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御霊の娘子  作者: あかば
夏に至れ
6/25

「なにやってんだお前」


 天誅教授は気配なく廊下から現れたのが嘘だったみたいにどかどか音を立てて室内に入ってきて、直之の返事も聞かずに置きっぱなしだったコーヒーを一気に呷った。

 雨音も時計の音もあっという間に聞こえなくなって、室内はにわかに騒がしくなる。

 放り出されたカップが悲鳴を上げるのもお構いなしに「まずい」と呟いてから、天誅教授は再び直之の目を見据えた。

 先ほどの「なにやってんだ」の意味を測りかねながら、直之は慎重に言葉を選び出す。


「出頭」


 は、と天誅教授の口から空気が漏れる。


「出頭しろ、と書いてあったので」


 指さした先にあるホワイトボードと直之の顔を交互に見て、天誅教授は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「誰だよこんなの書いた奴。俺は知らねえぞ」


 どうやら、授業を欠席したことを非難する「なにやってんだ」ではなかったらしい。安堵のため息を飲み込んだ喉が、ごくりと音を立てる。

 乱暴な手つきでカップを脇へ押しやり、椅子を直之に向かって蹴り出して、天誅教授は威嚇する獣のように唸った。


「で、どうすんだ。卒論は」


「えっ」


 ぽかんと開いた直之の口を見ながら、天誅教授はもう一度不機嫌そうな唸り声をあげる。


「そのために出頭したんじゃねえのかお前」


 おそるおそる、蹴り出された椅子に座った。


 机を挟んで天誅教授と向かい合う。

 困ったことになったと思った。

 研究室の空気は一気に張りつめ、自分の鼓動と甲高い耳鳴り以外は何も聞こえなくなってしまった。

 とても「未定です」などと言い出すことができる雰囲気ではない。天誅教授の背後でぴたりと閉じられた扉の前には淀んだ空気が鎮座しており、助け船が入ってくる気配は微塵も感じられなかった。

 獣の檻に放り込まれたように、全身がどんどん縮こまるのが分かった。

 中浦なら何食わぬ顔で「考えてたんですけど」と言ってのけるに違いない、と思った。あいつはすごい奴だな、と冷え切った頭が他人事のように明後日の方を向く。


「考えてこなかったか」


 助け船が出てきたと思ったので、天誅教授の顔を視界に入れないようにしながら頷いた。


「じゃあ今決めろ」


 本当に困ったことになったと思った。

目の前で助け船が沈没していく。

 上目遣いに窺った天誅教授の顔色からは、なんの特別な感情も読み取ることができなかった。眼鏡の厚いレンズに映った、土気色をした自分と目があった。


「テーマなんざ適当でいいんだよ。どうせ大方は半年もすれば変わるに決まってんだから。こんなもん後に回したら指導する俺がますます面倒になるだろうが、ええ」


 今度の助け船は沈没しないように思われたが、だからといって、今すぐそれらしいものを出して見せることができるほど直之の頭の引き出しは広くない。

せめて普段の授業の内容をきちんと覚えていれば、と思うが後の祭りである。


 言ってやろう、と思った。なにも難しいことのようには思えなかった。中浦が普段やっているようにやればいいだけのことだ。

 考えてみれば、と直之は深呼吸をしながら思う。高校生の夏休み明け、仁王立ちをした数学の坂田に宿題を忘れた言い訳を早口で並べ立てたときのことを思い出す。あの時と同じだ。状況はむしろあの時よりもいくらか良いといえる。


「でもや」


「なんか興味のあるもんとかないのか」


 ものすごく的確に機先を制された。

 プロボクサーみたいなパンチを鼻先に食らって、後に続くはずだった「っぱりすぐには考えられないです」という直之の渾身の一撃は霧散してしまった。

 喉から掠れたような情けない空気が漏れる。


 天誅教授はカップに手を伸ばしてから先程中身を飲み干したことを思い出したらしく、大欠伸をしながら立ち上がった。

 少しだけ部屋の空気が弛緩する。

 天誅教授の視線が外れた途端に肩からがくりと力が抜け、左側の本棚に置かれたハート型土偶のフィギュアと目があった。

 入り口の扉の脇にある冷蔵庫に覆い被さるようにして、天誅教授の背中がぶつぶつと言う。


「どうせまだ3年なんだ。なんか決めてしまえば調べて書くしかなくなるだろうが。授業の内容とかで気になったこととか、普段から関心持ってるようなこととか、なんかないのか」


 何か手がかりはないものかと、研究室の中で視線を泳がせる。

 はるかな縄文時代に繋がっているはずの土偶の目は、直之に何も示してはくれなかった。

 作られたのは現代だしな、と嘆息する。

 隣の棚に置かれた狐の面にもそっぽを向かれた気がした。

 救いを求めてずらりと並んだ書名を上から追っていく。目当てのものが見つからないらしく、天誅教授は何やらポットの周りでがちゃがちゃとやっている。


「ああ」


 思いつきのきっかけは、授業の内容で気になったこと、という一言だったように思う。


 あれは去年の秋か冬のことだった。


 天誅教授の授業中に抱いた、疑問とも言えないようなひっかかりのことを思い出した。今の今まで忘れていても差し障りのなかった小さなもやもやである。

 けれども、再び記憶の引き出しから現れたそれは、にわかに大きな入道雲のように直之の中で頭をもたげはじめたのである。


「おう」


 天誅教授が机に戻ってきた。

 湯気を立てているカップの中身は無色透明で、直之の視線に気付いて天誅教授は不機嫌そうに「白湯だ」と言う。


「絵馬、とかどうでしょうか。以前に先生の授業でやった」


「以前っていつだ」


「去年の後期の木曜の、1限目だったと思います」


 天誅教授はしばらく黙って、直之の背後の何もない空間を見つめていた。もしや覚えていないのかと直之が思ったころに、天誅教授は大きく頭を振った。どうやら本当に覚えていないらしい。


「俺、たぶん持ってます。そのときの授業のプリント」


 ソファの方に手を伸ばして鞄を引き寄せ、不健康に太ったクリアファイルを引っ張り出す。

 天地もばらばらに詰め込まれた去年の記憶の中から『近世風俗史・9』と書かれたA3のレジメを取り出すのに、そう時間はかからなかった。

 天誅教授が「お前なかなか物持ちがいいじゃねえか」と感心した風に呟いた。年度が変わって2ヶ月以上が経っているのに鞄の中身が昨年度のままだということを悟られる前に、直之はできるだけさりげない動作で、素早くファイルを鞄に隠す。


 近世から近代にかけてのいくつかの記録や遺物を通じて、現代まで続いている習俗の由来や意味について学ぶ。というのが初日に説明された『近世風俗史』の大まかな内容であった。

 地域の神社に奉納された絵馬を扱ったのは授業も半ばにさしかかった11月のことだったように思う。

 少し掠れて皺寄ったコピー用紙に載ったいくつかの写真を見て、天誅教授は「ああこれか、ああやったなそういえば」と呟きながら立ち上がった。

 どこに行くのかと思ったら背後の書架から分厚い写真集のようなものを引っ張り出し、平積みにされている本の山の中からも何冊か持ち出して戻ってくる。


「絵馬ったってなあ、お前」


 どん、と音を立てて『○○神社企画展 参詣図絵馬図録』が机に置かれる。続いて次々と積まれていく、『錠絵馬を研究する』、『拝み絵馬と庶民の願い』、『出産儀礼と小絵馬』、等々。


「大絵馬か、小絵馬か。どれにするんだよ」


 糸のような目が僅かに見開かれる。

 直之はすぐにはそれに答えずにレジメを裏返した。

 授業の要点が書かれた文字ばかりの表面とは対照的に、裏面にはいくつかの参考文献からコピーしてきたと思われる絵馬の画像ばかりが並んでいる。

 その一点を指さした。天誅教授の視線がじろりとそこに集中する。


「武者絵馬か」


「いえ、その下の」


 なに、と不機嫌そうな声が少しうわずった。眼鏡に指をかけた天誅教授の顔が指先に近づいてくる。


 レジメの裏面は、授業ではまったく扱わなかったように記憶している。


 天誅教授が「武者絵馬か」と言ったその画像は、使われなかった裏面の一番最後に載せられている。何かの本の一部を無理矢理に縮小したと思われる白馬に跨がった鎧武者の絵の下に、何やら別の絵馬の上部と思われる画像が、印刷の都合か写り込んでしまっている。

その絵は何やら人にも見えるし、建物にも見えるし、静物にも見えた。

 その画像がポールペンでぐるぐると囲まれているのは、授業中に直之の関心があらぬ方向に向いていた証である。

 印象深く直之がこれを覚えていた理由は、レジメに用いられている画像の中で、これだけ書かれている内容がまったく分からなかったからだった。

 もう少し画質が良いか、もう少し写っている範囲が広いか狭いかしたならば、直之は気にも留めなかったかもしれない。


 何か言われるかとこっそり天誅教授の表情を伺う。

 普段以上に細められた目の間の皺が、彫像みたいに深くなっていた。


「これか」


「はい」


「この丸うってる奴か」


「はい」


「この丸は俺がうてって指示したのか」


 言葉に詰まった直之を見て、天誅教授は小さくため息をついた。

 どんな叱責が飛んでくるかと僅かに身構える。

 けれども授業中に上の空でいたことについては天誅教授はなにも言わずに、積み上げた本の中から取りあげた1冊をぱらぱらと開いて、もう1度、今度は少し長くため息をついた。


 こちらに向けて押し出されたページの端は少し日に焼けていて、見るからに新しい書籍ではなかった。

 見開きの右側に文章が書き連ねられており、左側に白黒写真が4つ載せられている。上から順番に、どこかの神社の拝殿、ずらりと並んだ絵馬、そのうちの1枚を拡大したと思われるもの。

 レジメに使われていた騎馬武者の絵馬は、3枚目の写真の拡大コピーだった。


 その下にある、4枚目の画像をまじまじと見つめる。


 改めて見ると、それは何の変哲もない絵馬の写真だった。

 大きな黒いものにまたがった、着飾った子供の絵が描かれていた。

 黒いものには鱗のような模様こそないものの、微かに目と口らしいものが書かれており、魚の絵のように直之には思えた。直之が人物だと思っていたものは大きく反り返った尾鰭のようで、建物だと思っていたのは波頭のように見えた。


 写真の下に、『漁村での類例 瀬戸内』と書かれていた。


 髪が長いから女の子の絵かな、と思った。

 すとん、と直之の中で何かが落ちる音がする。

 半年ほど胸につかえていたものが取れた音に違いなかった。

 熊に乗った金太郎ならぬ、魚に乗った子供の絵というのは、直之が思っていたよりもずっと平凡な画題のように思えた。おそらく子供の健康を祈願して、縁起物に見立てた大魚を共に描いているのだろう。

 改めて見ると、ちょっと探せば近辺の神社でも似たようなものを見つけることができそうに思えた。

 少しの満足と少しの失望が、詰まりの取れた胸を一気に駆け下りていった。自分だけのお気に入りだった作家の作品が、ふとしたきっかけで本屋の平棚にずらりと並べられるようになったときの気持ちに似ていた。


 新しいテーマを考えないといけないな、と冷めた頭で思った。

 しかしそれをどうやって目の前の天誅教授に申し出たものだろうか。

 何か他に印象に残っている授業の内容はなかったものかと記憶をまさぐりながら、再び教授の顔色を伺おうと目線だけをわずかに上げた。


 これまで見たことがないような難しい顔で開かれたページを見つめている天誅教授の代わりに、背後の本棚の狐の面と目があった。

 咎めるようなその視線に怯んで、慌てて正面に視線を戻す。

 黙りこくった天誅教授は仏像のように微動だにせず、薄ら寒い蛍光灯の下で妖怪じみた姿はますます怪しく恐ろしく見える。微かに聞こえてくる雨音は、何かが窓の外から忍び寄る足音のように思えた。

 慣らしたはずの喉の音は全く聞こえず、時計の秒針か自分の鼓動が判別のつかない音がどんどんと大きくなっていく。

 絵馬も卒論もあっという間に吹き飛んでしまい、天誅教授がやってきたときと同じように、研究室はいつの間にか異界の瘴気に飲み込まれてしまっていた。


 ばりばりという音で慌てて我に返る。

 白髪をかきむしる天誅教授の、わずかに見開かれた目がこちらを見ているのに気付いてびくりと肩が震え上がる。

 蛇に睨まれた蛙というのは、まさにこういう心情なんだろうなと思った。


 3年目の春が終わり、雨が降り始めて、梅雨の足音に紛れてそれはいつの間にか近寄ってきていた。

 異界のような研究室で、妖怪のような教授と2人きりで出迎えた卒業論文が、直之に向かって高らかに課題の開始を告げる。


 なんじゃこりゃ。


 天誅教授の口がそう動いたように見えた。

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