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御霊の娘子  作者: あかば
怪文書
9/25

 背後で扉が開く音がする。

 中浦が忘れ物でも取りに戻ってきたのかと思った。

 コピーを机に放り投げて、「どうした」と言いながら振り返る。


 扉の向こうの薄暗い廊下に仁王立ちしている、鬼の面のように恐ろしげな顔の天誅教授と目があった。

 喉から走り出そうになった悲鳴をすんでのところで踏みとどめる。

 夏でも冬でもまったく変わらず身につけている軍用コートをはためかせ、天誅教授が大股で歩み寄ってくる。

 長い足が、こちらに向けて1歩踏み出されるごとに室内の熱気がどよめき、少し澱んだような冷気が直之の脇を通り抜けていく。


「なんだ」


「なんでもありません」


 やっとの思いで絞り出した声だったが、最後の方は消え入るようにかすれていってしまった。

 扇風機にあっという間に吹き飛ばされたそれが混ざり合った初夏の風が、ブラインドを揺らして小さな音を立てている。


「なにか見つかったのか」


 そう問われて恐る恐る首を横に振った直之に、目の前にまで迫った天誅教授は予想に反して怒り出さずに「だろうな」と呟いた。


「こういう調べ物を命じられた生徒はな、見つかったら喜び勇んで報告にくるもんだ。それがひと月経っても音沙汰なしってことは、そういうことだろうが」


 ぐうの音も出なかった。ますます縮こまる直之の内心などお構いなしといった様子で、天誅教授は脇に抱えていた1冊の本を押しつけてくる。


「これだ」


 表紙に大きく『山口県民俗史総覧 2』と書かれたそれは、文庫よりも少し大きい程度の見た目に反して、受け取った直之が思わず声を上げるくらいにずしりと重かった。


「俺が授業で使った資料の参考文献だ。72ページを見ろ」


 思わずきょとんとしていると、「72ページ」と繰り返された天誅教授の声が少し大きくなった。

 慌ててつるつるとした紙質のページをめくっていく。途中から片手で抱えるのがつらくなって、机の上に置いてからすぐにそれは見つかった。


「同じ写真ですね」


「おう」


 『絵馬』と題がつけられた章の終盤に、その写真は掲載されていた。天誅教授が引用した書籍のそれよりはかなり鮮明に写っている童子と怪魚の図像には、『図84 釣絵馬 中島郡 蛭子神社』と題字がつけられていた。


「ツリエマ、って読むんですかね、これ」


「それを調べんのがお前の役目だろうが」


 天誅教授の鼻が不機嫌そうに鳴る。


「まずこの章を死ぬほど読め。死ぬほど読んだら次は参考文献の一覧からこの写真に関することが書いてある資料を探し出せ」


 びっくりするくらい早口でそう言う天誅教授の首は、普段にも増して不規則に左右に揺れている。


「期限は7月末までにしとくか。お前らにかかずらってる場合じゃねえんだ俺はな。したくもねえ4年どもの相手をしなきゃならねえんだ」


 ものすごく大きなため息からは、少し油もののような臭いがした。


「秋から文章を書き出せ。卒論はとにかくさっさと書き始めた方がいいんだ。どうせ就活だの何だの言いだすことになるんだからな。とにかく今は資料を探せ、いいな」


 直之の返事も聞かずに天誅教授の身体が180度回転した。

 勢い余ってぶつけられた腕に弾き飛ばされた椅子が、ソファにぶつかって悲鳴を上げる。


「どうなってんだこの暑さは。冷房は何やってんだ」


 くそったれ、と独り言にしては大きく暴言を吐きながら、あっという間に天誅教授は走り去っていった。

 研究室の扉が乱暴に閉じられる。

 その音を合図に、時計やパソコンなどの備品たちは息を潜めるのをやめたらしかった。張りつめていた空気はにわかに弛緩し、それまで全く聞こえなかった様々な電子機器の音が研究室の中に反響し始める。


 大きく息を吐き出しながら椅子にもたれる力を強める。肘付きの黒いオフィスチェアが軋むようなうなり声をたてるが気にしない。

 天誅教授が出て行ってから、室内の温度が数度あがったような気がする。そう思った途端に、額をつうと不愉快な汗が流れ落ちた。

 時計の長針はそろそろ6の文字に至ろうとしている。


 再び扉が開く音がした。

 天誅教授が戻ってきたのかと身構えたら、ひょっこりと中浦のいがぐり頭が扉の陰から現れたのが見えた。


「忘れ物したから取りに戻ったんだけど、今さっき階段のところで天誅とすれ違ったってことは」


 視線を右往左往させて室内に他人がいないことを確認してから、「終わったか」と中浦は半分笑いながら囁いた。

 返事をする代わりに、特大のため息をついて首を縦に振る。


「どんな話だったんだよ」


「お前の卒論指導と大体同じだよ」


 物珍しそうな中浦の視線から隠すようにして、『山口県民俗史総覧 2』とレジメのコピーを鞄に押し込める。中浦は「お前も缶詰か」と笑いながら、ソファの上に置かれていた忘れたという青い筆箱を掴みあげていた。


 肩にかけた鞄の肩紐がずしりと食い込む。書籍の重みに加えて、「期限」と名前をつけられた怪物が、今はまだその本性を隠して、比較的穏やかな顔つきで直之の両肩に手をかけているのを感じる。


「飯食いにいこう」


 乱暴に立ち上がって蛍光灯のスイッチを叩き、乾ききった声でそう言った。

 唐突に目の前に立ちふさがった卒業論文の気配を、今だけは忘れていようと思った。

 薄暗くなった室内で、外の光に照らされた中浦の神妙な顔が頷く。


「俺にはよーく分かるぞ、今のお前の気持ち」


 本当かよ、と思った。


「説教の後って腹減るよな」


 こいつはこんな奴だよ、と笑い損なったようなかすれた吐息が漏れ出た。


 おそらく直之の内心には気付いていないだろう中浦は、「やってらんねーよなー」と軽口を叩きながら研究室の扉を開ける。

 我先にと室内の熱気が廊下へと駆けだしていく。


 涼風に頬を叩かれ、1歩踏み出した直之は目を細めた。

 廊下に出ても物音はほとんど聞こえない。正午を30分ほど過ぎているため、外を出歩いている生徒はほとんどいないらしい。


 遙か彼方を通り過ぎていった車の音に、聞き覚えのある虫の声が混ざっているような気がして思わず「あっ」と声を上げた。


「どうしたあ」


 背中を向けたままの中浦の声には応えずに、じっと耳をそばだてる。

 やはり気のせいではなかった。

 がちゃがちゃと扉の鍵と格闘していた中浦も、直之が声を上げた理由に気付いたらしかった。施錠を終えてキーホルダーをぶんぶん振り回し、したり顔で頷きながら側に歩み寄ってくる。


「夏だな」


「ん」


 みん、と彼方で小さく相槌が打たれた。


 それは直之が今年最初に聞く蝉の声で、昔から季節の変わり目の合図と決められている音で、天誅教授の指図よりはずっと気楽に感じられる卒論開始のゴングだった。


「鍵って用務員室に返しとくんだっけか」


「赤提灯のキーホルダーの鍵なら、それであってる」


 食堂側の出入り口に近い階段に向かって歩き始める。

 廊下を進むごとに窓から差し込む日差しが強まり、蝉の声が大きく力を増していく。

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