軋む鎖
エセリアは、その二日後には王宮を出て行くことになった。 無論、一人で。
突然訪れた最後の一日。 ルイはその夜、一人でベッドの上に横になっていた。 天蓋付きベッドの柱には、削られたような跡がある。 昔、あそこに描かれていた神獣をルイが怖がり、エセリアが削ってくれたものだった。 身分不相応な天蓋付きのベッドも、七歳の誕生日に彼女がくれたもの。 布団を深く被り、視界を隠す。
誰かが部屋の戸を開けた。 疲れているのか、名残惜しんでいるのか、足取りは重い。
頬を撫ぜる手の甲の感触に、ルイは目を細めた。 背中に、誰かが寝そべる気配。
「ルイ。 昨日は声を荒げてしまって、ごめんなさい」
「…………うぅん。 私こそ、ごめんなさい」
ルイは聞き取れないでほしいと思いながらか細い声で言った。 エセリアの手が、またルイの頬をくすぐる。 自然と、ルイはエセリアの手に自分の手を重ねていた。
雷と豪雨の中でルイが叫んだことに嘘はなかった。 しかし、エセリアは、石の雨が降る中で、たった一つの傘であった。 若く未熟な少女には、まだその手を振り払うことが出来なかった。
「ルイにね。 渡したいものがあるの」
「なぁに?」
ごそごそという音の後、首元に冷たい感触が当たった。 続く、細く冷たい二又の感触は首を一周しながら、首の後ろで結ばれる。
見ると、首元には八面に切り揃えられた青の水晶がある。 長々見つめていられる、綺麗な宝石だった。
「これは?」「魔法道具なの、ちょっとだけ特殊な、通信用のね。 私は……私はいつでも一緒だから。 これが、私とルイの愛の形。 何かあったら、飛んで駆け付けるからね」
エセリアは涙ぐみながらルイを抱きしめた。 宝石に見惚れて話半分だったルイも、零れる涙に気付いてエセリアの腕を抱きしめた。 心の邪悪と、逃れられぬ縁が、ルイの心を反対方向に引っ張り、胸が苦しい。
「ルイ。 私はあなたを愛しているわ」
「……私もだよ」
エセリアに言われた言葉も、自分の口にした言葉も、砂の味がした。
翌日、エセリアは王位継承権を捨てて、王宮からいなくなった。
ルイは、傘を失ったことで、これまで以上の責め苦を味わうことになるだろうと思った。
――しかし、ルイが想像した悪意は、それ以上の殺意によって容易く超えられていった。
エセリアがルイを連れて王宮から出ようとしていたわけが、それから二週間ほどしてようやく分かった。
水晶から聞こえてくるエセリアの声に慣れてきたころ、そして頻繁に何事もないかと問い詰められることに嫌気が差してきた、ある昼下がりである。
自室で乾いたパンを齧っていたルイの身体に、異変が起きた。
腹痛。 最初は月のものかと思ったが、その鈍い痛みは天井を知らずにどんどん激しく強くなっていった。 耐えがたい痛みに、ルイはパンを取り落として地面に膝をつく。
荒い呼吸と、呼吸の度に漏れる喘ぎ声しか聞こえない。
口の中が渇き、呼吸も次第に出来なくなっていった。 視界が揺らぎ、視界に意識を向けることすら難しくなる。 半ば這いつくばりながら無我夢中で部屋から飛び出すも、エセリアの姿はない。 代わりに通りかかった衛兵が、軽蔑の目でルイを見下ろす。
「腹痛ですか? 女は大変ですなぁ」
ルイはその朧な嘲笑を見て、部屋の中に首を無理矢理動かす。 ほぼ何も見えなかったが、そこに転がっているパンに、身に覚えがあった。 ルイは衛兵を睨もうとしたが、沸き上がる苦痛がそれを許さない。 衛兵はケラケラと笑うと、さっさとどこかへと歩いていく。 口から泡を吹きながら、ルイは絶叫交じりに喘ぎ続ける。
エセリアが王宮を出る。 それはすなわち、王位継承の最有力候補がルイに繰り上がったということに他ならない。
この国は光の加護を授かった英雄さながらの女帝が収めてきた国。 闇に侵され、光の加護を受けれないルイが王になるなど、絶対にあってはならないのだ。
気色の悪い化け物が、絶対に排除すべき国を揺るがす怨敵に成り果ててしまった。
ルイは、暗殺を企てられたのだ。 エセリアはそれが分かっていてルイを王宮から連れ出そうとしたのに、彼女はあろうことか邪悪な言葉でエセリアを突っぱね、自らその庇護を引き離してしまった。
「ああッ!!」
可憐な少女の声がした。 少女は酷く焦った様子でルイの側に駆け寄り、屈み込んで震えることしか出来なくなったルイの体を揺さぶる。 それから、思い出したように慌てて何かをぶつぶつと呟き始めた。 体がゆりかごに乗せられたように軽くなる。 体からルイを苦しめる何かが逃げ、新鮮な空気が鼻腔を通じて肺に流れていく。
視界が戻ってくると、黒く流れる髪が見えてくる。 体が黄金色の光に覆われていることに気付く。 指を組んで祈りを捧げているのは、ナナセだった。
ルイは、自分が憎んだ力に命を救われたことに気付いて「やめろッ!!」思わずナナセを突き飛ばしていた。 ナナセは自分が何をされたかも分からず腰を打ち付ける。
「おい、何しやがる!」
血走った声がルイを責め立てた。 駆けつけてきたショウドウだった。 彼はナナセ御付の騎士になったようだった。
ルイは毒素の抜けきらない重い体を引きずりながら逃げる。 背後で泣きながらショウドウを止める声がした。
ルイへの暗殺未遂は続いた。 扉に仕掛けられた針も、強力な毒が塗られるようになった。 ルイはエセリアにはそのことを伝えなかったし、王宮で彼女を庇うのは、そんな政を何も知らない無垢なナナセだけだ。 しかし、彼女とはどうしてもソリが合わなかった。
謂れのない悪意を向けられたナナセも、じきにルイへ敵意を向けるようになっていった。
ルイは、抵抗する刃を持っていた。 だが、巧妙に仕組まれた暗殺の犯人が分からなかった。 ルイは、心の中から今か今かと漏れ出す、日増しに強くなる憎しみに苛まれながらも、だれかれ構わず切り倒すことは出来なかった。
だから、十三歳になる少し前の秋、ルイは王宮から逃げ出した。 赤い葉が城下の街で色づいていたが、それをあんなに間近で見たのは初めてだった。
何もかもが初めてだった。 赤で統一された煉瓦の家々に挟まれた路地を歩く人々も、堅牢な柵で囲われた冒険者ギルドも、整備された水路も、うら若き少女たちの流行に乗った質素ながらに魅力に溢れたファッションも、全てが未知だった。
そして何もかもが同じだった。 往来の人間は、ルイの金髪を見ると一度期待の顔を浮かべるが、それがルイだと分かると、一様に侮蔑や忌避の視線を向ける。
耳元に張り付いた化け物たちの言葉が離れない。 ルイは逃げ惑う。
その日の内に王都を出た。 小さな明かりの中、街道の上で秋の夜風に足を震わせたあの日のことは忘れない。 何日も放浪したが、たどり着いた街にある全ての宿屋で受け入れを拒まれた。 なぜか、どの宿屋も満員だった。
外の世界の生きる術は、エセリアの後を追う形になる。 ルイも冒険者になった。
言ってしまえば人助けの仕事だ。 合わない仕事ではあったが、外の世界を生き抜く上でルイが持ち合わせた能力は、その強さだった。 そして、冒険者としての道中は、若かりしルイをさらに強くさせる。 たった一人で、極圏の使者を幾度となく払いのけた。
ルイはエセリアと行動を共にすることはなかった。 時折顔を合わせることもあったが、ルイはなるべくエセリアを避けた。
彼女の綺麗事を聞くのは、首元から聞こえてくる音だけで充分だった。
もしかしたらと、心のどこかで期待したものは、すぐにありえないことになった。
外の世界は、ルイを拒絶した……完膚なきまでに。 依頼を達して、石を投げられることもあったし、街を歩けば化け物呼ばわりされた。 腰を落ち着けず大地を歩き続けるのは閉鎖的な王宮に比べると新鮮でマシではあったが、その度に新しい悪意に出会い続けることになった。 憎しみは、より強く、そしてあまりに凄絶に歪んでいった。
ルイの敵は、この世界全てであった。
エセリアは鎖で縛るようにルイに言い続けた。 この世界は愛に溢れているんだよ、と。
だから私は依頼でなくとも誰かを助けるし、ルイにもそうであってほしい、と。
ふざけるな。 そう言ってやりたかった。 だが、ルイがいくらエセリアを憎もうと、彼女がこの世界でただ一人の味方であり、これまで幾度となくルイを守ってきたことに変わりはなかった。
「分かったわよ……」
ルイは、エセリアの願いを叶えるしかなかった。 困っている人間がいれば、助けた。
しかし、結果的にそれが、ルイにトドメを刺すことになったのだろう。
彼女は多くの場所を旅した。 その全てがルイの心を歪めた。
ある日、ドワーフの集落を襲うゴブリンの群れを追い払った。 後になって、ドワーフたちが敵対する村の井戸に毒を流していたのを知った。
ある日、エルフの森で魔獣に襲われている旅人を助けた。 後になって、その男がエルフを森で無理矢理乱暴していたことを知った。
ある日、御車を襲う盗賊を退治した。 後になって、その荷台に詰め込まれていたのが
東国へ売り飛ばされる違法な奴隷であることを知った。
御車に積まれた奴隷を助けた。 やつれた女の奴隷は、ルイの身ぐるみや金品を奪おうとした。 男の奴隷は、貧相ながらも美しく育ったルイの女を無理矢理自分のものにしようと集った。 叩き伏せた奴隷たちの命まで、奪うことは出来なかった。
しかし、エセリアが抱きしめながらルイに巻きつけた鎖は、確実に軋んでいた。
冒険者稼業を始めて二年。 ある日、エシュナケーアの森の側の都市で、領主から直々に依頼を受けた。 森の神獣である白狼に、街の人間が度々食い殺されている故、討伐して欲しいと。 神獣に家族を食い殺されたものたちもルイの前で必死の懇願をした。
ルイはため息交じりにそれを受ける。 森の神獣である白銀の毛並みを持った狼は、ルイが退治してきたものの誰よりも強力だった。 ルイも深手の傷を負いながら、狼の首元に雷の剣を突き立てた。 白銀の毛が赤く染まり、ルイも膝をつく。
木の影から、一回り小さな白銀の影が姿を見せる。 ルイより大きな体躯であったが、その狼はルイが殺めた白狼の子だった。 ルイは足を引きずりながらその場を立ち去った。
辺りにすっかり夜の帳が下りていた。 止血をしてすぐに、ルイは領主に成果を報告し、報酬の金貨と銀貨を受け取った。
重い足取りで居住区を進むルイの耳に、野暮な男女の声が聞こえる。
「おい、あのお姫様、白狼を殺ったらしいぞ」
「これで仕事がはかどりますわね、あなた」
ルイは咄嗟に路地裏に身を滑り込ませた。 その男女は、娘を食い殺されたとルイに膝をついた夫婦だった。
「へへ、世間知らずの小娘なんて、コロッと騙されやがる」
「まぁ、領主様もあなたも悪い人ねぇ」
体の熱が冷え切っていく。 男たちは嬉々として話し込んでいた。
神獣は、取り決められた量より多くの森林を無断で伐採しようとしていた不届きものを追い払っていただけった。 領主にはそれが煩わしいが、公式に冒険者ギルドへ依頼を出すわけにはいかない。 そこで、彼は非公式にルイに依頼をしたのだ。 ものを深く知らない十三歳のうら若き少女を、家族を殺されたなどと言う嘘と証人を立てて、手を汚させたのだ。 ゲラゲラ笑う声が鼓膜の中で何度も反響する。
「ほんとに使えるバカなお姫様だよ、へへへ」
金貨銀貨の入った袋が落ちた。 耳元で、金属が引きちぎれる音がする。
ルイの足は、おもむろに街の外へと伸びていく。 指の先から、止め切れなかった血が滴った。
都市を囲む外壁が見えてきたときだった。 路地裏に気配を感じ、ルイは足を踏み入れる。 痩躯の男が、松明片手に家の側で油を撒いていた。
「何をしているの?」
ルイが聞くと、男は血走った眼でルイを睨む。
「邪魔するな!! ここの娘が、俺のことを裏切って、他の男のところなんか行くのが悪いんだ!!」
「……邪魔なんかしないわよ」
男は意外な返答に目を丸くした。 一年前だったら、一か月前だったら、ルイは男を止めていたかもしれない。 でも今は、これからは、そんなことは、二度としない。
「やればいいじゃない。 誰を巻き込んだっていいわよ。 全員死んだらいいのよ。 アンタだってそう思うんでしょ? アンタが好きだった女も、本当は反吐が出る悪党なんでしょ。 良心や愛なんて存在しない、悪意しかない。 殺せばいいじゃない。 私ならそうするわ。 ……皆、死ねばいいのよ」
ルイは踵を返して真っ白になった頭で街の外へと向かう。 背後の男の気配は、動かなかった。 街道はやがて土の道に変わる。 小さな丘を通り過ぎて、牧場を通り過ぎ、ルイは再び森の中へと分け入った。
エシュナケーアの森、そこは遍く精霊たちの御許。 地母神ですらその大いなる旅の最中に身を寄せたと言われる神秘の森。 何が起きてもおかしくない、未踏の深淵。
わずかな日の光しか通さない枝葉の間からは、小さな雪の粒が深々と落ちてくる。
頬に当たった粒子が、涙よりも冷たく切ない痛みの感触を残した。
どさり。 葉が耐え切れず投げ出した雪の塊が落ちる。 森に住む狐が甲高く、細く鳴いた。 辺りはどんどん冷え込み、ルイの中で気味悪く拍動する臓器が熱い息を吐き出した。 雪の精が集り、たちまちに息は白くなって空を覆う緑の蓋へ吸い込まれていく。
太く遥かに高い森の中が、唐突に開く。 薙ぎ倒され焼き焦げた木がまだ新しい。
その中心に、白く気高い狼の骸があった。 死に化粧を施すように、赤い体に雪が積もり、辺りも一面の白が広がっていた。
骸に寄り添う小さな影……それでもルイより一回りも二回りも大きかったが、確かにその狼の子どもだった。
神獣たちは善良な家族だった。 ただ森を守っていただけで、道を背くことなどない。
ルイは服の留め具に手を掛けた。
一つ、また一つと服がはだけていく。 亡骸に身を預けていた狼が、目を開けて仇敵を見つけた。 唸ることもなく、威嚇することもなく、彼は服を脱ぎ捨てていく少女を水色の眼で見つめ続ける。
下着や靴すらも脱いで、ルイは雪上で一糸纏わぬ肌を晒した。 雪を踏みしめる足が痛い。 手だけを締め付けていた冷気は今や全身にしがみついている。 それなりの羞恥を感じてルイは仄かな胸元を腕で隠し、細く女性らしくくびれた腰を抱いたが、ほどなくして我に返り、両膝をついた。
獣が人間を喰らうときに、服は邪魔なのだ。
肌が裂けるように痛いが、いっそのこと裂けてしまえばいいと思った。
「ごめんなさい」
両手と額を、雪に乗せる。 何度も何度も謝っている内に、涙が出て止まらなくなった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
右手が雪を握り締めた。 狼が起き上がる音がする。 心臓が死の気配を感じて動きを速めた。
彼の家族は、人間のまごうことなき悪意に呑まれて死んだ。 そして、その悪意に、ルイは手を貸してしまったのだ。 エセリアの言葉を、信じたせいで。
ルイは取り返しのつかないことをしてしまった。 彼女に出来ることは、この世界を憎みながら、悔しさに苛まれながら、わずかな償いとして彼に復讐を果たさせることだけだった。 鼓動が早まり、嗚咽が強くなり。
ルイの身体が、不意に暖かい感触に包まれる。 ハッとして目を開けると、白狼がその大きな体で、ルイを取り巻いていた。
「うわッ」
体を起こした途端、狼の尖った口がルイをつつき、ルイは仰向けに、座り込んだ白狼の腰に倒れ込んだ。 暖かい。 毛はごわごわとしていて固くこそばゆいが、その体温は雪の冷たさを隠すには十分だった。 白狼の伸ばした舌がルイの頬を舐め、彼はさらに体を丸めてルイを覆った。
聡明な白狼の子は、ルイを許したのだ。 彼女がただ利用されただけで、それを知ったとしても許せるものが、この世界にどれほどいるだろうか。
だからだろうか、ルイは許されたとは思わなかった。
彼の瞳が、訴えているように見えたのだ。 その心に昂る憎しみの道を、進め、と。
ルイと彼の共通の敵を、許すな。 お前がこの世界を殺せ、そんな使命を与えられたように思えた。 彼を脅かした悪意が許せなくて、ルイの目尻から涙が流れる。
心のどこかで、淡い気持ちを抱いていた。 自分が忌み子に生まれてしまったから、人間の悪意が押し寄せてくるのだと。 だが、彼女の旅は、それが間違っていたと証明してしまった。 彼らは元より、悪意の塊でしかなかった。 愛などどこにもない。
卑劣で、野蛮で、獰猛な、化け物。 ルイは、そんな彼らを、守り続けていた。
エセリアの――悪魔の言葉に、誑かされて。
「ああぁぁあああぁぁあああああああああああッッッッ!!!!!」
胸から込み上げる憎しみが、涙と一緒に慟哭となって飛び散った。
彼女を縛る鎖が、千切れた。
☆
ルイは、うつ伏せの状態で目を覚ました。 地面の感触がする。 雪は解けて全てなくなっていた。 服は着ておらず、ルイを抱く白狼の姿はない。 目線の先に、伸ばした手と、白狼の骸がある。
目覚めの朧はなかった。 ルイは目を見開いたまま、視界に映る手を広げる。
辺りはまだ暗い。
「『神装を……この手に』」
ルイの開いた手の中目掛けて、空から一筋の雷の柱が突き刺さった。 漆黒の刀身の真ん中を割く青色の光る筋が、ルイの見開いた眼を克明に映していた。
ルイは刀身を握り締める。 鋭い痛みが奔るが、体の内から解き放たれる力が、それを瞬く間に覆いつくす。 この世界と相成す鎧を纏い、ルイは立ち上がった。
柄から唾へ、そして刀身へ。 流れ落ちる血を唐突に虚空へ置き去りにして、一匹の少女は街へと疾走した。
小高い山のような木から、生い茂る低木へ、木々は移ろう。 茂みに突っ込もうと、ルイは止まらなかった。
森を指差す古びた看板を通りぬけ、牧場を越える。 遠くに見える街並みと城壁が、怨敵として牙を剥くが如く、赤く見えた。
……そして、近づいてみたら街は実際に燃えていた。
「え……?」
轟々と燃え上がる都市。 虚を突かれ、ルイの右手に握り締めた剣が光の粒子と消える。
街の燃え方は凄絶を極めていた。 ルイの見える範囲で、炎を逃れている場所はなかった。 城門は開け放たれ、そこから手負いの人間たちで出来た濁流が吐き出されている。
ルイには火元に思い当たることがあった。 足が早まり、濁流を押しのけて街へ進む。
「どけ!!」
ルイが手を横に振ると、一筋の稲妻が地面を這いながら濁流の中を奔った。
悲鳴を上げながら、濁流が割れる。 ルイは構わず都市の中に入り込んだ。
ひどい有様だった。 いるだけで大量の汗が流れる。 建物は全て炎に包まれ、咳き込みながら逃げ惑う人々に溢れている。 水の神装で火を消し止めようとする冒険者もいたが、火の勢いは留まることを知らない。 その裏で、足の遅い老婆を突き飛ばして城門へ向かう自分勝手な若者がいた。
ルイは郊外の路地裏の一角を見る。 油を注いでいた青年の姿はそこにはなく、想い人がいたであろう建物は倒壊してしまっている。
――私が……止めなかったから。
誰も死者がいないはずがない。 多くの魂が灰に呑まれただろう。 ルイがあのとき、青年を止めなかったから。 ルイが、この街の人間を殺したのだ。
「……やってやる」
阿鼻叫喚の街の中を呆然と歩きながら、一人ごちる。
この世界の悪意を、ルイは何度も見てきた。 彼らは一人として余すことなく、悪意で出来ていた。 ルイはもう我慢の限界だった。
彼女は悪意を誅殺しにここへ来た。
もう後には退けない。 一人を殺すのも、世界の全てを殺すのも、同じこと。
彼女を縛る鎖は、全て千切れた。 この世界に生きる価値のあるものなど、存在しない。
ルイの復讐は、この瞬間から始まるのだ。 善きものとして生きる道など、所詮悪鬼の道。 悪魔の諫言に、耳を傾ける必要はない。 さっきから胸が苦しい。
脳裏に浮かんだエセリアの顔を、引き裂いて打ち消した。
「全員、死んでしまえばいいのよ……!!」
男の叫び声が聞こえた。 瓦礫に押しつぶされて、悲痛な声で助けを求めている。
ルイの足が自然と向かう。 男の顔は見知ったものだ。 ルイを嵌めた、領主だった。
「た、助けてくれ……!! 頼む! 金なら出す! いくらでも出すから!!」
ルイは男を黙って見下ろした。 ここで助けたら、この男は次にどんな悪行を見せてくれるのだろう。 もうその言葉には騙されない。
「アンタなんか、死んで当然よ」
男の声が、遠のいていく。 それよりも手前に煉瓦つくりの町並みが崩れる音が聞えた。
次に誰かが見えたら、この雷をお見舞いしてやろうか。
彼らにとってみれば幸運なことに、ルイは死骸以外とは出くわさなかった。
不意に、名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ルイ!!!!」
懐かしい声に振り返った矢先、柔らかい重みに身体が覆われた。 金色の御髪が見える。
「姉さん」
彼女もここへ来ていたのか。 昨日はもっと遠くにいたと聞いたが。
ルイは遠くを見ながらエセリアの抱擁に応じた。 無事でよかったと、何度も耳元でささやく声が聞こえる。 ルイにとっては、色あせた存在。 喜びはなかった。
「ルイをお願い」
「構わん。 貴殿はすべきことを果たせ」
エセリアは頬擦りしてから、未だに悲鳴が止まない炎の中に飛び込んでいく。
ルイの身を頼まれた少女(やけに大人びて見える)は、巫女服の袖に手を埋めながらルイを眺めている。 その場から逃げ出すかもしれないのに、焦ることなく銀色の双眸でルイをじっと見据えていた。 静かで、重たい圧だ。
「初いのう」
妙な古語を口にして、少女は笑った。
ルイは、少女を無視して走っていくエセリアの背中を見やる。
――あなたさえ……あなたさえ、いなければ。
☆
聞くに、彼女の名はレッパ。 エセリアの冒険仲間だという。
ルイをお願い、そう頼まれたレッパは、それからルイの旅についてくるようになった。
この厄介なお目付け役をどうしてやろうかと憂慮していたルイだったが、そんな気持ちはやがて消えていった。 旅についてくる彼女が、ルイと同じ存在だと知ったからだった。
巨大な憎しみを抱えていた。 自分と同じ存在に出会ったのは、初めてだった。
次第に、刺々しく振る舞っていたルイはレッパと打ち解けていった。
やがて、褐色のハーフエルフの少女に、煌魔族の少年と父親の違う妹に出会った。
彼らも同じだった。
彼らは絆を作りながら、憎しみを膨らませていく。
エセリアは変わらず連絡を絶やすことはなかった。 ルイは憎しみと体を成長させて、細身の美女になった。 思考も豊潤になり、人間の悪意がどれほどまでに残酷かを改めて思い知らされた。 そして、水晶の中でルイに嘯く姉への憎しみはより強いものになった。
大人になったルイは、自分が今世界を滅ぼそうとしていないことの理由に気付いた。
ルイはもう止まらない。 鎖は全て払われた。 しかし、心臓に深く突き刺さる黄金の杭が残っていた。
エセリアの存在そのもの。 それが、偽善の道にルイを張り付けていた。
エセリアが、邪魔だった。 だが、彼女を殺してやりたいと思う理由以上に、殺せない理由の方が多かった。
――あなたが……いなくなってしまえばいいのに。
エセリアの優しい声を聞きながら、ルイは深い黒の夜空にそう語り掛けるのだ。
世間はルイの旅団を目の敵にして、絶え間なく悪意を降り注がせた。
……現在より少し遡った頃、炎の十二志士を討伐した。
依頼を受けたわけではない。 北方の要塞都市が襲われ、たまたまそこにいたから身を守っただけだった……殺さねば、殺されるから、それだけ。 強力な火を駆る十二志士は一筋縄ではいかず、同じように居合わせたナナセの一党と共に極圏の猛者を討伐する。
ナナセたちは称賛された。 第二の聖女が闇を祓ったと。 しかし、ルイたちは勝利の裏の犠牲である灰色に死んだ大地や要塞都市の焼け残りの八つ当たりをされただけだった。
世間はいつもそんなものだった。
そして、数か月前、エセリアの旅に一人の少年が加わった。 マブタという少年だ。
彼のことを語るエセリアは楽しそうだった。 変わった風体のせいで悪意に晒され続けた少年だという。 ルイは彼が自分と同じだと直感で確信した。
「私に何かがあったら、マブタのことはお願いね。 彼のなくした記憶を、取り戻してほしいの。 記憶は、とっても大切なものだから」
そんな大切なものではない。 そう思いながらも、ルイはエセリアの願いを聞き届ける。
ある日の夜。 首元から聞こえてくる音は、相変わらずこの世界の愛を説いていた。
ルイは空っぽの返事をして、夜空を見ている。 やがて首元で、明るい声の代わりにすすり泣く声が聞こえた。
「お願い……信じて……ルイ」
「……………………おやすみなさい」
ルイはそれを無視して、首元の光を遮った。
そしてそれが、エセリアとの最後の夜になった。 翌日の昼、不意に首元の水晶が光った。 エセリアの周りで耳障りな音が響き、息は荒い。
「姉さん?」
「ルイ……この街を襲ったのは、十二志士よ……ッ……レイシアとエーアイ……もしかしたら、マブタが疑われるかも…………ハぁ、助けて、あげてね。 彼は、とても、いい人」
「姉さん?」
声は不穏のまま途切れた。
そして、その日の夕刻、エセリアが殺されたという衝撃の事実が大陸を駆け巡った。
醜いオークに殺されたと。 驚いた。 彼女は何十年も図々しく生きるのだと思っていたから。 あっさりと、彼女は命を落としてしまった。
心は曇ったが、涙は流れなかった。 そのときが来たのだと確信した。
杭は抜け、獣は解き放たれる。 進むは血の道、憎しみで押し通る旅路。
エセリアが匿っていた少年を引きつれて、残された灰色の世界を征く。
なのに、自分と同じだと思っていた少年は――
姉と同じ、悪しき光の鎧を纏い。
姉と同じ、化け物たちの道の上にいて。
姉と同じように、ルイの憎しみを阻んだ。