②
駅の近隣のビジネスホテルのフロントは、どこもかしこも空き部屋がないと首を横に振るばかりだった。
最初のうちは火照った肌を冷ましてくれていた夜風も、歩き続けるにつれてだんだんと心地のよいものではなくなってくる。
見知らぬ夜の街を彷徨うのに疲れて途方に暮れてしまい、やむなしと宿に定めた漫画喫茶は、値段の安さに比例した固さの床マットで直之の肢体を出迎えてくれた。
おまけに隣席の男性の寝言が凄まじく、薄い壁の無力さを呪いながら、ほとんど眠れず明けるのを待った夜は長かった。
ふらふらになりながら、朝8時ごろに漫画喫茶を出た。
土曜日の早朝だというのに、制服姿で駅舎の階段を駆け下りてくる学生たちをやり過ごしながら、ホームで待ちかまえていた、武骨な顔をした黄色い2両編成の車両に乗り込んだ。
ワンマン電車であるため2両目の扉は開かない、といったあまり聞き慣れない車内放送が右耳から左耳へと通りすぎていった。空いていたボックス席に座り込んでからの記憶は、さっぱり抜け落ちている。
直之が危うく目覚めることができたのは、車両のドアが開く音と「下畠」を告げる車掌の声と、つんざくように目蓋の向こうで輝いていた真っ青な色のおかげだった。
電車に乗ってから2時間ほどが過ぎている。
そして今、直之は無人の駅舎を背に立っている。
瓦葺の屋根の日陰から1歩離れた途端、蝉の合唱が少し大きくなった。
大学構内で聞くのと何ら変わらないアブラゼミの歓迎の声に混じって、微かに遠くからツクツクボウシの声が聞こえてくる。
ほんの少しだけ熱風が穏やかに感じられたのは、線路のすぐ向こうに海が広がっているからかもしれない。あるいは、もしかしたらこの辺りは既に少しずつ夏が終わり始めているのかもしれなかった。
昼前の日差しとは思えない陽光を浴びて、一斉に毛穴から吹き出した汗を慌てて拭いながら、小屋のようなバスの停留所の屋根の下に逃げ込む。
駅舎の前の広場の隅には雑草が力なくうなだれており、路線バスの転回のために引かれているらしい白線はことごとく掠れてアスファルトとの区別がほとんど失われてしまっている。
『空車』と表示を出しているタクシーが、駅前だというのにスピードを一切緩めることなく目の前を走り去っていった。
ひび割れたアスファルトと名前の分からない小さな芽が点々と並んだ花壇をじっと見ているのは、直之の他には待合いの隣に立ち尽くしている停留所の標識と公衆電話のボックスばかりだった。
日差しと経過した年月のせいで色あせてしまってみえる周囲の風景と比べて、木造の停留所の中にあるいくつかのホーロー看板は未だに幾分かの鮮やかさを残していた。
電機店や葬儀屋の宣伝文句を見ていると、電車から降り立ったときにはあまり感じられなかった地域の営みが感じられて少しばかり嬉しくなった。
書かれた見慣れない地名や市内局番に、改めてここが見知らぬ旅先だということを実感させられる。
木目が浮かんでいるベンチの上、梁に打ち付けられて掲げられている大きな板には、ゲバ字のような乱暴な書体で大きく『到着時刻表』と書かれている。備えられている時計の長針は『九』を指そうとしている。埃で薄汚れ動いているのかどうかも定かでない見た目だが、何とか役目を果たし続けているようだった。
『十浦西ゆき』『市場 大室町役場ゆき』の時刻表のいずれも、10時と11時の欄は空欄になっていた。