⑫
ところで、大室町というのはどこにあるのだろうか。
町誌を読み込んでいたおかけでそれなりに詳しくなったと思っていたが、まさか現地に行けと指示されるとは思ってもみなかったせいで肝心の所在地には全く気を払っていなかった。
本当に行かねばならないのかと悶々と考えていた。
誰かに相談したいと思っていたが、そんな時に限って赴いた研究室には誰もいない。
天誅教授を廊下の向こうで見かけるたびに身を隠すことが、数日続いていた。
それとなく家族にも持ちかけてみたが、結果は芳しいものではなかった。
父親は「いいんじゃないか」と自分が学生の頃に楽しんだ旅行の話を始め、母親は「身体に気をつけてね」と自分が学生の頃に旅先で救急車を呼んだ話を始めた。
妹に至っては目も合わさずに「お土産ね」とだけ言う始末である。
誰か1人くらい止めてくれたっていいじゃないかと憤慨したが、どうしようもない。
家族らは天誅教授の理不尽さを知らないからだ、と自分に言い聞かせることしかできなかった。
件の怪文書が手元に届いてから、3日経っている。
今日は授業もない曜日だったが、自宅にいても落ち着かないので大学に向かうことにした。
去年までの直之には考えられなかったことである。
声高に会話している老人の一団の後に続いて電車を降り、駅前のコンビニで軽い昼食を済ませてから、商店街を抜けて大学の敷地までぶらぶらと向かう。
薄雲のかかった空の表情は一時と比べると大分と穏やかになっていたが、それでもまだまだ季節の変わり目にはほど遠い。
頭上を覆っていたアーケードが終わり、視界が一瞬真っ白に霞む。気の抜けたようなハワイアンがあっという間に小さくなり、代わりに蝉の声が一斉に聞こえ始めた。
時候はそろそろ立秋だが、茹だるような熱気は相変わらずその手を緩めることがない。
けれども今年の夏は、少しばかり穏やかに直之には感じられた。
梅雨の始まりも終わりも早かったが、ひょっとすると夏の終わりも例年よりも早いのかもしれない。
最近になって朝晩に頬を撫でる、微かな秋の気配のことを考えながらそう思った。
直之は冬よりも夏の方を好いている。
寒さが苦手だし、何より蝉の声というものが好きだった。
余すところなく街路樹から降り注いでくる合唱を浴びながら、他の季節はやっぱりこれがないからつまらない、と思う。
蝉や風鈴や花火など、もしかしたら視覚より聴覚に訴えかけられる方が性に合っているのかもしれない。
虚ろな目で汗を拭きながら、どこかの営業らしい女性が直之を早足で追い越していく。
どんどん小さくなっていくその背中が、直之の感傷に無言で異議を唱えていた。
研究室に到着したときには、正午を1時間ほど過ぎていた。
背中に張り付くシャツを引っ張って風を通すと、嫌な寒気がぞくりと背筋を舐める。
氷のように冷たいドアノブに手をかけ、いつも通りにノックもせずに扉を押す。
が、身体がそれ以上前に進まなかった。
疑念が思わず口から零れ出る。
どこかが突っかかっているのかと、数回押したり引いたりしてから、もう1度未練がましくドアノブにかけた手を上下させた。
空しい音ががちゃがちゃと廊下に響くばかりで、流石に直之も現実を受け入れるしかない。
こんなことがあってたまるかと思う。
4年生らがわき目もふらずに卒論に勤しんでいるはずの時期である。
それなのに、普段は無人でも開けっ放しで、たびたび管理人から苦情を言われている民俗学研究室の扉の鍵が施錠されている。
つまりこんな時間になっても、今日は誰も鍵を開けに来ていないということだった。
もしや今日は全校休講だったかという疑念さえ湧いて出た。
半日をふいにしたのかもしれないということに恐怖する。
いやいや、そんなまさか。
何人かの学生らしい人物と、来る途中に駅前や商店街ですれ違ったことを思い出してそれを打ち消す。
万に1つくらい、午後になっても誰も来ていない日もあり得るのかもしれない、たまたま今日はそういう日だった。
そう自分に言い聞かせながら、扉の右上の角にある提灯の飾り物に左手を伸ばす。
誰がどこで購入してきた土産物なのかも定かでない、写楽の奴江戸兵衛が印刷された蛍光イエローのそれを逆さに降る。
転がり出てきた鍵を右手で受け止めようとして失敗する。
ストラップも何もついていないそれは廊下に落ちて、軽い金属音を立てた。
キーホルダーつきの鍵は、管理人室にある正規のもの。対してこれは、研究室で内密に代々受け継がれている合い鍵である。
手早く開錠して鍵を引き抜き、電気もつけずに荷物をソファに放り投げる。
教員の誰かが来る前に正規の鍵を取りに行かないといけないので、大急ぎでその場を後にする。
研究室を出て左の突き当たりにあるエレベーターホール前の階段がもっとも管理人室に近いので、そこを下ろうとしたちょうどその時、背後から聞こえた素っ頓狂な声に、すわ、しでかしたかと慌てて振り返った。
先ほど自分が開けた扉の前に立っている人影は、恐らく学生であるように見えた。少し安堵しながらも、慎重に足音を忍ばせてもと来た廊下を引き返す。
「あれえ、柳井。なあおい、聞いてくれよ」
ドアノブをがちゃがちゃ動かしていたのは中浦だった。ビキニのブロンド女性がポーズを取っている絵があしらわれている派手なアロハシャツは、お世辞にもいい趣味だとは言えなかった。
「鍵が閉まってると思って取りに行って戻ってきたら、鍵回してもまだ閉まってんだよ」
首を傾げながら言う中浦に、苦笑しながら右手を顔の前で立てて謝罪の意を表す。
「先に開けちゃってたんだよ、提灯鍵で」
「なんだ、行き違いか」
もう1度、鍵が逆回りする音をさせる。
勢いよく扉を押して室内に飛び込んでいった中浦の身体や鞄が、あちこちぶつかる音が聞こえる。
直之は左手に提灯飾りを持ったままだったことに気付いた。
管理人室に向かわずに済んで、本当に良かったと思った。