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御霊の娘子  作者: あかば
怪文書
12/25

 図書館棟に向かう道すがらに、思い至っておくべきだったと思う。

 いくら大学図書館といえども、大室町などという聞いたこともないような自治体が発行している市町村誌など見つかるわけがなかった。

 10分ほど検索機と格闘してからカウンターで問い合わせると、直之よりも少し年上に思われる司書の女性は抑揚のない声で「取り寄せますか」と問うてから、直之の返事も待たずに矢継ぎ早に質問を重ねてきた。


「書名は分かっていますか。著者は分かっていますか。蔵している図書館や大学に心当たりはありますか」


 最初の質問以降、全て「いいえ」と直之が答えるたびに、司書のポニーテールが不機嫌そうに左右に揺れ、抑揚のない声がますます平坦になっていくのが分かった。

 最後に学生証を確認されてから、司書の女性は「1週間ほど手続きに時間がかかりますから」と言いながら、びっくりするような速さで直之の連絡先を書き取った。


 無理矢理に張り付けたような笑顔に見送られながら、図書館棟を後にする。

 天誅教授のところに行くのは、大学図書館が『大室町誌』とやらを用意してくれてからで良いかと思った。


 それから1週間の間に、季節はますます歩みを速めていく。

 そこかしこに張り出されている熱中症への注意を呼びかける広報の枚数がどんどん増えている。

 ニュースは連日のように「例年よりも高い最高気温」と連呼している。

 大粒の雨を抱え込んでいると思われる巨大な黒雲が彼方の山の上に姿を見せることが増えたが、今年の夕立の頻度は未だそれほど多くない。


 直之の携帯電話に知らない番号から着信が入ったのは、翌週の午後の授業中だった。

 それに気付いたのは着信から数時間が経った、帰宅の途に就くために駅前商店街のアーケードに差し掛かろうかというときのことで、慌てて架け直したところ、1週間前に窓口で応対してくれたときよりもさらに抑揚のない声の司書の女性が「所属の研究室に置いておきました」とぶっきらぼうに言い放って電話は切れた。


 慌てて来た道を引き返す。

 授業はもう終わっている時間なのに、息急き切って大学へと走る姿に、すれ違う生徒たちが一様に不思議そうな目を向けているのを感じる。研究棟に至るまでに、2度知り合いに声をかけられたので、2度とも「忘れ物」とだけ叫んで返した。


 授業中はガラス越しに真っ白な色をしていた日の光は、今はかすかにオレンジ色を帯びている。

 地面に伸びている影は色濃く、長くなっている。傍を通り抜ける風の温度は数時間前と比べれば大分と心地良くなっており、ガラス戸で隔てられていた研究棟の中に入った後にも、それほど屋外との気温差は感じなかった。


 ちょうど2階から降りてきた民俗学部の女性教授が、直之を見て声をかけてきた。


「ああ柳井くん。なにかね、研究室にね」


「分かりました」


 挨拶もそこそこに、僅かに会釈しただけでその横を通り抜ける。教授は続けて何かを言おうとしていたように見えたが、「落ち着いてね」とだけ言ってそのまま廊下の角を曲がっていった。


 2階の廊下に到ってから、確かに急ぐ必要はないかと思って歩く速度を緩める。

 研究棟の屋根の少し上にぽつねんと浮かんでいる太陽の顔色はずいぶんと落ち着いて見えた。

 蝉の声は、道路を挟んだ大学のグラウンドから聞こえる喧噪よりも、さらに遠い。

 誰にも会わないままに廊下を歩き進み、研究室に到着した。扉が開け放されており、室内の明かりが廊下側の窓まで伸びて、その周辺だけ床の木目模様が切り取られたように浮かび上がって見える。


 誰かいるのだろうと思って、「失礼します」と言いながら入室した。

 相変わらずぐちゃぐちゃのホワイトボードは、今日は入り口の真正面に追いやられている。会議机には筆記用具や書きかけらしいルーズリーフが置いたままにされているが、生徒は誰も座っていなかった。

 梅雨の終わりごろから酷使され続けていたその身を誰かが案じたのか、今日は卓上扇風機は首を振らずに眠っている。


 開け放されている窓から入り込む風が、半開きのブラインドと誰かが許可なく吊した風鈴とを交互に奏でている。

 パソコンの前にも人影は座っていなかった。じゃあどうして明かりがつきっぱなしなのだろうと視線を右に向ける。


「うわ」


 来客用のソファに天誅教授がどっかと身を投げ出していた。

 尻というよりも背中で座っているかのような姿勢で、靴を履いたままの足が机の上に伸ばされている。研究室の事務員が見たら卒倒しそうな光景だった。

 じろりと眼鏡の向こうで瞳が動く。続いてその口が動き始める前に、機先を制するべく直之は深々と腰を折って、無礼な挨拶に対して謝罪の言葉を並べ立てた。

 嘲るような大きな鼻息がそれに応える。


「おお」


 いつものようにそう唸って、天誅教授は手にしていた厚い本を音を立てて閉じ、音を立てて机に放り投げた。

 若草色の少しくたびれた表紙に、金文字で『大室町誌 町制施行60周年記念事業』と書いてあるのが見えた。


「読んだか」


「いえ」


 天誅教授は少し意外だという顔をしたように見えた。

 今日の午後に図書館から連絡をもらったばかりだ、と直之が弁明しようとする前に、天誅教授は「よく見つけたな」と言った。

 相変わらず表情はむっつりとしたままで、口はへの字を描いていた。とはいえそれは、入学してから恐らく初めて聞いた、天誅教授の褒め言葉だった。

 豆鉄砲を食った鳩のように立ち尽くして

いる直之をよそに、天誅教授は机を足で押し退けながら立ち上がる。


「まあ、気張れや」


 研究室を後にする背中越しに、そう言われた。

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