、別人のような笑顔を浮かべている。



「スピカ!! お前、なんてことを……!!」

「だって……邪魔じゃないか。 お前は俺が極圏に連れて帰るんだから、さ」



 また心臓が跳ねた。 臓器ごと吐き出しそうになる。



「お前…………お前!! 業魔族か……!! お前も俺を、騙してたのか!!」

「うん。 不名誉なことに、俺たち業魔族は極圏で一番人間に近い見た目だからね。 お前ですら、簡単に騙せた」



 鎖に縛られて動けないスズリの胸倉を掴み、炎を駆る少年は笑う。 そこに、カナタがやって来た。 紺色の目を見開いて、仲間の死骸の側で笑う少年を恫喝した。



「何してる!!!!」



 スピカは目もくれずカナタに手を翳す。 射出された火球が、虚を突かれたカナタに直撃した。



「鬱陶しいなあ。 前々から、お前ら人間の臭いが染みついて吐き気がすんだよ」



 スズリを突き放すと、少年はカナタに殺意を向ける。 炎を駆る業魔族に、カナタは魔法で応戦するも手も足も出なかった。


 カナタの目に恐怖と涙が浮かぶ。 いたぶられ、やがて片目を負傷して戦う意志を砕かれたカナタは、足を引きずりながら後ずさる。


 スズリの懇願する目と視線が絡み、やがてほどける。 カナタは目を押さえ喘ぎながら、スズリに背中を見せた。 足を引きずりながら立ち去るカナタを見る視界が、ぼやけていった。



 ――嘘ばかりだ。



 仲間だと思っていた彼らも、そんな彼らが見せた優しさも、全て悪意が作ったまやかし。

 どんなときでも一緒にいると言った人間すら、スズリの前から逃げた。

 何もかもが嘘。 獰猛で卑怯で、自分本位で狡猾な悪意たち。



「お前らは……小鬼と同じだ。 醜い獣だ……!!」



 くつくつと笑う少年と、その周囲で狂ったように争うものたち。 内側から込み上げる怒りが、黒い霧となって身体から溢れ出す。 少年がそれを見てバカにするように笑った。


 父親は間違っていなかった。 だが、極圏の連中も、彼らと同じだ!



「ちょっと痛めつけたら大人しくなるか?」



 スピカが手の内に炎を発現させて笑う。 スズリは、喉を嗄らしながら吠えた。



「お前ら全員、殺してやる!!!!!」



 そのとき、光。 スピカが炎を放とうとした瞬間、大きな光が見えた。 スズリの背後から放たれた巨大な光の奔流が、スピカの身体を瞬く間に飲み込んだ。 悲鳴が掻き消え、神々しい光を見た戦場が静まり返る。


 光の跡にスピカの姿はなかった。 消し飛んだのだ。

 スズリが恐る恐る振り返ると、金色の髪がふわりと揺れるのが見えた。

 青色の瞳が、スズリを見つめている。 胸が今度は心地よく高鳴った。


 あれだけ心の中で黒くけぶっていた憎しみが、彼女の青い色に洗われて落ちていくような、心の中に涼しい草原の風が吹き込むような、そんな気持ちだった。

 止まった戦場の空に、青色の空が見えてくる。 エセリアは屈み込むと、スズリの頭を愛おしそうに撫でる。 会話を交わさなくとも、分かった。


 彼女は、スズリの探していたものを持っている。 散々裏切られたスズリが、そんなものはないんだと心に張った猜疑心を強引にぶち破って信じ込ませるほどの光を、彼女は放っていた。



「とっても、優しい目をしていますね」



 止まった戦場がざわめき始める。 敵国の最高位の次点だった聖女が、こんな場所で一人とは、無防備もいいところだ。



「帝国の聖女だ」「こんなところで一人とは……愚かな」「美しい」「名を上げるチャンスだぞ!!」「討ち取れ!!」「捕えればあの体を……」



 極圏のものたちも、国軍も、傭兵も、エセリアを標的に構える。 彼女の周囲に、多種族の包囲網が出来上がる。 彼女は気にも留めずにスズリを見つめる。

 スズリは心の中にある怒りを思い出し、エセリアの手を振り払ってキッと睨み付ける。



「俺は実験体にはならないぞ!」

「……。 私の国にまだそんなならず者がいるとは知りませんでした。 ごめんなさい」



 スズリの頬を手の甲で撫でる。 それ以上目に力を入れることが出来なかった。



「あなたのことを、ずっと探していたんです。 あなたは――私たちのことを、信じてくれたんですよね。 だから、セントラルに来てくれた」



 じりじりと包囲網が狭まるのは分かっていたが、スズリは青い瞳から目を離せない。



「私たちはきっと、あなたを沢山傷つけてしまいましたよね。 今だって、愛想が尽きますよね。 私たちは愚かで、浅ましく、それでいて性懲りもない。 あなたの願いや希望を、へし折ってしまったでしょう」



 誰かが雄叫びを上げ、つられて兵士たちが吠え猛る。 円が一気に収縮し始めると、エセリアは立ち上がり、そして言い放った。



「――近づくな。 お前たちに用はない」



 縮んだ瞳孔から寒気だつ覇気を放ちながら世界に現れた言葉は、一瞬で円の収縮を止める。 スズリも泣き出したくなるほどの威厳と怒りが、彼女から漏れていた。


 人族も、蜥蜴人族も、悪豚族も、小鬼族も、全員が一様に体をのけぞらせた。 慣性以外の彼らの全てが聖女から離れようとする。 足でバタバタと地面を叩き勢いを殺しながら、彼らは押し合いへし合いで無様に後退していった。


 ……たった、一人を除いて。 黒い神官服に錫杖を持った少女は、憎々しげにエセリアを睨み付けていた。 錫杖の先で黒のエネルギーが膨れ上がる。 スズリは自然とエセリアを庇うように間に入る。 自分でも何故そうしたのか分からなかった。



「あら。 ほんとうに、優しい人なんですね」



 また、頭を撫でられる。



「きっと信じてもらえないと思うけれど、彼らも、光を持っているんですよ。 あなたがそうであるように」



 後ろから、スズリは抱き締められた。 体が溶けそうな安心感に、思わず彼女の白く細い腕に手を乗せる。 



「私たちのことを信じてくれて、ほんとうにありがとう。 彼らのことは許せないと思う。 憎しみを捨てろとは言わない。 でもどうか、あなたが信じてくれたものが全て嘘だと、思わないで欲しいです」



 エーアイが顕現させた闇がバリバリと空間を裂く音がする。 エセリアが、エーアイに手を翳した。



「『聞こえますか。 我が天上の父にして、親愛なる友人よ。 幾多の悲しみを生む、罪深く愛しいあなたよ。 己が罪を憂うなら、地上の悲哀に涙を流せるのならば、我が願いに応え、その御手を、その魂を、荒ぶる光炎に、変えてくださいな』」



 奇跡の詠唱だ。 だが、普通のものと毛色が違うように思える。 遥か彼方のものに傅いて願いを乞うというよりも、家族に話しかけるような、そんな優しさがある。


 これが聖女と呼ばれる所以か、そう思っている間にも、周囲の空間が白く光り出す。

 光は炎のように揺れるが、焼き焦がすような熱さの代わりに、暖かい感触だった。


 光はエセリアの手のひらに吸い込まれ、渦を巻く。 周囲の人間たちが、悲鳴を上げて遁走する。 光が出力を上げ、エセリアの手のひらの中で、エセリアの身体よりも大きく膨れ上がる。 エーアイが錫杖を振り回し、裂帛の気合と共に闇が放たれる。


 エセリアの手から、臨界を迎えた光炎が巣立つ。 スズリの視界を真っ白に奪うほどの炎が闇を消し去り、音すらを吹き飛ばした。



「『私のわがままもたまには聞いてください。 この心優しき少年を、バカバカしく愚かな悪意から少しでも守ってください。 それはあなたが生んだものでもあるんですから』」



 紋章の上に乗せられた手のひら。 スズリは目を細め、その感触を受け入れた。



「この紋章が消えるだけで、あなたはあっけないほど人間に打ち解けられるでしょう。 いまさらそんなことになっても、自分勝手な彼らに呆れることになるかもしれない。 より憎しみを抱くかもしれない。 でも、全てを憎まないで。 憎むべきは彼らの愚かさ。 異端を排除しようとする醜い本能、そしてそんなことを容易く忘れる軽薄さ。 この世界には、とても不安定で不条理だけど、たくさんの愛や優しさが、ちゃんとあるんです。 私を庇おうとしてくれたあなたのような、優しさが――」



 光が晴れたとき、スズリは戦場とは全く別の場所にいた。 どこかの街へ続く舗装された街道だ。 信じがたいが、彼女の奇跡によって、転送されたのだろうか。 澄んだ空気がおいしかった。


 前を見ると、スズリの前で、ウェーブの掛かった銀髪を逆立たせて驚いている少女と腕を後頭部で組んだまま硬直している褐色の少女がいる。  彼女たちからすれば、いきなり目の前に少年が現れたのだ。 驚かない方が無理である。



「すごーーい!! なんか、びゅん!! って感じだった!!」

「え……い、今の、どうやったんですか!?」



 しかし、予想を裏切って少女は目を輝かせながらスズリの手を取った。 キラキラ光る丸く大きな青い目に映ったスズリの顔に、煌魔族の紋章はなかった。

 彼女は、スズリに新しい旅路の一歩を与えてくれたようだった。







「信じるしかなかった。 あの人が、圧倒的な光でしかなかったんだから」



 スズリは頬を撫でながら溜め息を吐く。 そこに在るはずの紋章はなく、髪も不吉とされる銀色ではなく黒だ。



「俺には他の光が小さすぎて見えなかった。 でも、あの人の圧倒的な光に魅せられて、俺は信じた。 小さな光も、見えないだけであるかもしれないと。 世界は今日も愚かで、俺は世界が憎かったけど、自分から滅ぼそうとは思わなかった」

「あの人は……悪意を決して許さないから」

「ああ。 あの人がいるなら、この世界でも生きていけるように思えた」

 


それから、スズリは南中した太陽を睨み付けた。



「だが……あの人は死んだ」



 その言葉が、マブタに重くのしかかった。 スズリの髪が、銀色に染まっていく。



「俺たちに降りかかる悪意を咎める聖女も、信じがたい光を見せてくれる聖女も、死んだ。あの人の訃報を聞いてから、この世界が濁って見える。 世界の悪意に、俺の中の憎しみが力で応えようとしている。 この世界の光が見えない。 昔から付き合ってきた闇が、今俺の全てをもう一度飲み込もうとしている。 この世界に光があると、信じられないんだ。 このままだと、俺はもう、止まれない」



 スズリはマブタに歩み寄り、肩に手を乗せる。 手には内側から沸き立つ力が籠り、その瞳はどこか懇願するような、挑戦するような強い眼差しだった。



「でも、俺はこの短い間で見つけた確かなものを知っている。 それを無下にしたくない」

「スズリ……」

「お前は選ばれし光を持っていて、いい奴だよ。 嫌いって言ったのは……嘘だありゃ」

「……知ってますよ」



 マブタは笑う。



「……マブタ。 俺に……俺に光を、見せてくれ。 あの人のいない世界でも光はあるんだと、教えてくれ。 じゃないと、俺たちはもう止まれない」



 マブタは力強く頷いた。 スズリは口角をわずかに上げると、マブタの肩から手を離す。

 髪を黒く戻し、「特にあのバカ女はな」と言葉を残してその場を去る。 マブタはスズリを見送ると、懐から始まりの日に見つけた手紙を取り出した。

 憎しみが込められた手紙の文字を見つめ、マブタは強く、呟いた。



「……もし、ぼくが悪人なら、しかるべき苦しみを味わいましょう。 でも、僕には、裁きの前にやらなきゃいけないことがある。 少しだけ、待ってもらえますか」 



 手紙が、風に揺れる。

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