第十一話 やっぱり夢だった
さっきミラボー橋でセーヌ川を見下ろしながら、りご三郎君が話していた詩人のことを思い出しました。
人はどうして自殺するんだろう。
自分の命を絶たなきゃいけないほどつらいこと、苦しいことって、どんなに必死に逃げようとしても、追い付かれてしまうのかな。
もしかしたら、つらいことの方へ、自分でも気づかないうちに近づいていくのかも。
だから詩人なんじゃないのかな……。なんてことを考えているうちに、眠りに落ちたらしいです。
眠っている間に、りご三郎君と一緒にいろんなところへ行く夢を見ました。オーストラリアのグレートバリアリーフをダイビングしたり、北欧でオーロラを眺めたり、アメリカではグランドキャニオンの景色にため息をついたり……。他にもたくさんの場所へ行ったみたいなんですが、覚えていたのはこの三つぐらい。
目が覚めると、見知らぬ天井どころの話ではなく、真上は夜空で星が出ていました。そう、ここはパリで、屋外の寝椅子に寝ていたのですから、旅先で迎える朝の「ここどこやー!」感といったら半端ではありません。シュラフに入ったまま「ガバッ」と身を起こしてあたりを見回し、腕時計を見ると、ちょうど1時間が経とうとしていました。
窓ガラスを隔てたカフェの店内にりご三郎君の姿はなく、客席の奥のカウンターに立つ店員のお姉さんがわたしを見て微笑んでいました。恥ずかしくて顔が赤くなるのが自分でもわかりましたが、とりあえず照れ隠しに頭を下げると、お姉さんもニコニコ顔で頷いてくれました。
シュラフを体から引き抜いている間に、りご三郎君がお店のドアを開けて入ってきました。立ち上がってシュラフを畳んでいると、わたしに向かって手を振っています。一人で散歩して何が面白いのかわかりませんが、そこは変わり者なのでしょう。温泉旅館やらエッフェル塔やらご一緒する間に、だいぶ彼の人柄がわかってきたみたいでした。
受け入れられそうかどうか? そこはまだ、ちょっとという段階ではあったのですが。
りご三郎君がユーロでお金を払い、店員のお姉さんに手を振ってカフェを後にしました。お昼寝の時間も終わり。登校前に昼寝も済ませてしまうのは不思議ですが、なんという贅沢でしょうか。
エレベーターで1階まで下り、自分の部屋に続く薄暗い廊下に出ると、これで「月から来た少年」のプレゼントは終わりなんだという実感がわいてきます。でも、さすがに欲張り過ぎ。自分からお礼を言うことにしました。
「楽しかった。ありがとう……」
「それはよかった。これから学校、大変だけど頑張ってね」
あっさり「頑張ってね」と言われて少し拍子抜けがしましたけれど、かえって背中を押された気分にもなりました。二人並んで歩くうちに、気がつくともう我が家の自分の部屋のドアの前にいました。
「ここでお別れ?」
「うん。おれも月に戻らないと」
「家出も終わりにするんだ」
「そういうこと。もっといろんなところ行きたかったけど仕方ないや」
そうだね、また。
喉元まで出かかった言葉を、なぜかわたしは言えませんでした。ただのお礼みたいなものなのに、なんだか催促っぽく聞こえそうなのが嫌だったのかもしれません。
「ありがとう。それじゃりご三郎君、元気で」
「うん、莉奈ちゃんも元気で」
靴を脱いで振り返ると、りご三郎君はぺたぺたと草履を鳴らしながら、パリ市街に通じる出口へ歩いていくところでした。街灯の光に浮かび上がった彼のシルエットが振り向いて手を振ったので、わたしも手を振ってから、ドアを開けて自分の部屋に入りました。
わたしの部屋は日本の朝です。ローファーを片手にぶら下げたまま壁掛け時計に目をやると、ベッドを出た時から5分もたっていません。
布団をめくってみると、まだ自分の体温が残っています。たった数分の間に、わたしは人生の大事な時間を過ごしてしまったということなのでしょうか。制服姿のわたしは一人で部屋の中に立ち尽くし、温泉旅館とパリの思い出を噛みしめる羽目になりました。
やばい。朝っぱらからこんなヘビーな感傷を引きずって授業なんか受けられない。りご三郎のやつめ、やりやがったな。思わずため息が出ました。しかし時計の針は無情に1分、2分と時を刻んでいきます。
やっぱり、夢だよ。
なぜかわたしは制服に着替えて、お腹もいっぱいなんだけど。そうだ、歯だけ磨いて学校に行こう。なんだか悲壮な決意を固めて、スクールバッグを取って部屋のドアを開けますと、そこには見慣れた自宅の廊下が階段へと続いていました。よかった、夢だ。




