第十話 疲れたのでお昼寝(登校前)
観光客らしい若い白人女性の二人連れが、りご三郎君の肩を叩いてスマホを手渡しました。りご三郎君は気さくに「OK」と答えて、エッフェル塔をバックにピースサインをかざす二人連れを撮影してあげました。考えてみれば、月から来た男の子が難なくスマホを使えるというのもすごく不思議なことかもしれません。わたしは、写真家みたいに真剣な顔でスマホのシャッターを切る彼を、妙に落ち着かない気分で眺めていました。
二人連れが「Thank you」と言って立ち去り、りご三郎君がわたしの横に戻ってきたのを待って、わたしは彼の友達の話を再開しました。
「それでその子、どうなったの」
「中学卒業まで耐えた。まあ人間、最後は耐えるしかないんだよね」
りご三郎君はセーヌ川の上の空を見上げて、また口をへの字に広げて歯を見せる変顔をつくりました。月にいるお母さんに「いぃー!」でもしてるみたいに。
「仕方ないんだよ。そいつ微妙に残念な奴だったから」
「微妙に?」
「そう。それも全方位に微妙に残念なの。それだと始末に負えないじゃん? おれだとか周りの友達も助けようがないんだよね。どうせなら突き抜けるくらいの超絶バカだった方がよかったのにさ」
「でも、りご三郎君はそんな彼と友達なんでしょ?」
「そういうこと」
全方位に微妙に残念なのは、わたしも同じです。りご三郎君は、そんな人がお気に入りなのかもしれません。
「りご三郎君が月から来たことを、その彼は知ってるの?」
「もちろん知ってるよ」
「え、じゃ、クラスのみんなに言いふらされたら」
「だっておれ見えないもん」
「でも、さっき普通の人に声掛けられてたでしょ」
「ここは別なの。君らの日常生活の中では、おれは他の人には見えない」
随分うまくできてるな、と思いました。
この橋から眺めると、エッフェル塔は随分遠くに見えます。せっかくパリに来たんだから、塔の高いところに上がってみたい気もしますが、……実はかなり眠くなってきていました。
温泉旅館で本気の卓球勝負をした疲れは、あの後でお風呂に入ったくらいでは抜けていなかったのでしょう。でも、きょうは部屋に戻ってから学校へ行かなくてはなりません。こんなに眠くては授業中に爆睡してしまいそうです。
エッフェル塔に向かって大あくびをしたところを、りご三郎君に見られてしまいました。
「眠いんだ?」
「うん……」
りご三郎君の目は相変わらずつぶらです。さすが男の子だけあって、あの程度の運動は全然苦にならないのでしょうか。
「きょうは学校があるんだよねえ。ここはもう終わりにする?」
「うーん。どうしよっかな……」
結局、エッフェル塔だけは見物しておくことにしました。りご三郎君はなんとユーロまで持っているというので、またしても彼のサービスに甘えてしまいました。バスに乗って塔まで行き、エレベーターで展望台に上ってパリの風景を一望すると眠気が一気に吹き飛びます。まだスカイツリーの展望台に上がったこともないわたしが、先にパリのエッフェル塔に上がってしまうとは! 友達に吹聴すれば鼻高々なのですけれど、それは自粛した方が良いのでしょう。
遠くの凱旋門やルーヴル美術館なんかを指差してりご三郎君とはしゃいでいたんですが、頭の中では「あー、やっぱりスカイツリーとか見えないんだ」などと残念なことを考えていたのでした(もちろん口には出しません)。そろそろ日本に帰りたくなってきたのを自覚しました。
西の方に広がるブーローニュの森には、太陽が沈もうとしていました。
「もう大満足。15歳で一生分の思い出作っちゃった感じ」
「一生分って……。じゃ、帰ろうか」
わたしは頷いて、りご三郎君の後に続いて下りのエレベーターに乗りました。
こうして、パリ観光は終わり。わたしたちは出てきた時の建物までバスで戻って、同じ建物の5階にあるカフェで休ませてもらうことにしました。カフェのテラスには安楽椅子のようなものが幾つも出してあって、シュラフ(「寝袋」のことなのは最近知りました)に入って外でお昼寝ができるらしいのです。パリの空の下でお昼寝……。これだけでもかなりお金を取られそうな気もするんですが、もうその時のわたしは、全部りご三郎君に任せきりになっていました。ていうか、保護者の彼がいないとどうにもならない状態だったわけで、警戒心は完全に消えてしまっていたのです。
「それじゃ、1時間たったら起こしにくるから」
「え、あなたはどこへ行くの?」
「ちょっとそのへんを散歩」
「ごめんね、わたしだけ寝ちゃって」
「気にしない気にしない」
きっと、ここで何時間眠っても部屋に戻ったら出た時と同じ時刻なのでしょうから、本当にうまくできています。でも、ここで過ごした時間までリセットされるのでしょうか? もしそうじゃなかったら……わたしがおばあさんになっても両親や友達はそのままということに? ちょっと怖い話なので、りご三郎君に尋ねるのはやめておくことにしました。
1時間お昼寝するだけなら大して違いはないでしょう! 日本とフランスの時差みたいなもんですよね。違うかな……?
蓑虫みたいにシュラフに収まって寝椅子に仰向けになり、見上げる空の青い色は、夕闇のせいでだんだん濃くなっていきます。テラスの壁の下からは遠鳴りのような車の行き交う音、そして枕に載せた顔を、時折撫でていくそよ風。そう、ここはパリの夕暮れの街角……。




