二話 ショパンの旋律
気付くと僕はその小説をすっかり読み終えていて、抹茶とココアのクランブルタルトをながめていた。
別に僕はそれを食べることもできたんだけれど、そうはしなかった。
ケルト音楽とコーヒーのほろ苦いアロマ、そしてセブンスタの甘ったるい香りのせいで体を動かすのが面倒だったんだ。
僕は惰性でセブンスタの灰を透明なアッシュに落とし込むと、カフェ特有の大きな窓に目をやった。
夕焼けが石畳に染みこんで水彩画みたいだった、夜が僕を迎えに来たんだ。
胸のポケットからティモールの懐中時計を取り出して、金色の蓋を開くと動いている歯車が見えた、五時半だった。
そろそろ出ようかな、なんて考えてからすっかり短くなったセブンスタをアッシュの上に置くと、僕は立ち上がるため膝に力をいれた。
でも立ち上がれなかった。
今まで流れていたケルト音楽が終わって、ショパンの「幻想即興曲」が流れ始めたんだ。
僕はそれに激しく動揺した。
それは今思うと全ての始まりで、奇跡みたいなことだったんだ。
でもその時の僕にはそんなことは分からなかった、ただ耳を塞いでその場にうずくまることしかできなかったんだ。
耳を塞いでも聞こえてくる激しいピアノの旋律に僕は得体の知れない恐怖を感じた、立っていることができないくらいのね。
気付けばYシャツが冷や汗でベタベタになっていた。
精神がおしつぶされるようで正気じゃいられなかった。
でも、しばらくしたら次第に旋律が緩やかになっていって、僕の精神はなんとか一時の平穏を取り戻した。
気付けば眼鏡をかけたおとなしそうな店員が近くに駆け寄ってきていて、しきりに僕の様子を気にしていた。
「・・・大丈夫ですか?」と蒼ざめた顔の彼女は言った、乾いた綺麗な声だった。
「申し訳ないんですが、レコードを止めては頂けませんか?」
「レコードですか、分かりました」
そう言って彼女は小走りで蓄音機の置いてあるカウンターの方へ戻って行った。
レコードが鳴り止んだのを確認した僕はよろけながらも立ち上がり、乱れた服を正した。
襟を引っ張ると汗でぬれたYシャツが肌にまとわりついてきて、気持ち悪かった。
なんとか立ち上がった僕は今度こそカフェを出ようとしたんだ。
でも駄目だった、今度はケータイの着信音に邪魔された。
僕はカバンの中に放り込んであったケータイを取り出した、妹のミオからの着信だった。
やれやれと思いながらも僕は妹からの電話に応じてやった。
「オイ!クソ兄貴!
今、どこにいやがる!?」
応答ボタンを押すなり妹の怒号が響いた。
僕は妹の怒鳴る声が大嫌いだった。
夏休みの公園に湧く子供みたいに元気でハスキーな声が本当に嫌だったんだ。
「オイ!聞こえてんだろ!?
聞こえてんなら返事くらいしろよ、バカ兄貴!」
でも僕は黙っていた、返事をするとさらに面倒なことになると知っていたからね。
お互いの沈黙が続いた、けれどしばらくすると痺れを切らした妹が口を開いた。
「五時半までには帰って来いつってんだろ。
遅くなるなら連絡いれろって、メシが冷めちまうだろーが。
・・・もうメシ作っちまったから早く帰って来いよ、アホ兄貴」
そう言い残すと妹は電話を切った。
悲しいかな、と僕は言った。