①
去年よりも少し早く訪れた梅雨空は、通り過ぎていくのも少し早かった。
灰一色だった空の明るさは朝を迎えるごとに増し、通学中に額に浮かぶ汗の量は増えてくる。ついこの間には日が落ちていた時間になっても、まだ太陽の後ろ姿が西の空に低く見えているようになった。
木々は日に日に深く色づき、気の早い入道雲の子供が山の上にぽかりと浮かんでいる。
濁流のようにやってきた夏が、すっかり季節を押し流してしまっていた。
蝉の鳴き声は未だに聞こえないが、大学構内を吹く風は重たくて熱い。
研究室の扉に張られた6月のカレンダーがはがされてから、今日でちょうど1週間が経っている。
つい先ほど、市内のあちこちで防災無線から正午の時報が鳴ったところだった。続々と講義棟から吐き出された学生が食堂へと飲み込まれていくのを、太陽が無言で見下ろしている。
午前の授業を終えて、直之は人の波から逃れるようにして研究棟に来ていた。
3カ所ある通用口のうち、西側の扉から入って真正面の階段を上る。建物の外側を囲んでいる廊下を足早に進み、並んだ扉の4番目にある目的地に向かう。
棟内には人の気配こそ随所にあるものの、ざわめく屋外とは打って変わって静まりかえっている。節電のために薄暗い廊下では、春の生き残りである肌寒さが未だに所々で息を潜めていた。
国文学部研究室、共同書庫、歴史学部研究室を通り過ぎて、民俗学部研究室の扉を開ける。
むわ、と息の詰まるような熱気に出迎えられた。
春の残党などひとたまりもなかった。背中に感じていた廊下の寒気はあっという間に四散してしまった。
扉を後ろ手で閉める。毛穴から一斉に細かな汗が吹き出し、不快指数の上昇を告げる警報音が頭の中で鳴り響く。
真っ白に輝いている正面の窓のせいで、室内は殊更に薄暗い。
数日前に稼働し始めたはずの冷房は、調子が悪いのかずっと無音のままだ。下げられたブラインドなどお構いなしの力強い熱射に抗うべく、年季の入った扇風機が必死に首を振っている。
来客用のソファに1人が座っているだけで、研究室が騒がしくなるのはもう少し先のようだった。
だらしなく足を投げ出している背中は、同じ3年生の中浦に相違なかった。
直之が呼びかけると、力のない声が返ってくる。
「おお、柳井」
首から上だけがこちらに向けられる。10年分余計に老けているとよく言われている彫りの深い顔が、ぐったりと歪んでいる。
無精ひげが教授陣よりも似合う大学生はこの男くらいだろう。
「何してんの」
机の上を指さして、「見りゃわかんだろお」と中浦がぼやく。
なにやら書き殴られた紙、乱雑に積まれた本。大方この男がここで頑張っているのも、直之が研究室に赴いたのと同じ理由だろうと思われた。
「なんでこんな暑いところでいるんだよ、せめて窓を開けろ」
ホワイトボードや椅子をよけながら研究室を横断する直之の背後で、中浦はヒキガエルのようなうめき声をあげている。
ブラインド越しに開けた窓からは、じめっとした少し涼やかな微風と、室内の何倍も熱い日光が入ってきた。
「俺だってこんな地獄に缶詰にされたくねえよ」
「よその教室とか図書館に行けばいいじゃんか」
「俺もそう思うよ」
中浦は諦めきった風にペンを机に放り投げた。「先生がここでやれって言うから」。
ああ、と直之は苦笑する。
要は監視下にあるというわけだ。
「やってらんねえ。飯だ、飯食いにいこうぜ」
「残念、俺もこれから卒論なんだわ」
「ここでか」
直之が頷くと、中浦は小さく悲鳴をあげた。
「てことは天誅がここに来るってことか。ありえねえ」
散らかされたあれこれをかき集めるようにして鞄に放り込みながら、中浦はのろのろと立ち上がる。
「悪いけど退散するわ。先生が俺を探しにきたら食堂だって言っといてくれよ」
「わかった。今日は何時までやれって言われてんのお前」
足早に扉に向かっていた中浦が、苦虫を噛み潰したような顔で振り返る。
「終わるまで、だとさ」
「お互い大変だな」
ひらひらと手を振りながら、中浦は研究室から飛び出していった。挨拶を言い終わるよりも早く扉が閉まり、「じゃあまたな」と言った直之の声は尻切れ蜻蛉になってしまった。
研究室に静寂が訪れ、一瞬の後に風鳴りや揺れる梢、時計の秒針といった音が聞こえ始める。
直之も椅子に座り込んで、これから始まる天誅教授の卒論指導のことを考える。
ぶうんという扇風機の声が一際大きく室内に木霊している。