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御霊の娘子  作者: あかば
怪文書
17/25

「どうしようか」


 安堵のため息など出てくるはずもなかった。

 扉に釣られた日本アルプスのストラップがゆっくりと揺れているのを見つめていると、背中にまとわりついていた悪寒が潮のように引いていくのを感じた。


「どうしようもねえよ」


 ソファの背もたれから岩村の目から上だけがこちらを見ている。

 そんなにあいつ小さかったっけ、と思った。どうやら天誅教授がいる間、ずっと屈めて身を潜めていたらしかった。


「手紙ってやつ見せてくださいよ、柳井さん」


 先ほどまでの青い顔はどこへやら、大谷が身を乗り出してくる。


「ラブレターっすか」


 なに、と声を荒げる岩村を直之は手で制する。


「そんなわけないだろ」


「でも女の字っすよ、その宛名は」


 なに、と再び岩村が目の色を変え、「なにじゃないよ」と直之が応じる。


「天誅に言われるがままに、卒論演習の資料を問い合わせしただけだって」


「本当かあ。卒論にかこつけて、よその女子大生とくんずほぐれつ」


「普段の会話でくんずほぐれつなんて言ってる人見たの初めてっすよ、イワムさん」


 肩の後ろから2人の視線を感じながら、封されている鯨のシールを剥がす。

 まだ何か言いたげな岩村の機先を制して言う。


「俺だって問い合わせ先の名前しか知らないよ。女の人っぽい名前だったけど」


「にしてもメールじゃなくて手紙なんですね。卒論って問い合わせのルールとかも決まってるんですか。メールだめ、とか」


 そんなわけない、と思う。


「そんなわけないだろ」


 岩村が答えた。後ろに少し自信なさげに「多分」と付け加えながら。


「もしかしたら天誅法典にはそう記されてるのかもしれん」


 ないない、と直之は笑いながら首を振った。


「俺はメールで出したよ。返事が郵便とはちょっと思ってなかった」


 軽口とともに封筒が開かれる。

 中から出てきたのは薄桃色の便箋だった。

 3つ折りにされているそれを開いたときに、真っ先に目に付いたのは左隅に印刷されている小さな向日葵の絵だった。

 封筒を飾っていたものと同じ絵のように見えた。

 セットで販売されているのだろうか。

 おおー、と背後の2人があげた声によって我に返り、手紙の文面に視線を走らせる。

 一見して宛名を書いたのと同じ人物の字だと分かった。

 達筆でも汚くもない。丸くて少し圧の薄いボールペン字が、礼儀正しく縦何列かに渡って整列している。


『大室では、子ができたと分かったときに、


妊婦自身や親族が絵馬の準備をします。


 ようやく子供が無事に産まれたと分


かったときには、それを神社に納めてお


祝いをしてその成長を祈願します。


 お問い合わせされている釣絵馬という


のは、この風習のことを指して言います。


 大室町役場が発刊している町誌のなかに、


『出産儀礼と絵馬奉納』


という調査報告がありますので、


ご覧ください。


 突然のお便り、失礼いたします。』


 これでは意味がないじゃないか、と思った。

 『大室町誌』の論文を読んでも何も分からなかったから問い合わせをしたというのに、まさか「論文を読め」という答えが返ってくるとは思っていなかった。

 憤ると同時に、やってしまったなと内心で自分を責める。

 もっと正直に、自分が何を調べて、何が分からないかを1から10まで余すところなく書いて送れば良かったのだ。

 間に向こうの大学の事務員を挟んでいるのも良くなかったと思う。おそらく先方には「よその大学の学生がこのテーマについて問い合わせてきている」くらいにしか伝えられてないのだろう。

 もしそうだとしたら、仮に長々とメールを書いて送っていても同じ結果に終わったのではなかろうか。

 この数週間分の重みが背中にずしりとのしかかってくる。

 がくりと肩を落とした直之の内心を知ってか知らでか、手紙を読み終えたらしい大谷が深くため息をついている。


「これって、何が怪文書なんですかね」


「差出人が全く書かれてないからじゃねえの、封筒も真っ白だったし。怪文書って出所が分からないビラとかのことだろ」


 背後で話している2人の声が、ガラス戸を隔てているかのようにぼんやりと耳に入ってくる。

 岩本が直之の肩を叩いてから、肩越しに腕を伸ばしてきた。

 その意図をすぐに察して、直之も便箋を裏返す。


『山口県小島郡大室町迎室二六○


 宮本 神代』


 本文と同じ筆跡で、裏面の隅にそう書かれていた。

 大谷が非難めいた声をあげる。


「怪文書ですらなくなったじゃないですか」


 岩本が何も言わずに手紙を元に戻す。

 直之も無言で、差出人の名前を反芻していた。

 綴られている手書きの文字を見ると、それまで数多の本の記述の1つでしかなかったものが、改めて自分の目の前に現れたような気がした。

 しかし一方で、なんだか『大室町誌』を読んだときよりも距離が遠のいたようにも感じられる。

 突き放すような印象さえ受ける手紙の文面のせいかもしれない。

 あるいはこの不思議な絵馬と直之との間にある距離を、聞いたことも正しい読み方も分からない地名が思い知らせてきたからかもしれなかった。

 誰も何も言わなかった。

 直之の落胆を察したのか何か別のことを考えているのか、大谷は憮然とした顔のままで黙っている。

 季節が変わって以来、当たり前のように聞こえていた蝉の声も止んでいるように思われた。


「なあ」


 ぽつりと沈黙を破ったのは、岩本だった。


「よく分からんけど、適当な人なんだな。この手紙の人」


 急に何を言い出すのかと思わず振り向いた。

 返信の要旨が直之の意にそぐわなかったことを指しているのかと思ったが、そんなはずはなかった。直之の問い合わせた内容を知っているのは、あの日に研究室にいた中浦や大原先輩らだけで、それも大まかな概要だけのはずだった。

 岩本がそうした事情を知っているはずなどなかった。

 色々と考えを巡らせながらも、余計なことは口に出さずに「なんで」とだけ岩本に問い返す。


「だって、ほら」


 岩本が手紙の表面をとんとんと指さして言う。


「ここでペンのインクが変わってる。俺だったら途中でインク切れたら1から書き直すけどな」


 ええ、と疑念の声とともに、その指先を追う。

 数秒目を凝らしてもなお、その意図を理解するのに少しの時間を要した。

 手紙の半分ほどの位置、『お問い合わせされている釣絵馬という』という行の前後で、確かに文字の色が変わっている。

 言われないと分からないほど微細な違いだったが、黒のインクがそこから後は少し青みがかっているように見えた。

 その割に、インクが変わる前の行には、文字のかすれや乱れのようなものは特に見受けられなかった。

 書いている途中にインクが切れたというよりは、一旦そこで手を止め、ペンを持ち替えて続きを書き進めたように思われた。


「卒論で使うからってちゃんと質問したんだろ。じゃあ向こうもちゃんとした返事するだろうに、普通書いている途中でペン持ち替えたりするかね」


 ふん、と鼻息荒く、不機嫌そうに岩本がそう言った。

 自分は気にも留めなかったものだから、直之は曖昧な返事をするにとどめておいた。

 確かに履歴書等なら気にもするだろうが、手紙、それも見知らぬ学生に宛てた返事なのだから、ペンを持ち替えるくらいのことは直之自身もやってもおかしくないなと思ったのである。

 まして黒から急に赤色に変わったとか、明らかに奇妙な変化ではないのだから。


「おっ」


 続いて頓狂な声を上げたのは大谷だった。

 直之等が何事かと振り返ったけれど、大谷は何も答えない。

 と思ったら途端ににやにやと笑い始め、再び「おおっ」と嬉しそうに言う。


「なんだよ気持ち悪いな。何かあるならはっきり言え」


 岩本に促されて、ようやく大谷が訝る2人に向き直った。


「これは怪文書っすよ先輩方」


 自転車部では、急に突拍子もないことを言うのが流行っているのだろうかと首を捻る。

 けれどもちらりと横目で見ると、訳が分からない思いをしているのは自分だけではないと、直之は確信を得た。


「何言ってんのお前」


 豆鉄砲を食らったような顔で、岩本が小声でそう言った。


「お前さっき自分で、怪文書じゃないって怒ってたところじゃん」


「ええ、本当に分かってないんですか先輩方。柳井さんも分からないんですか」


 不思議そうな表情でこちらを見上げた岩本と目が合い、直之も首を横に振ってその視線に応え、それから大谷の方に向かってもう1度首を横に振った。


「ごめん。何言ってんのか俺にも全然分からない」


 大谷はもう1度驚き半分、嬉しさ半分といった声をあげた。それからぐいぐいと腕を伸ばして、先ほど岩本が示した手紙のインクが変わっている部分を指す。


「ほら。ほらここ。縦読みですよ」


 直之がその指の先を目で追うより早く、岩本が「分からん」と言いたげに両の鼻を鳴らす。

 その不満そうな様子を素早く察知したらしい。大谷は辺りを見回したと思うと机の上に置いてあった誰かの定規を掴み上げ、手紙の上に目隠し代わりに置いてからもう1度、「ほら」と言った。


『大室では


妊婦自身や


 ようやく


かったとき


祝いをして』


「ほら、ほら。エスオーエスですよ、エスオーエス」


 本気で言っているのかと思う。

 推理小説でも読み過ぎているのかと心配にさえなった。


「嬉しそうだなお前」


 岩本が呆れ果てた様子でそう呟いたが、大谷の耳には届いていないようだった。


「すごいじゃないですか柳井さん。女の人からエスオーエスの暗号文ってドラマみたいじゃないですか」


 直之が何か言い返そうとするのを遮るようにして、岩本が音を立ててソファに座り込んだ。2人を見上げて、少し大きな声で言う。


「もうやめろ。学祭の続きするぞ」


 大谷の抗議の声を無視して、岩本は研究室の扉を指さす。


「部室にいる奴らも呼んでこい。安藤あたり暇してるだろ、あいつらにも考えさせるぞ」


 流石に先輩の指示とあっては従わざるを得ないらしい。なおも不満そうに頬を膨らませながらも、大谷はきびきびと返事をして外へと足を向けた。


「柳井さん、天誅先生に言われたとおりに行くんでしょう。この宮本って人がどんな人だったか、帰ってきたら絶対教えてくださいね」


 扉が閉まる際にそう言い残して、大谷は駆けだしていった。

 姿が見えなくなってからも、廊下の向こうから「絶対ですよ」と残響が微かに聞こえてくる。

 それも研究室や窓の外の雑音にかき消されてから、岩本がぽつりと呟いた。


「悪いな」


「いいよ」


 大きくため息をつきながら、便箋を折り畳んで封筒に戻そうとする。


「どうすんだ」


 突然そう声をかけられて、封筒を開けようとした手を思わず止めた。

 射竦めるような岩本の視線を感じて振り返る。

 何か言いたげな大きな目が、じっとこちらを見上げていた。

 お互いに、何も言わないままだった。

 けれども直之には、岩本が何を言いたいのかは手に取るように分かっていた。

 返答を渋ったわけではない。

 無言のままの直之を見上げる岩本の双眸は、石のように動かない。


「多分、行く、と思う」


 逃れられないと観念してそう呟いた。

 岩本の口角が少し上がった。積もりに積もっているのだろう疲労の一端が見え隠れするその表情は、もしかすると自分の鏡写しなのかもしれない。


「何もないといいな」


 その言葉からは何の感情も読み取ることができなかった。

 直之が思わず聞き返そうとするよりも早く、岩本は顔を背けてソファの上に寝転がる。


「悪いけど、ちょっとだけ寝るわ。あいつら戻ってきたらまたうるさくなると思うけど、鬱陶しかったらごめんな」


 こちらを向いた小さな背中がそう言った。

 気の利いた返答は何も思いつかなかった。


「いいよ」


 自分もできるだけ平坦な調子で、それだけ返答する。

 反応は何も帰ってこなかったが、丸めた背中が少しだけ大きく膨れ上がったような気がした。

 もう1度、折り畳んだ便箋を開いて視線を落とす。

 『はやくきて』という縦読みとは裏腹に、並んだ文字には急いで書いたような掠れも乱れもない。

 注意して見直してみても、特に緊迫したような印象は見受けられない。

 天誅は、どうして『怪文書』などと言い出したのだろうか。

 一見したとき、宛先が書いていなかったことをそう喩えたのだろうか。それとも、大谷が言うところのエスオーエスに、天誅もまた気付いていたのだろうか。

 封筒を手にとって裏返す。

 貼られているシールにも封筒のデザインにも、何かの意味があるのかもしれないと勘ぐってしまう。

 笑顔の鯨は何も言わない。

 さやさやというブラインドの音に混じって、規則正しい鼻息のようなものが微かに聞こえてくる。

 いくら何でも寝付きが良すぎやしないかと思った。

 あーあ、と誰かが聞いているわけでもないのに言って、手紙を封筒に戻して机の上に放り投げた。

 摩擦がなくなったかのように机の上を滑ったそれは、卓上カレンダーにぶつかって止まる。

 遠くで扉が開く重たい音が聞こえた気がした。

 誰かの話し声も、それまでより急にはっきり聞こえてくるように感じる。

 他の研究室に生徒が集まり始めたのだろうか。あるいは、大谷が自転車部の部員らを連れて戻ってきたのかもしれない。


 静かに引き寄せた鞄に、もう片方の手で掴んだ怪文書呼ばわりされた封筒を放り込む。

 もう1度振り返って見た岩本は、腕の角度がさっきと変わっているが、未だに起き出そうとはしないようだった。

 天気予報が叫んでいた今日の最高気温と比べて、窓越しの陽光は数日前よりも幾分か穏やかに感じられる。

 宮本神代、というのはどんな人なのだろう。

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