六章 〝カゲホウシ〟
お互いが睨みあう膠着を破り、先に動き出したのは〝カゲホウシ〟だった。
影のような外見とは関係なく、一定以上の質量を持っているのか、地面を強く蹴ると、空気を勢いよく巻き上げる音を立て、地面に砂埃を巻き起こすと、体を大きくしならせながら〝カゲホウシ〟は洞窟の中を跳躍した。
弘毅たちの頭上を優に越える高さまで跳躍した〝カゲホウシ〟を、弘毅とアリスは見据えながら、ほぼ同時のタイミングで、腰に備えたホルスターから拳銃を引き抜き、安全装置を外すと、〝カゲホウシ〟へと銃口を向ける。
「捉えたぞ!」
わずかに弘毅の瞳と手にした拳銃の銃口が、アリスよりも早く〝カゲホウシ〟を捉え、弘毅は拳銃の引き金を引く。
拳銃からは鉛の弾丸が放たれ、空気を震わせる乾いた音が洞窟内を反響させていき、薬莢が飛び散り、辺りに火薬の匂いを漂わせる。
だが、放たれた鉛の弾丸が、〝カゲホウシ〟の頭部に直撃するかと思われた刹那だった。
「なっ!」
瞬間、〝カゲホウシ〟の体がゆらりと揺れたかと思うと、鉛の弾丸が〝カゲホウシ〟の頭部を貫く前に、その姿を消していた。
それは、弘毅とアリスの二人が、この村に来る前に〝カゲホウシ〟と接触したときに何度も見た光景だった。
貫くべき対象を失った鉛の弾丸は、そのまま直進していき洞窟の壁へと衝突し、壁に穴を開けめり込んだ。
「クソッ! 何だってんだよあれは!」
〝カゲホウシ〟の能力に苛立ちを感じ、弘毅は銃を構えながら、左右を見渡す。
「……?」
弘毅の背後で彼と同じように左右を見渡し、〝カゲホウシ〟を探そうとするアリスは、彼の背後から発せられる違和感に視線を向けた。
「え?」
正確には、弘毅の背後ではなく、彼の背中から伸びる影であった。
弘毅の影に視線を向けたアリスの先で、彼の影が揺らめきながら伸びていき、弘毅の背中で人影を形作っていた。
「コウちん! 後ろだよ!」
「っ!」
自分の背後で起きていたことに気付かなかった弘毅に、アリスが声をかける。
アリスの声に、弘毅が後ろを振り返ろうとすると、先ほど姿を消した〝カゲホウシ〟が、彼を襲い掛かろうと、両手を広げ構えていた。
「舐めんな!」
アリスからの言葉が、〝カゲホウシ〟の影が完全に形作られるより早かったためか、弘毅の背後に立っていた〝カゲホウシ〟へと振り返りながら、繰り出した後ろ回し蹴りが命中し、〝カゲホウシ〟を吹き飛ばす。
弘毅の回し蹴りを受け、その体を浮かせた〝カゲホウシ〟は後方へと吹き飛ばされるが、手足を地面にこすらせながら、勢いを相殺させる。
屈んだ姿勢になりながら、手足が地面にこすられていくと、〝カゲホウシ〟から大量の土煙が巻き上げられ軌跡を刻んでいき、壁にぶつかることなく弘毅の回し蹴りの衝撃を相殺し、右手が地面に付いた姿勢になり、〝カゲホウシ〟は、二人へと顔を上げ見据える。
「ちっ! 化け物が……」
〝異能〟によって、身体が強化されている自分の一撃を受けても、何ともなさそうな様子に、弘毅が吐き捨てるように言う。
「でも、これでアイツの能力がいくらか分かったよね」
弘毅の横へと移動しながらしゃべるアリスの言葉に「ああ」と、弘毅が返事し、彼女の代わりに続ける。
「恐らくアイツの能力は、自分の体を別の影へと潜り込ませて、瞬時に移動することが出来る能力なのだろう。そう考えれば、あの林の中で起きたことと、さっきのことの説明がつく」
「でも、影から出現するのには、いくらか時間がかかるみたいだから、狙うならそこだよね」
〝カゲホウシ〟の能力を講釈すると、弘毅とアリスは、まるで勝ち誇ったかのように、にやりと笑みを浮かべる。
「タネが分かってしまえばこっちのもんだ。影から移動するというなら、常に、背後か別の影に注意しておけば済む話だからな」
〝カゲホウシ〟への対処法を講じながら、弘毅はアリスへと目で合図を送り、再び〝カゲホウシ〟へと銃口を向ける。
弘毅の合図にうなずきながら、銃を構える弘毅から数歩ほど離れ、アリスは自らの〝異能〟を発動させる。
「さぁ、来なさいよ〝カゲホウシ〟! アタシがズタズタにしてあげる!」
アリスが言葉を発すると同時に、彼女の髪が伸張されていき、燃えるように真っ赤に染まった髪を、海に漂う海藻のようにゆらゆらと浮遊させながら、〝カゲホウシ〟へと身構える。
「食らいやがれ!」
アリスが準備を整えたのを見計らい、弘毅が拳銃の引き金を引くと、鉛の弾丸が放たれ、〝カゲホウシ〟を捉える。
「来る!」
弘毅の拳銃から弾丸が放たれたのを確認し、アリスは即座に弘毅の影へと視線を向けながら、自身の背後へと意識を集中させ、〝カゲホウシ〟の出現に備えようとしたとき、弘毅が震えた声を上げた。
「な……なんだと……」
「コウちん?」
弘毅の影へと意識を向けていると、弘毅の体が震えているのに気付き、警戒の意思を残しつつ、弘毅の見つめている先へと、アリスも視線も向ける。
「嘘……」
弘毅とアリスの視線の先には、〝カゲホウシ〟が立っていた。
二人の作戦を見抜かれたのか、〝カゲホウシ〟は先ほどの態勢のまま、その場を微動だにせず、その身を屈めていた。
その姿を弘毅とアリスは見つめていたが、二人の視線は、〝カゲホウシ〟の体ではなく、左手の一点を見つめていた。
回転の摩擦によって生じた煙を上げながら、〝カゲホウシ〟の左手の人差し指と中指の間には、弘毅の拳銃から放たれた弾丸が挟まれていた。
「何て奴だ……銃弾を受け止めやがったのか」
〝異能〟の力によって、常人とは比べ物にならない超常的な力を手に入れた弘毅とアリスであったが、それでも、銃弾をかわすことはおろか、銃弾を受け止めるなどという芸当はとても出来ない。
だが、目の前に立つ〝カゲホウシ〟は、二人に出来ないことを悠々とこなしたのだ、その事実に、あまりの力の違いを見せ付けられ、弘毅は顔を歪ませ、苦悶の表情を浮かべる。
「――ない……」
「アリス?」
焦燥した様子の弘毅の隣で、アリスは、顔を伏せたままボソボソと呟いている。
アリスの呟きを耳にし、弘毅が彼女へと近付こうと振り返ろうとしたとき、アリスが顔を上げ、鬼のような形相で〝カゲホウシ〟へと睨みつけていた。
「認めない……こんな……」
怒りと悔しさからか、アリスの垂れていた目は、反転してしまいそうなほどに吊り上げられ、その瞳には、うっすらと涙が浮かべられていた。
「こんなの認められるわけないでしょぉッ!」
瞳に溜まった涙を散らしながら、アリスの叫びに呼応するように、〝異能〟の力によって真紅に染まった髪を二束、〝カゲホウシ〟へと向かわせ、左右から挟撃しようとする。
常人では捉えることの出来ないような速度で、アリスの髪が〝カゲホウシ〟へと迫っていくが、銃弾を受け止めるほどの動きを見せた〝カゲホウシ〟には、アリスの攻撃をかわすことは造作もないことだった。〝カゲホウシ〟の体が左右に揺れると、アリスの攻撃が宙を舞い、〝カゲホウシ〟の背後へと風切り音を上げ、交差しながら突き抜けていく。
「まだよ!」
初手の二撃をかわされたのを確認すると、間髪を入れずに、三撃目、四撃目用と髪の束を作り、今度は頭部を狙いながら両けさからの挟撃になるように、アリスは〝カゲホウシ〟へと攻撃を続けた。
だが、〝カゲホウシ〟を捉えるには至らず、〝カゲホウシ〟がわずかに前方へと前進すると、アリスの攻撃は空しく後方の地面へと交差するように突き刺さっていく。
「あ!」
一見、アリスの攻撃を難なくかわし、〝カゲホウシ〟の優勢に思えた状況だったが、〝カゲホウシ〟から数十メートル離れた後方から戦いを見ていた天寧が、〝カゲホウシ〟の背後で作られた状況に気付き、声を上げた。
「かかったね!」
〝カゲホウシ〟の背後には、アリスから伸びた四つの髪の束が交差し合うことにより、〝カゲホウシ〟の動きを封じ込めるための包囲網が作られていた。
〝異能〟の力によって、アリスが現在作れる髪の束は、同時に操れるのを考慮すると六つが限界であった。
アリスは、初手の二撃で左右への逃げ道を封じ、次の攻撃で頭上への跳躍を封じ、機動力を奪い、次の二撃で決めるという作戦を取っていた。
一瞬、アリスが弘毅へと視線を動かすと、アリスの意図を理解していたのか、影の移動を防ぐために、アリスの背後を見守りながら、弘毅は自身の背後へと意識を向けていた。
弘毅の様子を確認すると、アリスは最後の髪の二束を作り、〝カゲホウシ〟へと狙いを澄まし右手を前へと突き出した。
「これで終わりだ! 〝カゲホウシ〟ぃぃッ!」
アリスの叫び声と同時に、アリスの最後の攻撃が放たれる。
一つは上半身の中心を、もう一つは下半身の中心を目掛けて突き進んでいく。
その凶刃とも言うべき攻撃が放たれるが、〝カゲホウシ〟は動かない――。
いや、動くことが出来なかった。
アリスの狙い通り、〝カゲホウシ〟の背後には、左右と両斜めを交差するように作られた網により、頭上と左右への跳躍を防がれ、更に、弘毅の見張りにより、影の移動も出来なくなっていた。
このまま体を動かさなければ、上半身を貫かれることになる。しかし、例え、しゃがんで上半身への攻撃をかわしたところで、下半身への攻撃をかわすことが出来ず、結局は、無残に貫かれることになる。
アリスの攻撃が〝カゲホウシ〟の目前に迫ったとき、勝利を確信したアリスは、思わず、口の端を吊り上げ、笑顔を作っていた。
だが――。
「なん……でよ……」
アリスの顔は笑顔から一転して、まるで血の気が引くような音が聞こえるかのように、恐怖から青く染まっていった。
自らの勝利を確信し、自身の力によって倒れているはずの相手が、自分の視線の先で、ある点を除き、先ほどの姿勢のまま、悠々と立っていたのだ。
〝カゲホウシ〟は、右手と左手の人差し指と中指を曲げた状態で、指の間に挟みこむように、それぞれ一束ずつ、器用にもアリスの髪を掴んでいた。
銃弾を受け止めた動きから、目の前で起きたことは、決して予測の出来なかったことではない、しかし、壁に突き刺さるほどの鋭さを持ったアリスの髪を掴むことは、危険極まりない行為である。何故なら、仮に掴めたとしても、その鋭さから、指を切り落としてしまう可能性があるからだ。
物を突き刺すための鋭さを出すためには、先を尖らせる必要がある。
そして、先を尖らせるためには、単純に二つの手法が考えられる。
一つは、錐などのように、点を中心に尖らせ円錐状にする方法、もう一つは、ナイフなどのように、先端を中心に刃を作る方法である。
アリスの能力により作られた髪は後者であり、これは、アリスが意図的に行っているものである。円錐状にすれば、そのまま掴まれる可能性を考え、アリスは、あえて刃状の形にし、もしも掴まれたとしても、重傷を負わせることが出来ると考えたのである。
だが、刃の形状にするということは、どこかの部分に、必ず、〝平〟の部分が出来てしまうのである。
その〝平〟の部分のみを掴み、強靭な握力による強い圧力を掛けて指を滑らせなければ、理論上は指を切り落とさず、掴むことは出来るだろう。
だが、あれほどの速度の物体の形状を即座に見極め、まして、滑らせずに指の間に挟みこむなど、不可能の領域である。
しかし、それを可能にしたということは――。
「見えていたってこと……」
ありえない――。
訓練により、〝異能〟の使い方をここまで操れるようになったことに、アリスは自信を持っていた。
〝異能〟は、その性質上、訓練により根本的な能力を高めることは出来ない、だが、それでも、力のコントロールの仕方や、アリスのように、形状を操るぐらいならば可能である。
絶対的に、力の差を覆すことの出来ない〝異能〟ゆえ、力の弱い者が格上の相手に勝つためには、様々な工夫をする必要があるのだ。
その過程でアリスが会得したのが、髪の形状のコントロールと、先ほどの戦法であった。
「アタシは……」
アリスは、自分の自信が打ち砕かれたことに体を震わせると、口元をかすかに動かす。
「アリス!」
アリスの様子に、弘毅が声を掛けるが、目の焦点が合わず、上の空となっていたアリスの耳には、弘毅の呼び声は届かなかった。
「アタシは、アタシは〝アリス〟なんだよ! 選ばれた特別な存在で、そんなアタシが、なんでこんなッ――」
アリスの悲痛の叫びが、洞窟内を木霊したかと思うと、〝カゲホウシ〟がアリスの髪を掴んだまま、両手を大きく振り上げた。
「わッ!」
〝カゲホウシ〟の行動に、アリスはハッとする。
掴まれたアリスの髪は、振り上げられた勢いによって、上へと向かいながら大きく弧を描き、アリスの体をかすかに浮き上がらせた。
アリスの体が宙に浮かんだ瞬間を見計らったかのように、〝カゲホウシ〟が後ろへと向きを変え、今度は勢いよく両手を振り下ろした。
「キャアァ――ッ!」
突然の事態に、大声を上げながら、数メートルの高さまでアリスが持ち上がったかと思うと、そのまま勢いよく地面へと叩きつけられた。
「ぐっ……!」
背中から地面に叩きつけられる形となり、アリスはうめき声を上げ、仰向けになりながら、地面に倒れた。
力が弱まったのか、〝カゲホウシ〟の動きを封じていた髪の檻は解かれ、アリスの元へと戻っていくように収縮していき、その様子を見た〝カゲホウシ〟は、手に握っていた髪を離した。
「まさか、ここまでとはな……」
アリスの髪が元の長さへと戻っていく様子を見ながら、弘毅が毒づいた。
いや、本来なら、この結果は十分予測できたことで、それでも、直に、その力の差を見せ付けられたことで、弘毅は、自分たちの力の性質を改めて認識させられることになってしまった。
「何なんだよ、お前は! 一体、何が目的だって言うんだ!」
地面に叩きつけられた衝撃は、並みの人間なら死んでいてもおかしくないほどのものだろう、だが、弘毅がアリスの様子を見る限りだと、すぐに動くのは厳しいだろうが、血を吐き出していないことや呼吸の感じから、内蔵の損傷はなさそうで、命に別状がないことがうかがい知れる。
だが、これほどの力の差があるのだ、自分たちを殺そうと思えば、すぐにでも殺すことが出来たはず、それをしないということは、少なくとも、〝カゲホウシ〟の目的は、自分たちの命ではないことは分かり、更に、一連の行動を見れば、〝カゲホウシ〟が、まるで天寧を助けたようにも見える。
弘毅の目の前に佇む〝それ〟は、あれだけの動きをしても、最初に相対したときと変わらぬ様子であり、息切れをするような仕草もなければ、息遣いすらしているのか疑わしい様子である。
人の形をしているが、人のそれとは感じられない存在に、とてもではないが、弘毅は〝カゲホウシ〟から、天寧を助けようとした行動までは分かっても、その理由を説明づけるような、明確な意思のようなものまでは感じ取ることは出来なかった。
「ちっ……」
しかし、〝カゲホウシ〟の目的を知ることが出来ようが出来まいが、このままでは、自分たちに与えられた任務を達成することは出来ない。
そんな思いを胸中にすると、弘毅は、自然と握っていた拳銃を構えなおし、〝カゲホウシ〟へと向かっていった――。
――夢を見ていた。
自分が、〝まだ〟幸せだったころの夢。
自分の髪が、みんなと同じ〝まだ〟黒髪だったころの夢。
そして、自分が、〝まだ〟アリスではなかったころの夢――。
特別、家柄に恵まれていたわけでもなく、人に誇れるような特技などを持ち合わせていたわけでもなかった。
品行方正というわけでもなく、むしろ、どちらかと言えば、素行は悪いほうで、いわゆる不良と呼ばれる分類に属していた。
親や学校、友達やクラスメイトにも迷惑をかけることは多少あったが、それでも、度を過ぎた素行はしていないという自負はあり、一緒に馬鹿やる友達もたくさん居た。
そんな自分でも、人並みに幸せを望み、平凡ではあるが、両親が居て、友人が居て、好きな人も居て、慎ましくも、十分に幸せを感じる生活を送っていた。
この身に、あの能力が宿るまでは――。
最初は、髪の変異によるものであった。
昨日まで黒髪だった自分の髪が、突如としてピンク色に染まっていたのだ。
もちろん、身に覚えはなかったが、周りからは髪を染色したのだろうと疑われるのは当然のことであった。「違う」と、誤解を解こうとも考えたが、事実、自分の髪はピンク色という、まるでコスプレ用のウィッグでも着用したような見た目になっていたのだ。このような姿になっていては、どのような言葉を投げかけたところで、信じてもらうほうが無理というものである。
動揺と普段の素行の悪さを考え、必要以上の波風を立てないよう、教師や同級生からの注意を素直に聞き、体裁を取り繕いながら、突如、変異した自分の髪を黒染めしたが、次の日になると、再び、異常なピンク色の髪へと戻っていた……。
髪の色が元に戻っていないことに、周りの人たちが指摘をしてきたが、さすがに、髪を染めたのではないことを必死に訴え、誤解を解こうとしたが、誰にも信じてはもらえなかった。
それから、何度も、髪を黒く染めたが、やはり、異常に変貌したピンクの髪に戻ってしまっていた。
それどころか、何度も黒染めをしているうちに、最初は翌日だったのが、次には数時間と感覚が短くなっていき、ついには、数分のうちに戻ってしまうまでになっていた。
それだけではない、この異様な状態になってから日が経てばたつほど、髪だけでなく、体のほうにも変化が生じるようになってきたのだ。
外見こそ変わらないが、腕力が以前よりも増し、動きは俊敏性を増していたのだ。
それから、誤解が解けぬまま数日が過ぎ、自分の髪の色を元に戻していないことに、両親や教師の人たちが呆れ果て、とうとう、親の付き添いのもと、目の前で染色させられることになってしまった。
目の前で、自分の身に起きた有り様を見せれば、両親も、他のみんなも、きっと信じて助けてくれるに違いない、そのときは、確かに、そう思っていたのだ。
だけど――。
『ば、化け物ッ!』
『あなた! 変な薬でもやっちゃったんじゃないの!』
『え……?』
そこには、情愛や慈しみに満ちた、優しい安慰や哀憫の言葉などはなく、ただ、自分の体に起きた異常に対する、非難と拒絶の意志のこもった、怒号の言葉だけであった。
あまりの周りの豹変ぶりに、涙を浮かべながら、すがるように両親と教師を説得しようとしたが、こちらの話に耳を貸してくれることはなく、まるで、恐ろしいものを見るかのような表情で、こちらを見返してくるだけだった。
どうしてそんな目で見るの?
どうして自分の話を聞いてくれないの?
どうして――。
確かに、問題行動も多少はあった。両親や周りの人の話を聞かないことで迷惑をかけることもあった。
だけど、それでも、自分は愛されているのだという思いはあった。
心の支えにも近い、その思いのおかげで、今まで好きに生きてこられたのだ。
何が起こっても、きっと両親や、他のみんなが助けてくれる。
怒られたり責められたりはしても、決して、自分を見捨てることはないと、そんな幼くも淡い思いを信じていた……。
『違う……』
信じていた思いが偽りだったことに気づき、動機が乱れ、脈が速くなる。
自分は、誰からも愛されてなどいなかったのだ。そんな思いが、自分の胸に去来すると、感情の高ぶりに応えるように、髪が深紅に染まり、気づいたときには、辺りは、自分の深紅に染まった髪と同じように真っ赤に染まっていた……。
――それから程なくして、〝異能〟の力を持った者を集めるという組織、〝アムリタ〟へと、彼女は保護される形になった。
すべてを失い、情愛も優しさも、自分の生み出した幻想だったことに絶望し、保護された後、しばらくふさぎ込んでいた。
そんな彼女を、一人の男の言葉が救ってくれた。
『失ってしまったから、そんなものは、夢まぼろしだから存在しないと、そんな理由で、望み、求めることを諦めてしまってもいいのか? 望んでも手に入らぬというのならば、我々が作り出せばいい、我々には、その資格がある。何故ならば、我々は、この世界に選ばれた存在なのだからな』
名前も知らず、顔も逆光でよく見えなかった男、分かったのは、純白のコートを羽織り、腰まで伸ばした美しく輝く金髪だったことだけ、しかし、その力強い言葉と存在感だけは、鮮明に記憶していた。
選ばれた存在、資格などという言葉の意味するところは、正直、彼女が理解することは出来なかった。だが、その男の発した、作り出せばいいという言葉に、彼女の心は、奮い立てさせる何かを感じさせた。
だったら、今は、悪夢のようなおとぎ話を演じてやる。
この悪夢のようなおとぎ話の先にある。本当の自分の居場所を手に入れるために――。
そう……〝アリス〟として――。
「うぅ……」
どれだけ気を失っていたのか、夢から覚めたアリスが上半身だけをゆっくりと起こしていく。
「つっ……!」
体を起こすと、唐突にずきずきと頭が痛みだし、その痛みで、アリスは、自身の身に起きたことを思い出し、痛み出す頭を手で押さえながら、ゆっくりと周りを見回す。
「コウちん?」
今回の任務で、共に行動することになった相方の姿を見つける。
拳銃を携えた右手は、だらりと力なく垂れ下げられており、左手は、乱れた呼吸を整えるように、左胸を押さえている。
その表情は憔悴しきっており、眉尻を下げ、目の前の物体を恨めしそうに睨んでいる。
〝カゲホウシ〟は、そんな弘毅の様子などは露知らずといった様子で、彼の眼前に、悠々と佇んでいた。
恐らく、アリスが気絶してから、一人で何とか相手をしていたのだろう、とは言え、二人でも圧倒されていたのだ。そんな相手に一人で挑んだところで、勝てる見込みなど皆無である。
弘毅とは対照的に、呼吸の乱れの様な物も感じられなければ、焦燥しきったような雰囲気などみじんも感じられない。
そんな様子を見て取りながら、それと同時に、アリスに、一つの疑問が生まれた。
何故、自分たちに止めを刺さないのだろうか?
アリスが感じた疑問に答えてくれるはずがないのは分かっているが、それでも、ここまでの力の差を見せつけられておきながら、こちらには、致命傷と言うべき重傷はおろか、精々、体力の消耗程度で、傷らしい傷は負っていないことに、疑問を抱かないほうが無理な話である。
そんな考えを脳裏に浮かべながら、アリスは、ふと、視線を辺りへと移動させていく。
特別、意味のある行為ではなかった、ただ、何かないかという思いから自然に出た行為であり、多くの人が、一度は経験したことがある行動だろう。
アリスが視線を動かしていくと、数刻前に、自分たちが始末した〝異能〟の姿を、視線の中に捉えた。
この村の人々から、〝祟り様〟と呼ばれていたそれは、動き出す気配はなく、ただ、静かに横たわっていた。
「そっかぁ……その手があったか……」
その無意味とも取れる行動も、時として、偶然と言う形で、意外な答えを与えてくれることもある。
〝祟り様〟の姿を映した瞳を見開きながら、アリスは、口元を微かに歪ませながら、体を立ち上がらせると、ふらふらとしたおぼつかない足取りで、横たわるそれへと歩を進めた。
「くそがっ……」
目の前を佇む敵を睨みつけたまま、弘毅が恨めしそうに毒づく。
アリスが気を失ってから、孤軍奮闘とも言える様子で、何とか〝カゲホウシ〟の相手をしていたが、とてもではないが、相手にすらなっていなかった。
右手に携えた拳銃の引き金を引けば、〝カゲホウシ〟は、それに合わせるように、尋常ではない反応速度で弾丸を受け止めるか、軌道を読まれて避けられてしまう。
接近戦を挑むものなら、圧倒的な力量の差に、手も足も出すことは出来ない。
そもそも接近戦などは、ある程度、お互いの力量が拮抗していなければ、まともにやり合うことなど出来ないのだ。
月日を重ねることで、〝異能〟の力は強力になっていくという話は聞かされていたが、さすがに、ここまでの差を実感させられてしまうと、弘毅は、自然と笑みがこぼれてしまっていた。
自分の非力さと、その格の差を嫌というほど感じさせられても、なお、戦い続ける自分の諦めの悪さ、そんな自分に対して、手加減されても余裕で相手をされてしまう滑稽さ、そんな様々な思いから込み上げてきた、諦めにも似た可笑しさによる笑みであった。
「すごい……」
〝カゲホウシ〟が、弘毅とアリスの二人を相手している間に、天寧は、和真の傍へと駆け寄っており、和真の傍で、彼らの戦いを見ていた。
天寧が見る限りだと、和真の体は、軽い打撲や擦り傷が見て取れたが、呼吸の乱れなどは特になく、命に別状はなさそうな様子で、「ほっ」と、安堵をしていた。
ただ、未だに目を覚まさないこと、自分一人では和真を運ぶには厳しいこと、そして、現状の事態にまだ混乱もあって、この場から避難するという行動を起こせずに、庇うように和真の前に自分を位置するようにし、その場でじっとしている。
天寧の目では、〝カゲホウシ〟と弘毅たちの戦いの半分も理解することは出来なかったが、それでも、目の前の状態から、〝カゲホウシ〟が弘毅たちを圧倒していることだけは理解出来た。
「でも……あれは、あの人は、一体……」
天寧は、〝カゲホウシ〟が現れたときを思い出していた。
弘毅が自分を襲おうとしたとき、〝カゲホウシ〟は現れた。弘毅たちの口振りから、以前にも接触したことがあるのだろう、腑に落ちないところはあるとはいえ、〝カゲホウシ〟が弘毅たちと敵対している理由は、それで何とか説明することが出来る。
しかし、まるで、天寧を助けているように思えてしまう、あの行動の説明はつかなかった。
それだけではない、〝カゲホウシ〟は、弘毅やアリスの攻撃が、天寧と和真に届かないような位置になるように、常に、維持しながら戦っているように見えるのだ。
意図的か偶然かは分からないが、これだけのことが重なれば、さすがの天寧も、〝カゲホウシ〟が自分たちを助けるように行動していると思わざるを得なかった。
だが、天寧には、どうしても〝カゲホウシ〟が自分を助ける理由だけは心当たりがなかった。そもそも、〝異能〟と呼ばれる言葉を聞いたのも、それを目の当たりにしたのも、弘毅たちに聞かされて初めて知ったのだ。
「でも、何故でしょう……この、穏やかに感じる安らぎは……」
天寧は、この状況に対して、不思議と、恐怖を感じてはいなかった。
いくら、自分を守ってくれているように思えて、仮に恐怖は感じなかったとしても、普通に考えれば、〝カゲホウシ〟に対して、猜疑心などを抱いて不安になるものである。
何故、このような想いになるのか、それは天寧自身にも分からなかった。
そんな思いを胸に、天寧は視線の奥のほうで、何かがうごめく姿を見つけた。
「あれは……?」
うごめく姿の正体を知るために、天寧は視線を凝らしていくと、視線の先に居たのは、アリスだった。
〝カゲホウシ〟と弘毅が戦いを繰り広げている中、先ほどまで気を失っていたアリスが、痛みに耐えるように頭を押さえながら、何かへと近寄ろうとしている姿を天寧は見つめていた。
「一体、何を?」
弘毅の援護をするようには見えず、自分の体を支えるようにしながら移動する先へ天寧が視線を向けると、その先で倒れているものに、天寧は驚きのあまり口元を両手で押さえた。
「〝祟り様〟!」
それは、自分が生贄として捧げられるはずだった、弘毅たちに〝異形〟と言われた存在、〝祟り様〟であった。
「ふ、ふふ……こいつさえ使えば、アタシは、アタシはッ!」
天寧からアリスの表情を窺うことは出来なかったが、遠目からでも、尋常ではない様相を感じ取ることは出来た。
「っ!」
アリスのほうに意識を向けていると、天寧は、近くで物音がしたことに気づく。
物音に警戒しながら、天寧は無意識に、和真を庇うように、両腕を前に構えながら身を挺していき、物音がしたほうへと視線を向けていく――。
「……誰、ですか?」
植物などは存在せず、限りなく密閉にも近い洞窟の造りと〝祟り様〟の存在で、大型の動物はおろか、ネズミやコウモリなどの小動物すら、この洞窟の中には存在しないはず……かといって、儀式が終えられていない以上、村の人たちが入ってきたとも考えられない。
そうなると、あの二人の仲間がやって来たのか、それとも〝祟り様〟のような存在が他にも居たのだろうか?
そんな考えをよぎらせながら、天寧は、眉根を寄せながら、じっと見つめていくと――。
「……天寧?」
物音がした場所から姿を現したのは、和真と一緒にこの村へとやってきた少女、春香だった。
「は、春香、さん……?」
この場所に居るはずのない少女が居たことに驚きを隠せず、天寧は思わず口元を手で覆ってしまった。
「どうしてここに? もしかして、春香さんも、あの人たちに連れてこられたのですか?」
「え、わ、私は、ただ……」
和真の件もあってか、春香にそう尋ねる天寧だったが、春香が怪訝で不安そうな表情をしていることに気づくと、天寧は自分を落ち着かせようと、一度、ゆっくりと深呼吸をしていく。
「……春香さん、今は話をしている場合じゃありません、和真さんを――」
そう言いながら、天寧が体をずらすと、春香に和真の姿を見せる。
「和真ッ!」
和真の姿を見ると、春香は和真の傍へと駆け寄り、肩に手を置いて名前を呼んでいく。
「一体、何があったの? 和真は、大丈夫なの?」
春香からは、いつもの気丈な様子は感じられず、和真と天寧を交互に見ながら、のめり込むことの出来ない状況に、今にも泣き出しそうになっている。
「和真さんなら大丈夫です。気を失ってはいるようですが、見たところ大きな怪我はなさそうですし、少ししたら目を覚ますかと思います」
春香を安心させようと、天寧は、出来るだけ優しい声色で春香に語り掛けていく。
「本当? よかった……」
泣きそうな表情になっているのは変わらないが、天寧の言葉に少しは安堵できたのか、春香は落ち着いた様子を取り戻していた。
「さ、早く、和真さんを安全な場所に運ばないと!」
一人では和真を運ぶことが出来なかった天寧だが、春香と二人ならば、安全な場所へと和真を運びながら避難することが出来る。
春香に声を掛けながら、天寧は和真の体をゆっくりと抱え起こしていくと、促されるように、春香も和真の体を支えて運んでいこうとしていく。
「ど・コ・に、行くつもリなのかカなァ?」
天寧と春香が、和真の体を支えて避難しようとしたとき、まるで獣のうめき声のような、くぐもった声が背後から聞こえてきた。
「っ!」
声がしたほうへと天寧と春香が振り返ると、そこには、優に二メートルは越える巨体に蒼白い肌と、人間のそれとは思えない、おぞましい形状をした右半身と下半身をした〝何か〟が立っていた。
そのおぞましい姿に、思わず目を背けたくなる天寧だったが、天寧は、自分たちの背後に立っていた存在に見覚えがあった。左半身にはコートのような物の名残があり、そこには、大きな瓶から液体が流れている絵が描かれたエンブレムを覗かせていた。
エンブレム、そして口の端を広げながら歪んだ微笑みをすると、合わせられるように、ピンク色をしたぼさぼさの髪が揺れていく――アリスだった。
「あ、あなた……その姿は、一体……」
元々、女性としては背が高めなほうのアリスではあったが、それでも、優に二メートルは越える巨体となっており、右腕と両足は蒼白い色をしており、皮膚を破るほどに筋肉は肥大化しており、血に染まった筋繊維を露わにさせ、腕と同じく肥大化した右手の先には、ナイフ程度にまで伸びた爪が生えており、鋭利な刃物のような鈍い光を発している。そして、右足と両足から体の中心に向かいながら、まるで侵食していくかのように、服の上から、アリスの体を覆っていた。
「素敵でしョう? これが、選ばれし者ノ力なのよ!」
侵食されている部分は、右腕と両足だけではなく、顔の右半分近くも変異しており、右目の白い部分と黒い部分は真っ赤に染まりきり、口元も変異からか、異様に伸びた犬歯を覗かせながら、獣のうめき声のような、くぐもった不気味な声を発している。
完全に侵食しきっていない服と顔、特徴的なピンクの髪色から、アリスであることを天寧は認識することは出来たが、あまりにも変わり果てた異様な姿に言葉を失い、自然と体が合震えあがり、その姿をじっと見つめながら立ち尽くしていた。
「あラぁ? ソンなに震えテどうしたノ? アタシのあまりにもステキな姿に、言葉も出なくなったのかなぁ?」
「い、いやぁぁぁっ!」
ゆっくりと迫ってくる異様な姿をしたアリスを見た春香が、糸が切れたかのように大声を上げた、恐怖に染まった声は叫びとなり、洞窟内を反響させていった……。
「よそ見してんじゃねぇ!」
洞窟内に女性の叫び声が響き渡ると同時に、弘毅が〝カゲホウシ〟に拳銃の引き金を引いて発砲していく。
よそ見……とはいっても、弘毅から見れば、〝カゲホウシ〟の表情を窺い知る術はないのだが、叫び声が聞こえてくるのと同時に、確かに〝カゲホウシ〟は顔の向きを変えて注意をそちらへと向けていたのだ。
弘毅は、〝カゲホウシ〟が見せた、その一瞬の隙を見逃さなかった。
引き金を引き、拳銃に装填してある弾丸を撃ち尽くしていく――全弾を当てきるつもりはない、一発でも当たれば勝機はある。
まるで願うかのように胸中で思いながら、撃ち尽くした拳銃を構えたまま、弘毅は〝カゲホウシ〟を睨み続けていく。
「…………」
「っ!」
弘毅が〝カゲホウシ〟を睨み続けていくと、それまで悠々とした様子で相対していた〝カゲホウシ〟の姿が微かに揺れていき、脇腹と思われる箇所を押さえるようにしながら、ゆっくりと膝を突いていく。
「へ、へへ……何か知らねぇが、ようやく当たったみてぇだな、油断はいけねぇよなぁ、油断は」
まぐれなのか、それとも本当に油断によって被弾させられたのか、それは弘毅には分からなかったが、現に、先程から自分たちを圧倒していた存在は膝を突いて屈んでいる。所詮は一発とは言え、その一発を当てただけで、弘毅の心中はまるで勝利したかのような高揚感に満たされていた。
「さぁて……このままトドメを刺して――っ!」
喋りながらも迅速に拳銃のリロードを済ませていく弘毅は、〝カゲホウシ〟の後方に居る存在が目に映り、一瞬、言葉を失ってしまった。
「なっ……あ、アリス、なのか……?」
弘毅の視線の先には、和真、天寧、春香、そして、異形の姿と化したアリスが居た。
「ん……? 確か、あの女は、いや、それよりも……」
アリスの姿に怯えきっているのか、左右の手を頬の位置まで震えている様子の春香を見た弘毅は、春香の姿に見覚えがあり、和真の連れとしてこの村に居たことを思い出していたが、何故、その女性がこの洞窟に居るのかと怪訝な表情を見せるが、春香のことは弘毅にとって瑣末なことであると捉えられた。少なくとも、弘毅の相方であったアリスに起きている事態に比べれば、どうにでもなる問題であると考えていた。
「あのバカ……〝異形化〟しやがったか」
アリスの変異した姿を眺めると、弘毅は、顔をしかめながら毒づいた。
「アハハハハ! あ、コウちん! ほら、見てみテ! とてもステキな姿でしょウ?」
歪めた表情のまま弘毅がアリスを見つめていると、弘毅の視線に気づいたのか、まるで待ち合わせの友達を見つけた友人のように、アリスが〝異形〟と化した右腕を大きく振っていく。
「オマエ……さては、〝アレ〟を取り込みやがったな?」
アリスの狂気とも呼べる無邪気な対応に、嫌な汗を垂らしながら、弘毅が口を開いて尋ねる。
「フフン、ソうだよ? 〝アレ〟を、コの村の連中が〝祟り様〟って呼んでいるやつをね。このアタシが〝食って〟あげたのよ!」
くぐもったようなしゃがれた声を発しながら、〝異形〟による作用からか、かなりの興奮状態になっている様子でアリスが答えていく。
「オマエ、分かっているのか……? その姿になってしまった意味が、オマエは、もう……」
「分かっているヨぉ? つまりネぇ……アタシが、特別ナ存在で、選ばれタってことでしょウ!」
アリスの姿と、その姿になってしまったことの意味を知っている弘毅は、決して仲が良かったわけではないが、それでもまんざらでもなく、そんな想いからくる口惜しさを感じながら、アリスの姿を眺めていることしか出来なかった。
「何、が……」
「ンー?」
恐怖で震えている自分の体を抱きしめるようにしながら、恐ろしさを押し殺して、春香がアリスを睨みつけていく。
「何が、何が選ばれた者の力よ! そんなの……」
恐怖により縛られていた箍が外れてしまったのか、生来の気の強さからか、春香は堰を切ったかのようにアリスを睨みつけながら言葉を発していく。
「そんなの、ただのバケモノじゃない!」
「っ!」
春香から言葉が発せられたと同時に、アリスのピンク色に染められた頭髪が一瞬で逆立ち、彼女の憤怒を表すかのように真紅に染め上げられていく。
その表情は、両目は激しく吊り上がり、侵食されていないほうの瞳は、充血によって真っ赤に血走っていき、歯を食いしばらせ、歯と歯をこすらせる音を発しながら、今にも襲い掛かりそうなほどの恐ろしい形相となっていた。
「アタシを! アタシをバケモノって言っタなぁっ!」
恐ろしい形相から覗かせる瞳をぎょろつかせながら、アリスは、自らの異形と化した右腕を大きく振りかぶり、春香へと目掛けて振り下ろそうとしていた。
「あっ……」
「春香さん!」
「やめろ、アリスッ!」
あまりにも現実味のない事態に、体が動かなくなったのか、アリスが振り下ろしてくる右腕を呆然と見つめる春香。咄嗟に身を乗り出し、振り下ろされる右腕から春香を抱きしめて庇おうとする天寧。そして、間に合わないと理解しつつも、アリスへと静止を呼び掛ける弘毅。
庇い合うように、お互いの肩と背中に腕を回して抱きしめ合う春香と天寧の二人に、〝異形〟と化したアリスの酷悪なる一撃が迫る。
あの〝異形〟と化した腕に引き裂かれれば、間違いなく、無事ではすまないだろう。諦めと無念、怒りと悲しみ、走馬灯のようにも感じる様々な感情が、二人の脳裏を駆け巡っていた。
「死ネぇェッ!」
「っ!」
今まさに、二人の眼前に腕が降り下ろされ、反射で二人はお互いを強く抱きしめ合いながら目をつむった。
「……っ?」
――だが、二人の体は、引き裂かれもしなければ、〝異形〟と化した腕が触れることすらなかった。恐る恐ると二人は目を開いていくと、自分たちの眼前で起きている様子に、言葉を失ってしまった。
「えっ……」
「どう、して……」
「テメェ、一体……」
そこには、くせ毛のある地味な髪型に、たれ目気味なせいで、やや不機嫌そうに見られやすくも、まだあどけなさの残る顔をした青年が、右手から黒いナイフ状の霧のような物を構えながら、アリスの右腕を受け止めていた。
「あ、アンタ、気ヲ失っていタんじゃッ!」
「和真、さん……?」
「和真……」
そこに立っていたのは、先程まで気絶して横になっていたはずの青年、和真だった。
「…………」
ややタレ目気味で、不機嫌そうに見える目つきを鋭くさせ、相対するアリスを和真は睨みつけていく。
「ああ、そうか、そういうことかよ……」
目の前の事態に確信を持った弘毅が、眼前に立つ、二人の〝カゲホウシ〟を見つめながら口を開いた。
「オマエが――オマエが〝カゲホウシ〟だったんだな!」
弘毅の言葉が合図になるかのように、自分よりも明らかに重量があると思われるアリスを、片腕で払いながら、和真はアリスを押しのけていく。
「グっ……」
「いつまでも調子に乗るなよ……俺の大事な人たちをこんなに傷つけて、絶対に許さないからな!」
押しのけられたことで態勢をわずかに崩していくアリスを睨み据え、口調こそ変わらないが、怒りに震える和真から発せられた怒号は、その場に居る者たちを震撼させながら、洞窟内を響き渡らせていった――。




