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御霊の娘子  作者: あかば
怪文書
19/25

「柳井はさあ」


 真っ暗なパソコンのモニターには、直之の顔とその背後で大きく伸びをしている中浦の姿が映っている。


「なんだよ」


「実家通いだっけ」


 振り返って見れば、部屋の反対側に置かれたソファに座って海老のように反っていた中浦の身体が、ちょうど吐息とともに崩れ落ちたところだった。

 2人とも特に何かをするでもなく、いつもは何やら低く唸っていることが多い4台のパソコンも1台のプリンターもみな眠ったままで、研究室の空気はだらりと弛緩しきっている。

 最近になってようやく本調子を取り戻したエアコンだけが、非難するように時折声色を変えながら、冷たい息を吐き出し続けている。


「実家だよ。なんで」


「実家帰るの面倒だなって思ってさあ」


 再び唸りながら身体を伸ばす中浦の視線を追って、扉に貼られたカレンダーを見やる。

 今月のカレンダーの写真はどこかの古民家の庭先で、その下の4行ほどの数列のちょうど真ん中付近に、赤い丸が3つ並んでいる。

 それは民俗学部の教授が全員出勤していない期間で、研究室にも立ち入るなと事務員がつけたチェックだ。いわゆる盆休みという奴である。

 夏の折り返しがもうすぐそこまで来ているのだなと思わず嘆息する。


「1度くらい帰らなくてもいいんじゃないか」


 ああだめだめ、と中浦が半笑いで首を横に振る。


「兄貴が特にうるさいんだわ、ちゃんと顔出せって」


 中浦の兄というと、どんな人だろう。

 こいつの兄も、同じように老けた風体なのだろうか。いがぐり頭で、彫りが深くて、少し目が細くて。

 無精ひげと、とんでもない服の趣味だけは流石に中浦の個性だろうと思いたい。自分の息子がこんな格好で外を出歩いている、それが2人もいるなどと、直之には許容できそうになかった。

 なんだよ、と中浦が直之の心中を察したのかむくれる。

 アロハシャツの右半身で、快活に笑っているブロンドの歯が白く輝いている。


「いいじゃん小旅行と思えば。せっかくの夏休みを見知った地元でバイトして過ごしてる俺より、よっぽどいい」


「何言ってんだ、柳井も今年は旅行するんだろ」


 え、と思わず聞き返す。すると中浦も直之以上に呆けた顔で聞き返してきた。


「天誅命令で現地調査だろ。天誅命令って何だか幕末みたいだな」


 一瞬、目の前が真っ暗になった気がした。

 こいつは一体全体、どこから話を聞きつけてくるんだろうか。岩本や大谷がどこかで喋っているのだろうか。思い返してみても、その2人以外に直之と天誅教授とのやり取りを知っている者はいないはずだった。

 まさか天誅教授自身が吹聴して歩いているのではないかという恐ろしい疑念さえ抱いた。

 3年間大学に通い続けてなお、自分は天誅教授という怪人のことを見誤っているのかもしれなかった。

 誰から聞いたのか、と中浦に問うて疑念を解決しておくべきだと思った。しかしそれより早く、目を輝かせた中浦に「で、どこに行くんだよ」と言われてしまう。

 がっくりとため息をつく。

 天誅教授の本質を確かめるのは後の機会に回すことにした。


「ちょっと待ってな」 


 パソコンの電源を入れる。

 モニターに映っていた自分がぶうんと言う低音とともに消え、代わりにOSのロゴマークが浮かび上がった。


「中浦は何か言われてないの。先生から」


「未定なのを何かしないとぶっ飛ばすってずっと言われてる」


「えっ、まだ決まってないのか」


 悪びれない堂々とした調子で中浦がふんぞり返る。


「旅番組させられるよりは未定の方がましだ」


 あまりの言い草に書架の狐の面が傾いたように見えた。自分もこのくらい強く生きられたら。友の前途を儚んで思わず左方の窓へと目を逸らす。ブラインドの隙間から、研究棟の中庭に植えられた桜の枝からちょうど飛び立っていく蝉の姿が見えた。

 画面が黒から青1色になり、パソコンが直之に挨拶をする。

 この研究室に所属してから、自分の手でパソコンを立ち上げたのは初めてではなかろうかと思った。

 どこかの神社の門前で、『下乗』と刻まれた立派な石の前で3人の男子生徒がポーズを取っている画像に切り替わる。2人は知らない人だが、1人は大原先輩だ。


「今日、なんで研究室が開いてなかったんだろうな」


 ブラウザのアイコンを連打し、さっと現れた検索画面でキーボードの上の指を走らせる。


「さあなあ」


 やまぐち、けん、こ、じまぐん。


「みんなどっか遊びに行ってんじゃねえの。それか部活の合宿とか」


 『大室町迎室』と入力しようとして、そう言えば未だに地名の正しい読み方を覚えていないままだったことを思い出した。


 『大室町誌』を引っ張り出せばすぐにでも調べられることだが、一手間を惜しんで音読みで無理矢理に入力する。だい、しつ、ちょう。げい、しつ。


「部活の合宿って、もっと先にやるもんだと思ってた。ほら、岩本らの自転車部って秋にどっか行くって言ってるじゃん。お待たせ、出たぞ」


 なにが、と言いたげな表情で中浦がこちらを向いたが、「行き先」と直之が付け加えると途端に目を輝かせ、そばの椅子を押し退けながら転がるように走り寄ってくる。


「おうおうどこだどこだ見せろ見せろ」


「ここここ。って、ありゃ」


 どうやら迎室という地名までは検索に引っかからなかったようだった。地図の中央に落ちている赤い目印の横には、『大室町役場』と注釈が表示されていた。


「ありゃ、って何だよ」


 左半身に力がかけられるのを感じた。いがぐり頭が直之の左肩に手を回してモニターをのぞき込んでくる。おおお、と大きな驚嘆の声に、直之の方が余計に驚かされた。


「オオムロの本庁じゃん。なに、お前ここに行けって言われたの。天誅に」


 急に耳に入ってきた聞き慣れない単語に、思わず右手で中浦の言葉を遮った。


「なんだって」


「だからあ、オオムロ。山口の大室だろ。なあ、ストリートビュー見せてくれよ」


 大きな身体がぐいぐいと割り込んできて、有無を言わさず直之は椅子を中浦に譲らされた。

 ああ、とかおお、とか、楽しそうな声で画面をクリックしている中浦の背中を見ながら突然に降って湧いた情報を1つ1つ、頭が破裂しないように整理する。

 こいつの知ってる土地なのかと思い、その次に、でもこいつとこれまで話してて訛を感じたことがなかったけれどな、と思った。


「ほら、ほらほら。ここここ」


 振り返った中浦が直之に指し示したパソコンの画面は先ほどとは少し変わっていた。道路の両脇には昔ながらの小さな民家や商店が軒を連ねており、走っているのが2車線の道路とは思えないくらいに狭く圧迫感が感じられた。


「なんだよ」


「ここの坂を登ってったら俺の実家なんだよ。役場が結構近くてな」


「ええっ」


 直之は絶句し、中浦はけらけらと高笑いしている。頭痛が勢いを増して強まっていく。


「すげえなあ、偶然だなあ。じゃあお前の卒論、俺も知ってる内容なのかなあ」


 冗談ではなかった。

 本人にそんなつもりはこれっぽっちもないのだろうが、中浦がさらに追い打ちをかけてくる。


「柳井が行くんなら、うちの家族に話を通しといてやるよ」


 口が開きっぱなしの顔を不思議に思ったのか、中浦がさらに言葉を続ける。


「大室のどこに行くのか知らないけど、ホテルなんかいちいち取ってられないだろ。俺の部屋使わせてやれ、って言っといてやるよ。頼んだら車も出してくれるかもしれんぜ。オトンは暇だろうし」


 なんということだ、と思わず膝から崩れ落ちそうになった。

 天誅教授の無理難題を、誰か1人くらい止めてくれるかと期待して研究室まで赴いたというのに、まさかもっとも卒論に対して熱心ではないはずの中浦にまで背中を押される羽目になるとは思っても見なかった。

 音を立てて直之の背後のシャッターが閉められていく。

 全ての逃げ道を塞がれ、背水の陣と書かれたネオンが頭の中で瞬く。


「あーあ」


 早足で部屋を横断し、ソファに頭から倒れ伏す。駄々っ子みたいに、肘掛けに伸ばした足をばたつかせた。


「どうしても行くしかないのかよ」


「いいじゃん、いいところだぜ。観光名所もおいしいご飯もなんっにもないけどな」


 中浦の嬉しそうな声を、これほどまでに呪わしく思ったことはなかった。

 つい先ほどまで帰省を嫌がっていた男が発している言葉だと考えただけで、頭の中にかかった靄が嵐のように渦巻くのが分かった。

 諦めきった口調で、せめて片づけておこうと解決できる疑問を中浦に投げつける。


「お前って山口出身なの」


「そうだよ」


「でもじゃあ、何で訛ってないんだよ。俺は山口弁って全然知らないけどさ」


 ああ、と中浦は少し遠い目をした。友達付き合いをするようになってから初めて見る表情だった。


「俺、中学からこっちの方来てるからなあ。高校出るまでは結構言われたぜ、色々」


 少しだけ「色々」に感情を込めた中浦の顔は、いつものあっけらかんとした笑顔だった。直之が少し違和感を覚えた程度の、微かな口調の変化だった。

 大げさにため息をついてソファから起きあがって、話題を切り替える。反対側のソファに放り出したままにしていた鞄から引っ張り出したコピー用紙を、中浦の方に向かってぐいと突き出す。

 それは『民俗史総覧』の見開きのコピーで、ここ数日で急激に直之との距離を詰めてきた対戦相手だ。


「これ、俺の卒論なんだけど」


 中浦が首を捻り顎髭をいじりながら近寄ってくる。近寄りすぎてピントを合わせるために少し後ろに下げた顔を、目を細めながら再び近づけてくる。


「知ってるか、この絵馬」


 祈るような心持ちで、そう言った。

 捻られた中浦の首が、ますます右に傾いていく。

 直之の頭の中で暗雲がどんどん頭をもたげてくる。


「知らねえなあ」


 ああ。

 お前がただ一言、「知ってるぞ」とさえ言ってくれたならば。

 唸りながら頭を抱えてしばらく歩き回り、がくりと会議椅子の背もたれにすがりついた直之を、中浦はげらげらと指まで指して笑っていた。

 ああ。

 どう足掻いても、大室町とやらに行くことを避けることはできそうになかった。

 虚ろな目で見上げたそこにはいがぐり頭の満面の笑顔があり、さらにその背後には、窓枠の形に切り取られた馬鹿みたいに真っ青な夏の空が、ブラインドの隙間に交互に広がっている。

 大室町というのは、一体全体どんな町なのだろうか。

 いがぐり頭が小学生の夏に見上げていたのは、どんな空なのだろうと思った。

 まあ、中浦の言うとおりに夏休みの小旅行だと思えば悪くない。ご飯も名所もないとは言うが、宿の心配すらしなくていいのだとしたら、これほど気楽な旅路はないのではなかろうか。

 中浦の家族とやらにも会ってみたかった。汗だくでバイト先と自宅とを往復し、父親の野球談義に巻き込まれる日々よりは幾分か楽しめそうだった。

 少し自分の口角が上がったのが分かった。待ち受ける知らない土地での夏休みには、何も困難はないように思われた。

 研究室の床に、絵馬のコピーが落ちてしまっている。書架の狐面や埴輪のフィギュアが、無言でそれをじっと見下ろしている。幸か不幸か、今の直之はそれらの視線に全く気付いていない。

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