③
広大というにはいささか物足りない大学敷地の端に位置している、各学部の研究室が集められている研究棟に着いたときには、駅に着いてから30分ほどが経っていた。
できるだけ神妙な顔を取り繕って、『文学部民俗学科』と表札が掲げられた研究室の白い扉を開ける。
10平方メートルほどの室内には人の気配こそなかったが、電気は点けっぱなしで、両の壁際にずらりと並んだ書架のガラス戸が1枚開いており、中央の会議机にぽつねんと置かれたティーカップの中でコーヒーが微かに湯気を立てていた。
そう遠くないうちに、誰かが戻ってくるのだろう。
来客用のソファに腰を下ろし、足下に荷物を放り出す。
古びた掛け時計(好事家を自称する教授の趣味だ)が軋むような音をたてているが、時折それをかき消すくらいに室外の雨音は大きい。
窓ガラスを隔てているのに、時折ざあという風鳴りが室内に反響する。
振り子の動きにあわせて視線を右往左往させる。
四隅にそれぞれ置かれているパソコン。書架にも収まりきらず、あちこちに積み上げられている大量の書籍。滅多に持ち出されない来客用のティーセットが押し込まれた食器棚と、無造作に放り出されているオープンキャンパス用の資料と、あれこれ好き放題にチラシや掲示が貼られているホワイトボード。
よその大学の事情を直之は知らないが、専門課程の研究室というよりは物置だよな、といつも思う。
そのときホワイトボードの隙間に書かれている自分の名前に気が付いた。
あれ、と声がでた。先週立ち寄ったときには、あんなところに何か書いてあっただろうか。
自分が座っていたソファの、会議机を挟んだちょうど反対側まで歩いていく。
研究室の備品の中で唯一定位置を与えられておらず、何かの度に邪魔だと場所を動かされる、哀れなホワイトボードに顔を近づけた。
『3年生 卒業論文テーマ』
同期らの名前と、皆が決めたと思しいタイトルが列記された用紙が貼られている。
そこからペンで矢印が引かれている。その先には『未提出! 柳井直之ただちに出頭』と乱暴に書かれた字が丸で囲まれており、元々そこにあったのだろう掲示物らが周囲に押しのけられていた。
サボるとまずいというのは、どうやらこれのことらしかった。
未提出と書かれているのが直之1人だということは、中浦も何らかのテーマを考えて今日の授業に臨んだのだろうか。
それならば、と直之はここにいない友人に向かって愚痴をこぼす。当日になって電話してくるよりも、もっと前に教えてくれていれば良かったものを。
見慣れない言葉と見慣れた同級生たちの名前が交互に並んだ一覧表を、上から目で追っていく。
『○○町の祭り』、『狐の民俗学』、『妖怪で行う町おこしの研究』、等々。
中浦の名前は、表の下から3番目にあった。
『中浦二郎 未定』
思わず「はあっ」と上擦った憤りの声がでた。
なにかの間違いかと思って、一旦ホワイトボードから視線を外す。
3つ数えてからもう一度見たホワイトボードには、変わらず自分の名前が晒しものにされていて、中浦の名前の横には『未定』とはっきり記されていた。
『欠席』と『未定』とに、いったいどれほどの違いがあるというのだろう。
どうせ奴のことだ。今日が卒論のテーマを決める日だなんて、授業が始まるその時まできれいさっぱり忘れていたことなんておくびにも出さずに、「考えていましたが決められませんでした」と言ってのけたに違いない。
何一つ納得できなかった。
とにもかくにも中浦はうまくやって、直之はホワイトボードで晒し首にされている。目覚ましが止まったから。雨が降ったから。春が終わったから。どれも悲劇の理由としては不十分すぎるように思えた。
そんな理不尽なことがあってたまるか。お前だってそうだろう、普段からあんなにぞんざいに扱われているのに、そのうえ晒し台扱いまでされるだなんて。
寝坊したことも課題の提出を忘れていたことも棚に上げて、直之は哀れなホワイトボードのために憤ることにした。
ぎい、と背後で音がした。
じめっとした空気が側を通り過ぎていく。
振り返ると、研究室の扉がゆっくりと開いていて、水底のような廊下の薄暗がりから、白髪混じりの頭がぬらりと姿を現すところだった。
間違いなく妖怪だと思った。
天誅教授の脅し文句を思い出す。かつて卒論の提出期限日に幽霊を轢いた先輩がいたという。
学業の題材として妖怪だの都市伝説だのを扱っていると、自然と『そういうもの』が寄ってくるのではないかという話を同級生たちとしたことがある。なにせ相手は研究対象なのだ。高校生くらいが陥りがちな「僕は私は霊感があるんです」とは違う。
けれども、よりにもよって1人でいるときに出会いたい代物ではなかった。
授業で扱った、狐に化かされたときの対処法を思い出そうとする。直之は煙草を吸わない。どうしたものか。
「おお」
妖怪が口を利いた。どうやら日本語が通じるらしかった。
気だるそうに白髪をかきむしり、眼鏡の奥の目が糸のように細められる。
「なにやってんだお前」
いつにも増して不機嫌そうな声の主は天誅教授だった。
妖怪だと叫び出さなくて、本当に良かったと思った。