憎しみの影に
笑う。 抵抗したところで脅威にもならないようなエルフの少年の首を絞めつけながら、笑う。
業火に見舞われた森の中が、死に覆われていく。 少年が事切れると、その手を離し、人形のように地面に崩れる死体を見てまた笑う。
死体を踏みつける。 何度も何度も死体を冒涜していると、餌が呼び寄せられた。
彼の両親だろうか。 長い耳を憎悪に震わせながら、携えた矢筒から凶器を解き放つ。
放たれた矢を素手で叩き落しながら、距離をゆっくりと詰める。
目の当てられない殺戮が続いた。 何人もの森人が死に、果たせなかった怨嗟が冥界へと吸い込まれる。
「殺してやる!! よくもお母さんを!!」
一人の獲物が、再び立ち塞がった。 褐色の肌に、人間と同じ耳。 黒髪をサイドに纏めた、小さな小さな少女。
目の前で、誰かが見下ろしている――
☆
木々の隙間から雪のように落ちてくる朝の木漏れ日の中で、マブタは飛び起きた。
身体中が濡れて気持ち悪い。 胸の鼓動はもっとだ。 皆の気配はない。
エルフを惨殺する夢を何度も見てきたマブタだったが、直接フタバの姿を見てしまったのは、より大きな不安と罪悪感を生んだ。
ゴブリン退治から二日経つ。 依頼人には感謝されたが、マブタが光の神装を顕現させたことで、ルイたちとの距離感が開けてしまったように思う。
特にルイとは、一言も口を聞けていない。
この二日、寝覚めは良くなかった。 ルイの辛辣な過去に、自分が冷酷な殺人鬼であるという告白。 胸の苦しさは、寝起きだけでは済まない。
側に落ちていた緑の種に目が止まり、摘まむ。 シラツブクサだ。 この辺りには生えていないはずだが……。
「……そんなこと、どうでもいいか……」
種を放る。 近くの木に寄りかかり、低い森の天井を見上げた。 自然と、口から歌が漏れる。 エセリアと旅をしていたときから、彼は時折この歌を口ずさんでいた。
何の歌かは分からない。 ただ、この歌を歌うと気持ちが紛れる。
「不思議な歌ですね」
ようやく、マブタはサンティがまだ寝ていたことに気付いた。 毛布を目深に被っていたせいで、分からなかった。 体を起こし、目を擦る。 大きなあくびをして、それから恥ずかしがってかちんと口を閉じ口元を両手で押さえた。
「サンティさん、まだ寝てたんですね」
「ええ……私、朝に弱くて……はぁ」
「昨日も夜更かしですか? すみません、起こしてしまって」
「うぅん……昨日は早めに寝たんですが、寝た気がしなくて……」
と言って、何度もあくびを噛み殺している。 思うところはあれど、魔法使い故、神装のどうこうにはあまり興味がないらしく、彼女が一番マブタと普通に接してくれる。
「それにしても、本当に不思議な歌ですね。 初めて聞いたときから、初めてじゃないような……。 昔聞いた、村の農夫たちが歌っていたものに似ている気がします。 よく歌われていますよね?」
毛布を畳み、いつもの半分以下の速さで荷物を漁りながら、サンティは本を取り出した。
「ええ……でもぼくも、この歌が何なのかは、よく分かってないんですよ」
首を傾げながら相槌を打ち、サンティはマブタの隣に腰を下ろす。
大きな尻を反対にズラし、木の幹の取り分を増やしてあげる。 サンティも大分マブタの存在に慣れてくれたようだ。 彼女は相変わらず魔法の書物を読み込んでいる。
「熱心ですね。 ……やっぱり、お姉さんのことが憎いんですか?」
「……ええ。 それもあります」
風が、サンティの代わりにページを一つめくる。 銀色の髪がマブタの腕を撫ぜる。
「魔法という概念が生まれてから早数千年。 未だ辿り着いたもののない魔法の極致……私はそれが欲しいんです」
「それって……」
「ええ、死んだ人間を蘇らせる魔法です」
簡単なものではないはずだ。 彼女は独り言さながらに目を細めて諳んずる。
「死者の魂は、神の御許である『異葬の花畑』へと逝き、やがて神の元へ還る……死者蘇生の魔法はそれとは全く関係がない。 ある対象の人間の見た目、人生、記憶、生命として機能する体の全て、その人がその人として行うべき思考、それら全てをまるでその人間の人生が続いているかのように、魔法で“ゼロから構築”する。 必要な事象座標指定も桁違いに多く、創り出した“エネルギーの塊である物体”が体と自立思考を一秒維持するのに必要な魔法陣の数は……およそ、二万と五千、飛んで七十二」
魔法陣一つで神装並みの力を発揮するというのに、本当に桁違いの魔法だ。
仙人が追い求めて、一体何千年かかるのだろう。 なぜそこまで? そんな問いに、彼女は目を閉じて応える。
「私は、この世界がどうしようもなく憎いです。 お姉ちゃんが、憎いです。 でも、たった一人だけ、私が心から愛し、信頼した人がいました」
「…………昔の、お姉さんですか?」
「ふふ、お見通しですね。 ……お姉ちゃんは変わってしまった。 しかし、それまでの彼女は、いつでもおっちょこちょいな私を愛し、守ってくれました。 私は、変わる前のお姉ちゃんが欲しいんです。 たった一人の、味方ですから」
(……まぁ、たった一人では、ないんでしょうが)(眠たいなぁ)
瞼の奥に、何人かの顔が過る。 よく知った顔だ。
少しの沈黙の後、サンティは目を閉じたまま、脈絡から少し外れた質問をしてくる。
「ここにいる人はみな、大きな憎しみを抱えています。 私もそうです。 でも、マブタさんは、違うようですね……?」
「……………………ええ。 ぼくは、違います」
「そう、ですか……まるで……まる、で……エセリア……お姉……ちゃん……です、ね」
ことん。 サンティの柔らかい体重が、マブタに寄りかかる。 小さな寝息を立てて、肩を上下させている。 手からも力が抜け、古い本のページが淡い風にパラパラとめくれていた。 服がはだけて育まれた胸元が見えそうだったので、そっと直す。 どうやらまだ眠り足りないらしい。
一人の時間になると、己の中の悪夢に意識が向いてしまう。
落ち着けなくて、サンティをひょいと持ち上げて地面に寝かせ、丁寧に毛布を被せてから森の中を散策することにした。
「……きゃあッ!!」
ほどなくして、マブタは可憐な悲鳴と遭遇する。 茂みの奥で、フタバとレッパが着替えの真っ最中だった。 歴戦の経験を感じさせない美しい肌を惜しげもなく晒していた二人を見て、「あ……すみません」とマブタは頭を掻く。 フタバはわなわなと震え、腕で体を隠している。 マブタは言った。
「あの……ルイさんを見かけませんでしたか?」
「はて。 遠くには行っておらんと思うが。 あの娘は気まぐれだからの」
レッパが自らの裸体を隠そうともせずに着替えの片手間で返事をする。
フタバの顔が溶岩のように赤くなっていき……
「そうですか……あ、そうだ――」
「もうマブくん!!!!!!! 早くどっか行って!!!!」
噴火した。 声量に吹っ飛ばされるように、マブタは大急ぎでその場から立ち去った。
申し訳ないことをしたようだ。 逃げた先で反省していると、近くで呆れた声。
「何やってんだ。 女が女の着替えに出くわすのとは訳が違うんだぞ」
スズリも着替え中だった。 上裸だ。 筋肉美に魅せられ、マブタは気恥ずかしくなって顔を背けた。 スズリがあくびをする声が聞こえた。 彼も寝不足のようだ。
「お前、いつもあの歌歌ってるのな。 何の歌だ? 昔極圏で聞いた歌によく似てる。 俺の耳が悪いのかな。 レッパは東国の傭兵が歌っていた曲に近いって言ってたし、フタバはエルフの子守歌にそっくりだとさ」
「そうなんですか……でも、僕にもよく分からなくて」
スズリは怪訝な顔をして、ため息を吐いてから手を止めて神妙な面持ちで問うた。
「んで。 心当たりがあるのか?」
無論、神装の件だろう。 マブタが首を横に振るとスズリは止めていた手を再び動かす。
「分かってると思うが……光の奇跡を与えられたこともそうだが、いきなり神装を扱えたのも中々のことだぞ。 少なくとも、体は相当に鍛えられているってことだからな」
それはすなわち、エルフたちを殺す力を持っていることの証明でもある。
マブタは顔を伏せる。 極めて聖なるものにのみ与えられる光も、まざまざしい感触を伴う闇の記憶にに霞んで不安を抑えることはなかった。
返事をした声は、掠れていてスズリには届かなかったかもしれない。 マブタは歩く。
森が開けた。 眼下にはだだっ広い草原とのんびりと横たわる川がある。
崖の上に立つマブタの顔に吹く強い風に目を細めながら、地平線を緑に染める森を見つめた。 本当に大きな森だ。
あそこに自分の過去があるかもしれない。 そう思うと自然と、行きたくないという気持ちが芽生えた。 崖の際に足を投げ出して腰を落ち着けると、もう一度口から歌が漏れる。 瞼を閉じた先にいたエセリアに、あなたの助けが欲しい、そう弱音を溢した。
「その歌、姉さんが好きだった音楽に似ていて不愉快だわ」
棘のある声。 同情とか、仲間意識とか、そういうものを全て取っ払った、まるで戦場で対峙する相手に向けるような声音だった。
「ルイさん」「ルイでいいって何度も言っているでしょう」
振り返った彼女の瞳は南の果てに切り立つ霊山たちの峰の如く鋭く、頭の中に浮かぶ姉の姿とが相まって体は強張っていた。
「エシュナケーアの森……あそこに着いたら、アンタとの旅も終わりよ」
「それは……残念です」
「何故? アンタだってこんな居心地の悪いところにいたくないでしょ」
「ぼくは、あなたのことが好きなので。 残念です」
瞳をしっかりと見つめながら、気持ちのありのままを話す。 ルイは目を背けて言う。
「アンタって口当たりのいい言葉ばっかり。 まるで姉さんね、薄っぺらいことしか言わないの」
「勘違いしないでほしい。 僕は、あなたのことを一人の女性として魅力的だと言っているんです。 あの処刑の日、ぼくを助けてくれたあなたを一目見て、あなたの美しさに、ぼくは強烈に魅かれたんです。 あなたがスズリを見る目を見て胸が痛くなるし、あなたを自分のものにしたい、そんな劣情にも駆られる。 世界に向けるものとは、違うんですよ。 ぼくは、あなたが好きです。 あなたがスズリに向ける気持ちと、同じです」
ルイは今一度マブタを見たが、今度は体ごと背けてしまった。
「悪いけど、その気持ちには応えられない。 私は好きじゃない。 アンタのことなんか、嫌いよ」
マブタの気持ちを無下にする罪悪を生みながらも、彼女はきっぱりと否定した。 心を痛めながらも、しょうがないなと思った。 彼女にとってマブタはもう、敵なのだから。
「ぼくが光の奇跡を与えられたからですか。 あなたのお姉さんと、同じだから。 この世界のことを、憎んでいないから」
少しの間を置いて、彼女はそうよと呟いた。
「アンタはこっち側の人間だと思っていた。 だから助けたのに」
マブタはゆっくりと立ち上がる。 ルイは意を決してマブタを睨み付けた。
「何故アイツらを守るの? アンタだってアイツらに何度も何度も酷い思いをさせられてきたんでしょう? アンタがどれだけアイツらに尽くそうと、例え光の神装を纏っても、決して、優しく迎えられることなんかない。 何故、そんな場所にいようとするの?」
金色のツインテールが揺れる。 風に流されたというより、身の内の怒りに震えたようだった。
「姉さんにそう言われたから? あの人の言うことは、悪魔の囁きよ。 あなたを縛り付けるための、呪いでしかない。 選ばれし自分だけに見える光景に溺れて、それを他人に強いようとする愚か者よ」
「ぼくがいるのは、化け物の道……ですか」
ルイの眉がわずかに動いた。 自分の過去を知られたことに、気付いたのだ。
「そうよ」
「ぼくは確かに、何度も人間たちの悪意に晒されてきました。 ルイ、あなたと同じように。 でも、エセリアさんは、間違っているとは思えない。 そして、あなたが歩もうとしている道は、間違っていると思います」
「説教ならうんざり。 どうせ姉さんと同じことしか言わないんでしょう」
マブタは小さく息を吐く。 彼女がどうしても……可哀想に思えてならなかった。
「アンタ、人に説教している場合なの? 顔色が悪いから様子を見に行ってくれって頼まれたから来てあげたのよ。 随分な悪夢にうなされているようね」
マブタは俯く。 ルイはマブタが何にうなされているかをある程度察した様子で、「話してみなさいよ」と問い詰めた。
「……夢を見るんです。 あなたたちと旅を始めてからずっと。 エルフの森を襲う……自分の夢を。 今日になって、その夢に……フタバさんが出てきました」
ルイの奥にある茂みが揺れた気がした。 だが心の声は何も聞こえてこなかったので、獣の類だと思った。 ルイは溜め息を吐いて腰に片手を当てる。 フタバの敵の首を斬り落としてやろうという気概は感じられない。
「それで? アンタが改元の大火の犯人だったとして、どうするの? 世間では極悪人よ。 今まで以上に、アイツらは悪意を向けてくるでしょうね。 もし夢の通りだったら、昔のアンタは聡かったわ。 恨むべき相手を恨んでいた。 今のアンタはどうするの? 姉の呪いに掛かったまま私に説教垂れるわけ? 悪人なら、アイツらにありもしない愛なんて求めてないで、いっそのこと復讐してやればいいじゃない」
「ぼくは、見返りが欲しいわけじゃない」
ゆっくりとルイに歩み寄る。 側までくると、彼女の身体は掻き抱きたくなるほど細く、それでいて憎しみは限界まで黒く大きく研ぎ澄まされていた。
「ぼくは、自分が何者か分からなくて、怖いです。 でも、自分がたとえ夢で見た通りの人間だったとしても、たとえ打ち付ける悪意が強くなっても、ぼくは彼らの力になるし、昔の自分だって許さない」
「……バカね、アンタ。 何故そんなことをするの? 感謝されることもないのに」
軽蔑と怒りを込めて、ルイはマブタを見上げる。 彼女の積もる恨みは果てしなかった。
だからこそ、これ以上深みにはまらせてはいけない。
「それは……」
マブタの手がルイの頬に自然と伸びる。 指の背が、ルイの頬に触れた。
「それは、ぼくがあなたのことを、大好きだからですよ」
口元だけでも、笑ってみせた。
「バッカじゃないの」
ルイは鼻を鳴らして顔を反らす。 場違いにも、やっと自分のことで頬を赤らめてくれたと思った。 ルイの脳裏に、エセリアの笑顔が浮かぶ。 彼女の受け売りの言葉だ。
そして、呪いではなく、マブタの信条である。
ルイはさっさと立ち去ろうとするが、マブタはその背中を呼び止める。
「一つ聞かせてください。 ルイは本当に、エセリアさんがルイを愛していなかったと思いますか?」
「あの人は、ただ他人を助ける自分が好きなだけよ。 ……私はそんな人の助けも、アンタの余計なお世話もいらない。 私は一人で生きてきたし、これからもそうする」
目も合わせないままルイは木々の奥へと消えていく。
一人で生きてきた。 そんな少女の言葉を繰り返し、マブタはまた崖の先の景色を向こう見る。 今日は冷氷を擦り込んだような切ない風が吹く。
「本当に、一人ですか」
ガサガサという音と共に、背後で誰かが来る音がした。 彼がここに来ていたのは、途中で気づいていた。 彼の目は、今頃ルイが向かっていった森の奥を見ていることだろう。
「スズリ。 ぼくと少し……お話しませんか?」
目を合わせると、スズリは首を傾げる。 見当はつくな、彼は心の中で返事をする。
「一月の間、あなたたちと旅を続けてきて、分かったことがあります。 分かったのは、スズリとサンティさんだけだけど、きっとみんなそうなんですよね。 あなたたちの憎しみには、ルイと違って、どこか穏やかなところがある――」