裏切者
「アインステナ様おかえりなさいませ」
マンションの入り口に入った『男』を認証して機械の音声が言う。男は無言でエレベータに乗った。
住人がエレベーターに乗ると登録している階にまで自動で上昇する。
数秒で目的の階に着き、適当に廊下を歩く。それだけで目標のいる場所がわかるのだ。
「アインステナ様。おかえりなさいませ」
機械の音声の後部屋のドアが自動で開く。ここにアインステナがいる事を教えてくれた。
男は手元の電子レーザーを持つ手を握りこんでから部屋に飛び込んでいった。
「何よあんた!」
いきなり入ってきた男に私は叫ぶ。
男は無言でイツバちゃんに向けてレーザーを照射した。
脳の伝達信号に似た明滅を繰り替えすレーザーであるというのは知っている。そのレーザーを向けられたら、目を閉じても逃れる事はできない。
イツバちゃんは体の自由がきかなくなって倒れてしまった。
呼吸にも障害が出るこのレーザーは、長く当ててしまうと窒息死をする。
今のイツバちゃんは呼吸もできずに苦しんでいるのだろう。
イツバちゃんが倒れてしまい。私は部屋の奥に逃げた。あの男の目標は私らしく、イツバちゃんが倒れたのを確認すると私の事を追ってきたのだ。
ただの物取りならここで私の事など無視していただろうが、本当にツイてない。
両手で顔を覆ってもあのレーザーを遮断する事はできない。だが私は部屋の奥に追いつめられると、どうにもできずに顔を手で覆った。
「住居侵入に暴行の現行犯だ」
聞きなれた声が機械のマイク越しに聞こえてきた。
カインのユーフォーがやってきたのだ。
「遅い! 怖かったじゃない!」
「文句は後で言え!」
苛立った声のカインは男に向けて弾を撃った。
だが男はその弾を受けてもまったく問題なく走り去っていった。
「逃げたわよ! 早く捕まえなさい!」
「後で言え!」
まったく使えないくせに文句だけは一人前。私は震えながら男の去った後の部屋を見回した。
「そら。縛る物持ってこい」
帰ってきたカインは男を一緒につれてきた。
「こいつ、なんで動かないの?」
この男は、カインのユーフォーからの攻撃を受けてもなんともなかったはずだった。
なんで今頃になって動かなくなったのか?
「遅効性のしびれ薬だよ」
効くまで時間がかかる類のものだったらしい。この男があの弾を受けた瞬間には逃げても無駄だったわけだ。
「こっちこそ聞きたいことがあるが?」
カインは男の目を探った。男はカラーコンタクトを付けていたようだ。
「これはどういう事だ?」
「カラコンを付けていたからってなんだというのよ。こいつの趣味まで知らないわよ」
「これはお前の網膜を再現したカラーコンタクトだ」
このマンションは網膜で人間を認証する。私の網膜をコピーしたカラーコンタクトを付けていたから、この男はここまで素通りできたというのだ。
「網膜のデータなんてふつう取らないぞ! 個人情報なんだ! 普通の会社で網膜のデータなんて取らない! 網膜のデータを取るような施設にいた事くらい覚えているだろう! 言え! こいつらに心当たりはあるだろう!」
「そんな事言われても」
私は本当に心当たりはなかった。
「過去は捨てたのよ! 知らないものは知らない」
「なんだその言い訳は! 捨てるなら勝手に捨てろ! 覚えているかどうかが問題だ!」
そこまで言い争っているところ、ふと男が言い出した。
「裏切者め。俺たちの事を忘れたのか……」
「やっぱり知っているじゃねぇか!」
カインはさらに怒った。
だがそれどころではない。私は『裏切者』という言葉を聞く事に強い拒否反応がでる。
「違う! 私は裏切者じゃない!」
嫌な過去が思い出される。
あの施設で私は精一杯働いた。だが突然裏切者扱いをされたのだ。
謂れない言いがかりで、皆から裏切者と言われ、蔑まれ、心に傷を負った事は今でも覚えている。
「ちっ……錯乱状態になりやがった……」
カインが勝手な事を言う。
「何が錯乱状態よ! 私は知らないったら知らない!」
勝手な事を言い出すカイン。勝手に私を裏切者扱いした施設の連中。
あれから私は誰も信じられなくなったのだ。
「あんなとこ知らない! あんな奴ら知らない! あんな時間知らない!」
みるみる過去が思い出されて頭が痛くなった。それから体中におぞけが走った。
何も無いはずなのに喉が詰まって苦しい。胸に大きなつかえがあるみたいな気分である。私は何もする気力が起きなくなって部屋の隅でうずくまっていた。
「とりあえずこれ飲め」
適度に冷まされたコーヒーを渡したカイン。
「カウンセラーがいる。そいつに会ってもらう」
「カウンセラーって何よ! 私は病人? 絶対に会わないから!」
「お前が狙われている理由も詳しく調べにゃならん」
「あの男が知っているでしょう!」
「情報は少しでも多い方がいい。お前からの話も重要になる」
「何も知らないって言ってるでしょ!」
カインが何を言いたいのかはわからない。
私は無関係なのに巻き込まれている。その、根本的な事を理解していないのだろう。
カインはその言葉を最後に私の前から離れていった。