第一話 赤い靴はいてた女の子
「あら、マサハル。帰ってきたのね」
大学一年目の夏休み。
帰省した俺を出迎えた母は、久しぶりとは思えない対応を見せていた。まるで、実家から通う学生が、普通に学校が終わって帰ってきたかのような雰囲気だ。
「ただいま、母さん……」
むしろ俺の方が、少しぎこちない。一人暮らしをしていると『ただいま』なんて台詞を口にする機会もないからだ。
そんな俺の様子を見て、母は何気ない口調で提案してきた。
「とりあえず荷物だけ置いたら、お隣に挨拶に行ってきたら? 香織ちゃん、マサハルに会いたがってたわよ」
隣の美絹家とは、昔から家族ぐるみの付き合いをしてきた。だから俺にとって、三つ年下の香織は妹みたいなものだ。
小さい頃はよく一緒に遊んだし、中学・高校になって少し距離を置くようになってからも、俺には「慕われている」という自覚があるくらいだった。
当然、隣には顔を出すつもりで、京都土産も用意してきている。
「じゃあ、これ。うち用に」
二つある土産菓子のうち一つを、実家用ということで母に渡してから。
俺は、もう一つの包みを持って、お隣さんへ向かった。
美絹家では、土産を渡すことは出来たが、香織には会えなかった。
まだ学校から帰っていないのだという。
特に部活に入っているわけでもないから、おそらく、どこかで寄り道をしているのだろう。
そんな美絹のおばさんの説明に対して、
「わかりました。一体どこで……」
俺も、そう対応しておく。
本当は二人とも、香織の居場所の見当はついているくせに。
美絹家をお暇した俺は、自分の家ではなく、近くの川原へと歩き始めた。
まだ陽が落ちるような時間帯ではなく、見上げれば、青空が視界に入る。
無理してでも清々しい気持ちになりながら、川原の土手道を歩く。
少し湿った、川辺に特有の風が、まるで俺の心を洗うかのように吹いていた。
そして。
大きな橋のかかっている地点から、わずかに下流。予想通りの場所で、俺は香織を見つけた。
背の高い草の陰へ隠れるようにして、コンクリートで舗装された岸辺に直接、腰を下ろしている。いわゆる体育座りの格好だ。
川原の緑が風で揺れるのにあわせて。
彼女の青みがかった艶やかな黒髪も、まるで自然の風景に溶け込むかのように、一緒になって風になびいていた。長くて美しい黒髪は、俺がよく知る香織の特徴そのものだ。
だが、高校の制服に包まれた彼女を見るのは、これが初めてだった。
茶色のブレザーは、しっとりとした雰囲気で、香織には良く似合っている、と感じられた。そのせいだろうか、今の彼女の横顔は、俺の記憶と比べて少し大人びて見える。
そうして、じっと凝視しながら近づいていくと……。
「あっ、マサハルお兄ちゃん! 帰って来てたのですね!」
視線なのか、足音なのか、気配なのか。とにかく俺に気づいた香織は、表情を崩した。一瞬のうちに、女子高生の顔から、見慣れた顔に――甘えた感じの笑顔に――変わったのだ。
ああ、やっぱり彼女は、俺の『妹』である香織だ。
気持ちも表情も緩んだ俺は、その瞬間。
香織が手にしていたものに気づいて、ハッと硬直する。
「香織ちゃん、もしかして……」
彼女は、学校の帰りに、この場所に立ち寄ったのだ。
ということは、つまり。
「……今日一日、それを持ち歩いてたの?」
久しぶりの挨拶も忘れて、俺は、思わず尋ねてしまう。
「だって……。今日は、真理お姉ちゃんの日ですから」
小さな赤い靴を握りしめたまま、香織は、少し照れたような口調だった。
真理お姉ちゃんの日……。
そう、ちょうど十年前の今日だ。
俺と香織と、香織の双子の姉である真理。川原で遊んでいた三人のうち、真理一人が、片方の靴だけを残して消えてしまったのは。
「川に吸い込まれたの!」
香織の証言があったから、大人たちは、真理が川に落ちたと思った。真理は溺れたのだと判断して、皆が懸命に捜索した。
だが、真理の姿は――溺死体すら――発見できなかった。
「違うの! 流されたんじゃないの! 吸い込まれたの!」
香織は必死になって訴えたが、大人たちには通じなかった。
俺も香織の肩を持ったが、大人たちを説得することは出来なかった。
いくら説明しても、小さな子供の戯言としか思われなかった。
だから。
真相を知っているのは、俺と香織の二人だけだ。
本当は。
真理は溺れたのではない。神隠しにあったのだ。
「あの日も、こんな感じで、空は晴れていて……」
遠い日に想いを馳せる香織を見ていると、当時の光景が、俺の目にも浮かんでくる。
「でも、もっと赤かったな。逢魔時ってほどじゃないけど、夕暮れ時って感じで」
示し合わせたかのように、二人揃って、川面に視線を向ける。
当たり前のように、川の水面は揺らいでいるが……。
あの時。
水面だけでなく、その上にある空間までもが、同じように歪んでいたのだ。
そして、子供らしい好奇心から「えっ、何これ?」と手を伸ばした真理が。
歪んだ空間に吸い込まれて、消えてしまったのだ!
しかも真理を取り込んだ瞬間、まるで役目を果たしたかのように、あの不思議な空間も消失したのだった。
「俺たちが止める暇もない、一瞬の出来事だった……」
「仕方ないわ、マサハルお兄ちゃん。私たちには、どうすることも出来なかったですもの」
香織は、俺の声に含まれる後悔や反省の念を感じ取ったのだろう。そう言ってくれた。
ありがとう。
心の中で俺が礼を言っている間に、香織は手にした靴へと、あらためて視線を向ける。
「真理お姉ちゃん……。本当に、どこに行ってしまったのか……」
「きっと彼女は、どこかで無事に生きている。俺は、そう信じてるさ」
今度は、俺が香織を慰める番だった。
小さく香織が頷いて、
「ええ。私も、そう思います。そして……。生きているなら、もう一度、会いたい」
と呟いた時。
川の水が流れる音に混じって、ブォーンという異音が聞こえてきた。
どこかで聞き覚えのある音だ。
ハッとした顔で、香織が、川面を指し示す。
「マサハルお兄ちゃん! あれ!」
俺もそちらに視線を向けると……。
水面ではなく、その上の空間が。
まるで揺らぐ水のように、不可思議に歪んでいた。
そう、十年前の再現だ!
ただし。
今回の『歪み』は、規模が大きかった。
みるみるうちに、川岸まで届くくらいに膨れ上がって……。
「危ない!」
叫ぶことしか出来ず、具体的な対応は間に合わない。
俺と香織の二人は、その空間に取り込まれて、意識を失った。
――――――――――――
「お兄ちゃん! マサハルお兄ちゃん!」
香織に揺り動かされて、俺は目を覚ました。
「よかった、ようやく気づいてくれた……」
まず視界に入ってきたのは、ホッとするような香織の表情。
続いて。
「どこだ、ここは?」
「わかんない。おかしいよね、私たち、さっきまで川原にいたはずですよね?」
そう。
俺たちの居場所は、もう川原ではなかった。
ざっと見たところ、森の中という感じだ。大きな樹々に囲まれているのだが……。
「ここ、ひょっとして外国か?」
「えっ?」
どうやら香織は、そこまで気づいていなかったらしい。
京都で暮らし始めた俺は、大文字山とか吉田山とか、小さな山中の森まで遊びに行く機会もあったから、違和感として認識できたのかもしれないが……。
樹々の緑の葉っぱが、妙に生きが良いのだ。こんなに緑が、枝から広々と青々と生い茂っているのは、おそらく日本の森林ではない。
「違う場所に飛ばされたというなら、日本とは限らないから……」
「そっか! さすがマサハルお兄ちゃん、頭いい!」
と、香織が俺を賞賛してくれた時。
不気味な唸り声と共に、森の奥から、一匹の怪物が現れた!
二足歩行の熊を凶悪に擬人化したら、こんな感じになるのだろうか。
そうとしか表現できない、灰色のモンスターだった。
「きゃあっ!」
しがみついてきた香織を、俺は後ろ手にかばう。
だが正直『かばう』だけであって、武器もない俺には、この怪物に対処する術がない。よくわからない森の中では、逃げるという選択肢も難しいだろうし、ましてや、死んだふりも当然ダメだろう。
さて、どうするか……。
気ばかり焦る、その時。
「ハアッ!」
俺たち二人と怪物熊の間を、一陣の赤い風が吹き抜けた。
いや、正確には『風』ではない。風のような速さで、俺たちを助けに来た者がいたのだ。
赤い長髪に、全身の鎧装備も赤で統一。見るからに『戦士』というイメージの若い女性だった。
怪物と対峙した彼女は、俺たち二人に背を向けたまま、ザンッと剣を一振り。凶悪な怪物を、一刀のもとに斬り捨てていた。
「ひっ!」
香織の恐怖の声。
無理もない。いくら怪物とはいえ、命あるものが斬り殺されるのを見たのは、俺も香りも初めてなのだから。
赤い女戦士は、血まみれの剣を手にしたまま、ゆっくりと振り返り……。
「お二人さん、大丈夫だった?」
どこか懐かしい表情で、俺たち二人に声をかけてきた。
そう、彼女の顔に浮かぶのは、どこか懐かしい表情だったのだ。
俺にはその理由が直感的にわかったし、香織も同じだったらしい。
女戦士に対して、香織は、こう叫んだのだから。
「もしかして、真理お姉ちゃん……? 真理お姉ちゃんよね?」