⑨
それから長いこと経っている。
太陽は随分と傾き、研究室には他の先輩や同級生たちが代わる代わる出入りを繰り返していた。大原先輩は時折他の上級生たちと愚痴のこぼしあいをしており、岩崎先輩の背中はずっと無言のままで動かない。
直之が問い合わせのメールについてあれこれ考えていたころには未だ研究室にいた中浦も、いつのまにかふらりと席を立って以降、戻ってくる様子がなかった。
『参考文献の論文を読んだだけでは、情報量が少ないために風習の詳細が分かりません』
1時間ほどかけて、うんうん唸りながら伝えたい内容を紙に下書きしたのだが、たったこれだけで終わってしまった。
他になにを書こうかと思案していた直之の背中越しにのぞき込んできた大原先輩が「それでいいんじゃねえの」と言い、岩崎先輩も「とにかく送っちゃいなよ」と背中を押さなければ、直之はおそらく未だにボールペンを握ったままで悩み続けていたに違いなかった。
送ってしまえば随分と気が楽になって、直之は中浦と連れだってさっさと帰宅しようと思っていた。ところがずっと暇を持て余していたように見えた中浦が、いなくなってしまったままなのである。
おかげで帰宅のタイミングを完全に逸してしまっていた。
大原先輩のそばでずっとあれこれ喋っていた先輩が、帰るわ、と言って立ち上がった。
「柳井もやることないなら帰った方がいいんじゃねえの。天誅来るとややこしいぞ」
そう言い残して後ろ手に扉が閉められ、直之はげんなりと肩を落とした。
内心を見透かしたように、彫像のように無言のままだった岩崎先輩が、背中を向けたままで声を発した。
「ヤナイー、帰るの」
帰ります、と返事をした。
沈黙が数秒続いてから、岩崎先輩がこちらに向き直る。先ほどまでよりも少し疲れた表情をしていたが、目だけは何やら嬉しそうにらんらんと輝いているように見えた。
「もう少しここで待ってたら、大原先輩がいいお知らせと、すごくいいお知らせを教えてくれるんだけどな」
はあ、と頓狂な声をあげたのは大原先輩だった。
自分に話が振られるとは微塵も思っていなかったようだった。
「なに言ってんの岩崎。なんの話だ」
「だあかあらあ」
くるりと身体を回して椅子の背もたれに手を回し、がたんがたんと前後に揺さぶりながら岩崎先輩が口をとがらせる。
その頭が揺れるたびに、背後のブラインドの隙間からオレンジ色の太陽が見え隠れする。
「大原先輩があ、教えてくれるんだよねえ。いーい知らせをねえ」
はやくはやく、と催促しながら岩崎先輩の両手がぶらぶらと揺らされ、椅子の背もたれがぎいぎいと音を立てる。
大原先輩は、自分がなにを求められているのか全く分かっていないらしかった。
しばらく真剣な面もちで悩んでいた。
待ちきれなくなった岩崎先輩が「ほら、あれよ」と小声で助け船を出す。
「さっき、ほら。あたしがさ。言ってたの聞いてたでしょ大原。ほらあ」
ああ、と大原先輩が深いため息をついた。
「あれか。ああ、分かったわ。あのな柳井」
その表情は、「なんでこんなもったいぶったことを」と呆れているように思われた。
「いい知らせってのはな、あれだ。もうちょっとしたら中浦がな、岩崎の頼まれものを持って帰ってくるってことだ」
食い物だよな、と大原先輩に確認されて、岩崎先輩は嬉しそうに首を縦に何度も振る。
「んで、すごいいい知らせってのはな」
これで本当にあってんのかよ、と大原先輩が小さく呟いたのが聞こえた。
「さっきお前が送ったメールの返事が来てる」
「えっ」
「えええっ」
直之よりも、岩崎先輩の声の方が大きかった。
「えっ、なにそれ大原。あたしそれは知らなかった」
大原先輩の口がぽかんと開いた。
「じゃあなんなんだよ、すごくいい知らせって」
「いや、ほら、おいしいもの食べさせてあげるよ、みたいなさ」
言葉が交わされているのをよそに、直之はいそいそとパソコンに歩み寄る。大原先輩は椅子ごと横に避けて、画面を顎で指し示した。岩崎先輩も興味深そうに背後に近寄ってくる。
受信ボックスに『未読・1件』と表示されていた。
マウスを連打する。送信者欄の『国立大学・人文学部研究室』という文字が強調表示でなくなり、新しいウインドウが開く。
小論文『出産儀礼と絵馬奉納』の執筆者である宮本は、以前は当大学の研究員を勤めていたものですが、現在は大学に所属していないために我々から本人に問い合わせることは出来かねます。
お調べの内容について、本人よりそちら様の大学宛に返答できるか確認を行いますので、今しばらくお待ちください。
ものすごく丁寧な時候の挨拶などを取り除くと、おおよそこのような内容のメールだった。
「よかったじゃない」
「返事早いな。すげえな。暇なんかな、柳井の問い合わせ先」
岩崎先輩と大原先輩が交互に呟いた。
あまりにも早すぎると直之も思ったけれども、口には出さないでおいた。
「ばっかね、きっと先生とか事務員が常駐してるんでしょ。日中だーれもいないことの方が多い専門課程の研究室なんて、世の中見回してもうちくらいよ」
「うちだっているだろ、事務員」
「たまにしか来ないじゃない。先生方宛のメールはみんな個人研究室から返信してるみたいだし、電話も滅多にかかってこないし」
なんのための共同研究室なんだか、と岩崎先輩の顔に書かれている。
「新歓とかで飲んで騒ぐための場所だな」
しみじみと大原先輩が呟いた。
岩崎先輩が非難するように口を開いたが、出てこようとした声を遮る大きな音を立てて、前触れなく研究室の扉が開いた。
「なになに何すか。何の話っすか。飲んで騒ぐ話っすか」
慣性によって閉まろうとする扉の隙間から、浮かれた調子の声だけが入ってくる。遅れて灰色のジーンズを履いた足が突き出され、扉を蹴り飛ばして目を輝かせながら中浦が戻ってきた。
左手に提げられた白い紙袋が、そこかしこにぶつかってがさがさと音を立てている。
「ああ、こら。中浦ちょっと、こらあ」
上下左右に乱暴に揺れているそれを見て、岩崎先輩が悲鳴をあげながら立ち上がった。
紙袋をひったくるようにして奪い取り、労るような手つきで優しく机の上に置く。
それからようやく「おかえり」と、大きなため息とともに労いの言葉らしいものが発せられた。
「遅いよ、もう。なにやってたのよ」
「すんません先輩。天輪堂はこの時間でもめちゃめちゃな混み具合でした。あんなに並んで暇なんですかね、おばちゃんら」
大原先輩が「テンリンドウ!」と叫んで弾かれたように椅子から立ち上がり、紙袋の中をのぞき込んだ。
「うわあマジだ、天輪堂だ。最悪だな岩崎お前。かわいい後輩をあの行列に並ばせたのかよ」
「最悪ってなによ。ちゃんとお金は渡したもん。この時間だからちょっとはましかなと思ったし」
岩崎先輩の不満そうなふくれっ面を横目で見ながら、直之も椅子ごと身体を回転させて、紙袋へと向き直った。
「これ食って帰るか、今日は」
大原先輩が向かっていたパソコンのモニターは、いつの間に電源を落としたのか既に暗転してしまっている。
「柳井は食べたことあったっけ、天輪堂」
直之は首を横に振った。
「まだないですね。噂には聞いてますけれど」
「そうか、今日で卒業か。大人になるわけだな」
「最低なこと言ってないで手伝ってよ、バカども。中浦、お皿」
へい、と部活仕込みなのだろう鋭い返事を1つして、中浦が慌ただしく食器棚へと駆けていく。自分も飲み物の準備をしようとそれを追った直之に向かって、「あたしミルクティーね」「ブラック」と2人分の声が飛んでくる。
「俺コーヒーな、どっちもありな」
湯沸かしポットの残量を確認しながら、背後で小皿の音を立てている中浦のリクエストを背中で聞く。
「お前は食ったことあるの、天輪堂」
そう問いかけると、ふふんと自慢げな鼻息が聞こえた。
「ない」
「なんで自信満々なんだよ」
返事はなかった。中浦は鼻歌交じりに机の方へと戻っていってしまった。
4人分の飲み物をお盆に乗せてその後を追う。
「卒論も悪いことばっかりじゃないっすね」
「来年はお前らが後輩に食わせるんだぞ」
皿を並べる音に混じってそう聞こえてくる。
机の上には、ソフトボールよりもさらに大きいように思われるシュークリームが4つ置かれている。
天輪堂というのは駅前商店街の小さな洋菓子店で、そこの目玉商品がこのシュークリームである。味はいたって普通らしいのだが、人目を引くのはそのあまりの巨大さである。
直之もまじまじと見るのは初めてだが、大きい。明らかに口に入らない大きさで、甘味とは思えない威圧感さえ受ける。『1つで3食分』のキャッチコピーは伊達ではなさそうだ。
尋常でないその大きさが評判を呼び、市内はおろか、県外からも買い求めに訪れる客がいるらしい。地方紙にも載ったし、テレビでも紹介された。キャスターの顔がシュークリームに覆い隠されて映らなかったという都市伝説さえある。
「これ、やばいな」
「やばいっす」
「やばいっすね。大原先輩も初めてっすか」
いや2度目なんだが、と大原先輩が小さく呟く。
「前食ったときは昼1番だった」
「そのときはどうだったんすか」
「朝抜いたけど夜も抜いた。翌朝も抜いた」
うわあ、と中浦が悲鳴を上げる。
「柳井お前昼食ったの」
「何ならさっきおやつに煎餅も食った」
うわあ、と今度は2人揃って声をあげた。
「なに言ってんのよ、男は度胸。気合いで食べるのよ、気合いで」
「岩崎先輩は大丈夫なんですか、これ」
直之の問いかけに、岩崎先輩は嬉しそうに胸を張る。
「大丈夫じゃないに決まってんでしょ。何なら天輪堂を諦めて中浦が代替案を持って帰ってくると思ってたわよ」
4人揃って、しばし無言になる。
「やばいな」
「やばいっす」
「やばいっすね」
「やばいわね」
今度は岩崎先輩もしみじみと呟いた。
まあ、と大原先輩が呟いてティーカップを持ち上げる。
「これ食えたら卒論も乗り越えられるだろ。後輩を待ち受ける卒論指導に乾杯」
「あたしたちを待ち受ける卒論指導にも乾杯」
直之と中浦も、ティーカップをぶつけた。
「乾杯」
「乾杯っす」
ちん、と小気味よい音が研究室内に響きわたる。
「いただきます」
4人分の手が、揃って机の上へと伸びる。