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御霊の娘子  作者: あかば
怪文書
16/25

 1週間後、昼前に受けていた授業の担任を通じて、天誅教授からの呼び出しを受けた。

 7月もそろそろ終わりを迎えようとしている。

 どんどん勢いを増すばかりだった日差しは相変わらず凶悪だが、今年最初の夕立が昨日訪れたおかげか、今日の風は少し涼やかに感じられる。

 食堂での少し遅い昼食を済ませ、色鮮やかな並木の間を研究棟に向かって歩く。

 雨上がりだからか、蝉の合唱がひときわ大きく聞こえてくる。

 すれ違った他学部の女子生徒の二の腕が反射する日光が、まぶしい。

 いい季節だな、としみじみと思った。


 昼1番の授業が既に始まっているからか、研究棟の廊下は静まりかえっていた。

 民俗学部の研究室では2人の男子生徒、岩村と大谷が額をつきあわせて何やら話し合いをしていた。岩村は直之の同級生で、大谷は直之たちの1つ下の後輩である。

 天誅教授の姿は室内にはなかった。


「おつかれ」


 声をかけると、大谷が「お疲れさまです」と会釈をした。

 荷物を椅子の脇におろし、一旦研究室を出て廊下を挟んだ向かいにある天誅教授の個人研究室へと向かう。

 ノックをしても応答がない。採光用の窓からは薄明かりが見えているが、おそらく室内の蛍光灯ではなく窓の外の日差しだろう。

 ドアノブも回してみるものの、扉を引く手はかかったままの鍵に阻まれた。

 わざわざ直之を呼び出すくらいなのだから、この時間は授業中ではなかったように思っていたのだが、仕方がないので研究室へと戻ることにする。

 室内から鍵をかけて居留守か昼寝をしているのではないかとも思ったが、もう1度扉を強く叩くのはやめておくことにした。

 文字通り、寝た子を起こすと良くないことが待っている気がしたのである。

 さっきと一寸も変わらない姿勢のままで研究室のソファに座っている2人に、なにをしているのかと声をかけた。

 凸凹な2人は、すぐにはその問いに答えなかった。民俗学部生の中でもとびきり背の小さい岩村が唸りながら大きく伸びをする。反対に学部どころか大学内でも目を引く巨体の大谷も、だらしなく足を伸ばしてため息をついている。

 10秒くらいの間、長く長く腕を伸ばしてから、ようやく岩村がぼそりと呟いた。


「学祭の出し物の準備」


 思わず怪訝そうな声が出てしまった。まだ夏を半分ほどしか迎えていないのに、もう学祭の話をしているのかと思った。


「どこの部活だっけ、2人とも」


「自転車部っす」


 大谷の大きな四角い顔が、多大な心労のせいで歪んでいる。


「何すんの」


「屋台なんだけどさあ」


 ほとんど背中で座っている姿勢の悪さも相まって、岩村の身体はソファに完全に沈み込んでしまっている。


「何作るか、決まんねえんだよなあ」


「決まらないっすねえ」


 岩村の手が上に、大谷の足が下に伸びる。

 2人とも、疲労困憊極まれりといった様子だ。岩村に至っては不気味な薄ら笑いさえ浮かべている。

 特に部活動に所属していない直之は、あまり2人の様子に共感できない。秋の一大イベント『大学祭』も、直之にとっては友人らの手伝いを頼まれて奔走するか、そうでなければ単なる普段の休日と変わらない。

 そうか、もう夏が半分終わったんだなという感慨の方が大きかった。


「柳井宛だってのが来てるぞ、そこの上のやつ」


 岩村が机の上を示しながら虚ろな様子で言う。


「来てるって、手紙か」


 そう問うと、おーう、とソファから生えたような右腕がぶんぶんと上下された。

 指さされているそこには大学や博物館の求人情報とか、展覧会や学会の案内といった色とりどりのチラシや、ここ最近に届いた研究室宛だったり教授宛だったりする葉書や封書が乱雑に積まれている。

 その山の1番上に、白色の洋封筒が置かれている。

 葉書くらいのサイズのそれを手に取る。


 『文学部 民俗学科研究室 さま。』

 

 表書きには丸く細い字で、直之らの大学の住所と宛名が書かれているだけだった。

 右上に貼られた切手の上には見たことのない地名と、4日前の日付の消印が力強く押されており、左下の隅には小さく向日葵の花が印刷されている。

 裏返してみると、そこには何も書かれていなかった。

 今時、手紙って。

 まずそう思った。

 直之の側がメールで問い合わせをしているのだから、連絡先が分からないはずはないのに。

 メールでやりとりをしていた相手方の大学の事務員から差し出されたものではないことは明白だった。

 それに加えて、1つ疑念を抱いた。

 それを口に出す前に、もう1度封筒の表裏をくるくると確認してみる。

 表面には横書きの宛名と住所があるだけ。裏面は真っ白である。差出人に関する情報はどこにも記されていない。

 封締めとして開け口に貼られているシールをまじまじと見て、それが潮を吹き微笑んでいる鯨のイラストだと気付いた。


「なあ岩村」


「なんだあ」


「なんでこの手紙が俺宛だって分かったんだ」


 すぐに答えが返ってこなかった。

 無言を訝って振り返ってみると、岩村と大谷が何やら小声で相談をしていた。重ねて問いかけようとしたそのとき、こちらを向いた岩村と目があった。


「それな」


「なんだよ」


 一呼吸おいてから、岩村が憐れむような調子で言う。


「天誅が読んでた。昼前に」


 冗談だろ、と頭の中で声がした。

 落ち着きを取り戻そうと思って、手の中の封筒をもう1度まじまじと見つめる。しかし受け止めきれなかった衝撃が、ぽかんと開いた口から溢れ出た。


「冗談だろ」


「冗談じゃないっすよ」


 かぶりを振って大谷が追い打ちをかけてくる。


「柳井さん宛か、ってそこに放り出してどっか行ったっきりです」


 だからいきなり呼び出されたのか。

 納得する代わりに、特大のため息が胸の奥底から飛び出してきた。

 もう1度、改めて封筒を裏返す。

 鯨のイラストがにこにこ笑っている。シールはきちんと封の役割を果たしており、とても一度剥がされたようには見えなかった。

 なんでわざわざ元に戻してあるんだよ、と思う。


「天誅はいつごろから戻ってきてないのさ」


 不満を隠さずに、背後の2人にそう問いかけながら振り返った。

 正面にある研究室の扉が、いつのまにか開いている。

 その向こうの廊下の薄暗がりの中に天誅教授が立っていた。

 腹筋が痙攣を起こし、喉が嫌な音を立てて空気を吸い込む。

 直之の視線を追った大谷のひきつった顔色があっという間に悪くなっていくのと、さっと背けられた岩村の後頭部が微かに震えているのが見えた。

 あいつ笑っていやがる、と心の内で地団駄を踏みながら、平静を精一杯に装って天誅教授に向き直る。

 天誅教授はいつものように土気色をした顔で、趣味の悪い上着をはためかせ、狙いを定めた捕食者のように視点をまったく動かさずに、足音荒く直之に歩み寄ってくる。

 天誅教授が1歩を踏み出すごとに、直之の首の角度が少しずつ上がっていってしまう。背中を撫でる悪寒がみるみる力を強めていくのが分かる。


「あの」


「読んだか」


 何か言われる前にと絞り出した言葉は頭ごなしに遮られてしまい、次にこう言おうと直之が考えていた内容は一目散に腹の底へと逃げ出してしまった。

 青ざめ言葉を失い立ちすくむ直之を見て、天誅の眉が不機嫌そうにつり上がる。もしかしたら、話を聞いていないと思ったのかもしれない。


「読んだのか。どうなんだ」


「いえっ、あの」


 声が裏返る。天誅教授の眉はつり上がったまま、ぴくりとも動かない。


「読んで、ない、です」


 かすれた声で、そう言った。


「そうか」


 直之の意に反して、天誅教授はそう呟いただけだった。

 相変わらず不満そうな表情のままだったが、直之を非難する調子はあまり感じられなかった。

 いったいどういうことだろうとその意を計りかねている直之を、天誅教授の「おい」という声が引き戻す。


「お前怪文書って好きか」


「はあっ」


 思わず頓狂な声を上げてから後悔した。

 岩村が堪えきれなかった呻きのような笑い声が、ソファの陰から一瞬だけ聞こえてくる。

 やばいと思って慌てて目を逸らし、それから恐る恐る正面へと視線を戻す。

 普段なら考えられないことだったが、天誅教授は何も言わずにこちらをじっと見下ろしていた。


「怪文書、ですか」


 何かを試されているのかと、答えを誤らないように慎重に反復する。

 天誅教授は、それにも何も答えなかった。


「お前」


 ぶっきらぼうに天誅教授が言う。


「この差出人のところに行ってこの絵馬について調べてこい」


 なんとか喉元で飲み込んだ2度目の頓狂な声のかわりに、嫌な汗が全身から一斉に吹き出したのを感じた。


「あの」


 隠しきれない動揺が語尾を震えさせる。


「今からですか」


 天誅教授は大いに驚いた様子で目を大きく見開いた。

 それはとても珍しいことで、直之の背筋をいっそう寒くさせる。


「じゃあいつ行くんだよ」


 吐き捨てるように天誅教授はそう言った。


「何かすることあるのか。就活か、ええ」


 ぐうの音も出ないとはこういった時のことを言うのだろう。

 何より直之を打ちのめしたのは、夏休みは暇だろうと天誅教授に見透かされたことだった。せいぜいアルバイトくらいしか、予定らしい予定は持ち合わせていなかった。

 そんなものを対抗馬として持ち出しても、天誅教授に一蹴されるだろうことは容易に想像できた。

 部活に所属していなかったことを、入学して初めて心底後悔した。


「それともフィールドワークに行く以上の資料を見つけたのか。どうなんだ」


 ありません。


 返答は言葉になっていなかったように思えたが、天誅教授にはきちんと伝わったらしかった。

 ないんだろうが、と天誅教授が不満そうに呟いて首を振る。


「じゃあ行くしかないだろうが。行け」


 返事も聞かずにぐるりと身体の向きを変え、どかどかと音を立てながら天誅教授は研究室を後にした。

 と思ったら、入り口の扉を開けたところで動きを止めてこちらを振り返る。これ以上に何かあるのかと、直之はせり上がる吐き気を堪えながらその視線と向き合った。


「休み明けの演習で報告しろ。レポートの体を成していなくてもいい。とにかくその絵馬についてのことを調べて、俺のところに持ってこい」


 乱暴に扉が閉まる。

 研究室が再び静まりかえる。

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