七章 〝変貌〟
「アンタが……アンたガ〝カゲホウシ〟だったナんてね……」
和真の〝影のナイフ〟に弾かれた右腕をさすりながら、アリスが恨めしそうに睨みつける。
「今までのは演技だったノかな? ソれとも……都合よく、ヒーローが颯爽と現れるようなタイミングで目が覚めタとでもいうわけ?」
皮肉交じりに言葉を向けてくるアリスを見据えながら、和真はナイフを構えた態勢を崩さずに口を開いていく。
「答える必要はないんだけどな……正直、俺にもよく分からない」
気絶していた事実に、和真は顔をしかめながら呟いていく。
「ただ……体が熱くなったと思ったら目が覚めて、考えるよりも先に体が動いていただけだよ」
そう返してきた和真の返答が気に入らなかったのか、アリスは「フーん、そう」と、不機嫌そうな様子を見せてきた。
「和真、あんた一体……」
あまりにも現実味のない事態と出来事の連続に、春香は狼狽した様子を隠せずにいた。
「どういうことなの? 何であんたが、そんな……」
「…………」
春香の問いかけに、和真は無言のまま背中を向けていた。
「何で黙っているの? 最初からそうだったの? どうして、どうして今まで、何も教えてくれなかったの?」
天寧と抱き合っていた腕を解きながら、和真の背中に訴えかけるように、春香は悲痛の想いが込められた言葉を投げかけていく。
「春香、俺は……」
春香の言葉にバツが悪そうにしながらも、和真は、ゆっくりと春香のほうへ振り返ろうとする。
「あーあ、やだやだ……やめてよネ? そういう思いやりとかそんなのサ」
春香と和真の様子を見ていたアリスが、二人に様子につまらなそうに言い捨ててくる。
「大方あれナんでしょう? 余計な心配を掛けたくないとカ、危険なことに巻き込みたくないとカ、そういう胸糞が悪くなるようなアレなんでしょウ?」
春香と和真の様子などお構いなしといった様子で、まくし立てるようにアリスが毒づいていく。
「気に入らないワ……本当、反吐が出るノよ、そういう偽善的なやつってサ」
腕の調子を整えるように、右腕を軽く鳴らしながら、アリスは毒づきを止めずに続けた。
「それでも……」
「あ?」
微かに身を乗り出して、和真の隣に立つと、天寧は、アリスを真っ直ぐに見据えながら口を開き、続けていく。
「それでも私は、和真さんを信じます。どのような理由があったとしても、それが例え、誰にも言えないことだったとしても、私は、私の知る限りの和真さんを信じたいです」
天寧の表情からは、もはや恐怖も無ければ、不安の欠片すら感じさせなかった。
和真が〝カゲホウシ〟だと判明したことで、天寧は確信していた、〝カゲホウシ〟と呼ばれる存在に、何故、安心を感じていたのか、何故、自分を助けてくれたのかを――。
「春香さんも、春香さんの知る和真さんを信じてあげて下さい。春香さんの知る和真さんは、春香さんが信じられないような人なのでしょうか?」
春香へと視線を向けながら発せられた天寧の言葉は、穏やかな口調だが、とても力強く、想いが込められていた。
「わ、私は……」
天寧の真っ直ぐな視線と、強い想いが込められた言葉に思わずうつむいてしまった春香であったが、うつむきながら、自分に納得させるように小さく頷き、ゆっくりと顔を上げていくと、春香の中にあった猜疑の思いが晴れていった。
「訳が分からないことばかりだけど……だけど、私も……私も和真を信じる! だから、これが終わったら、ちゃんと、全部話してよね?」
「ああ、約束するよ」
春香の言葉に、和真が頷きながら答えていくと、その返事で満足したようで、巻き込まれないように、和真から離れていく。
「天寧さん」
「はい」
春香が離れていく背中を見つめながら、和真が天寧へと振り向く。
「ありがとう……」
穏やかな口調で、天寧にお礼の言葉を呟く和真、その様子に安心したのか、和真の言葉に天寧は笑顔を返し、春香の後を追うように、天寧も和真から離れるために移動していく。
二人が避難するのを見送り終え、和真は表情を引き締めながらアリスへと向き直す。
「……待たせてしまったな」
「いいヨ、別に? アタシは心の広い女だからネぇ」
捉えようによっては煽りにも聞こえるようなこと言った和真だったが、アリスは特に気にも止めてないような様子で続けていく。
「どの道、アンタを殺しちゃエば、あの癪に障る子たちモ、アタシに殺されルことになるんだから、せめて、最後のお別れぐらいはさせてあげないと、ネぇ?」
言葉を続けていくうちに興奮してきたのか、アリスの言葉は段々と怒気を含むようになっていき、それに合わせられるかのように、目は見開かれて充血させ、息遣いも荒くなっていた。
「それは無理だな」
「ナに?」
和真の言葉に、アリスは更に目を見開いていき、瞳が飛び出そうなほどに和真を凝視していく。
「お前は、俺には勝てない……例え、〝異形〟と一体化したとしても、だ」
「き、キサァァッ!」
馬鹿にする様子はなく、あくまで淡々と言う和真だったが、アリスを憤慨させるには十二分すぎる言葉に、獣の咆哮のような叫び声を上げながら、アリスは和真へと飛びかかっていく。
(許さない……)
アリスは胸中で憎々しげに呟きながら、〝異形〟と化した右腕を大きく振りかぶり、そのまま和真へ目掛けて振り下ろしていく。
まだ〝異形〟と化した体に慣れていないのか、それとも〝異形〟の力による負担が大きいのか、アリスの動きは、和真と比べて非常に緩慢であった。
もっとも、それは〝異能〟の力を持った者から見ての話であり、〝異能〟の力を使えない春香と天寧から見れば、アリスが腕を振り下ろしていく速度を捉えることは出来ない。
だが、和真には、アリスから降り下ろされていく腕の軌道を捉えることは難しいことではなかった。降り下ろされる腕の軌道から、和真は、自身の〝異能〟によって形成されたナイフを右腕で構え受け止めていく。
「っ!」
アリスの腕と和真のナイフが触れ合う瞬間、ナイフから伝わる衝撃を緩和させるために、和真は後方へと大きく跳躍しながらいなしていく、動きが緩慢で見切れるとはいえ、純粋な力勝負では、恐らく和真では勝てないだろう。先程は春香と天寧を庇うために受け止めたが、何度も受け止めていけば、いずれはナイフが耐えられなくなり霧散するか、腕を痛めてしまう可能がある。
負ければ自分の居場所を再び失ってしまうことを恐れるアリスと、負ければ自分の大切な人たちを奪われてしまう怒りを持った和真。理由や形は違え、お互いに負けられない理由を持っていた。
「強い、が……なるほど素人だ」
そんなアリスと和真の様子を日和見していた弘毅が口を開いた。
「純粋に、年月の経過による〝異能〟の成長から来る反射神経と運動能力、後は、これまで培ってきた戦いでの経験といったところか……」
組織とは関係なしに、弘毅は武道の心得を持っていた。本格的に学んでいたというわけではないが、それでも、身のこなしや体捌きの仕方から、どれぐらいの力量を持っているのかを推し量るぐらいの技量は持ち合わせている。
弘毅から見た和真の動きは、決して出鱈目な動きというわけではなかったが、それでも武道の心得の持つ人間の動きには到底及ぶものではない素人のものだった。アリスの動きに合わせて後方に跳躍し、衝撃を緩和させる動きなどは、〝異能〟により強化された反射神経と運動能力、そして、これまで重ねて来た戦いから学んだものなのであろうと、弘毅は和真の動きから分析していた。
「さてさて……どうしたもんかね……」
和真は確かに武道の心得は持っておらず、受け身の基礎なんてものは学んではいない。
だが、それを踏まえた上でも、弘毅の目から見て、和真は強かった。
今でも、弘毅が考えをしていう間にも、和真はアリスの攻撃を最低限の動きで躱していき、アリスの〝異形〟と化した体へと何度もナイフによる攻撃を浴びせていた。
〝異形〟の力により硬質化させた肉体には、大きな傷こそ付けられてはいないが、確実にアリスへとダメージを蓄積させていく。
それに踏まえ、ニメートルは越える巨体を動かすのと、慣れない〝異形〟の力を制御することに相当のエネルギーを消耗させているのか、機敏に動き回る和真に対して、アリスは徐々に息を荒らげていき、動きも鈍くなっていく。
「哀れなもんだ……」
弘毅の目には、まるで、アリスが和真に手球に取られているように見える光景に、思わず呟いてしまった。
醜い〝異形〟の姿になってすら、まったく歯が立たずに翻弄され、アリスの〝異形〟の部分だけを攻撃しているという手加減をされていながらも圧倒されていく姿に、弘毅は、アリスが最も嫌がるであろうことは分かっているが、アリスへ同情の気持ちを禁じ得なかった。そして、その気持ちが湧き上がると同時に、〝異能〟の恐ろしさを再認識していき、冷や汗を垂らしていく。
「ギャッ!」
弘毅がそんな思いを巡らせていると、アリスから叫び声が聞こえてきた。
弘毅が見ると、アリスの右腕に亀裂のような傷跡が出来ていた。まだ完全には〝異形〟と同化していないとはいえ、相応の痛みをアリスは感じているのだろう、思わず亀裂の入った右腕を左腕で押さえながら、辺りを見回していく。
「あ、コウちん!」
アリスは弘毅の姿を見つけると、先ほどまで痛みで歪められた顔を微かに和らげながら、苛立っている様子で弘毅に語りかけていく。
「コウちん、何そんなところでボっとしてんのよ! 早く手伝いニ来なさいよ!」
高圧的な態度で弘毅に支援を催促していくアリスだが、苛立ちが隠せず、慌てている様子も感じられ、高圧的な物言いも、もはや強がりにしか見えなかった。
「二人でやれば、コんなや――」
「悪いが、それは出来んな」
弘毅の言葉に、一瞬、アリスの思考が停止し、言葉をつぐんでしまった。
「な、何ヲ言ってんのよ? こんなときに、そんなつまらない冗談は無しでシょ?」
予想外の返答に言葉を止めてしまったアリスだったが、顔を引きつらせながらも、何とか口を開いて弘毅に問いかけていく。
「冗談ではないんだな……こうなってしまった以上は、どうしようもないんだわ」
アリスの言葉に、淡々と答えていく弘毅だったが、内心では複雑な思いがあり、それを悟られないようにするので精一杯で、とてもアリスを気遣うことにまでは気が回らなかった。
「なんだ?」
アリスと弘毅のやり取りに、和真は、怪訝な表情を見せる。和真だけではない、和真の〝カゲホウシ〟に守られるように避難した春香と天寧も、二人の異様な雰囲気を感じ取り、じっと見つめていた。
「ど、ドうして……? どうして、ソんなことを言うの?」
弘毅の淡々と発せられる言葉に、アリスは、体中の体温が下がっていくような感覚を感じ、まるで、迷子になってしまった子供のように、今にも泣きだしてしまいそうな表情をしていき、口元を震わせていた。
「それはな……オマエが〝異形〟になってしまったからだ……」
淡々とはしているが、微かにトーンの落ちた口調で答えてくる弘毅からは、悔しさの混じった残念そうな空気を醸し出しながら言葉を続けていく。
「俺たちの……〝アムリタ〟の仕事を忘れたわけじゃあるまい?」
「〝アムリタ〟の仕事……」
弘毅から続けられた言葉を聞き、言葉の真意を理解するために、アリスは思考を巡らせていく。
「あっ……」
「天寧?」
弘毅の言葉の意味を最初に理解したのは、意外なことにアリスではなく、天寧だった。完全には理解できなかったが、天寧は、弘毅から〝アムリタ〟という組織について、触り程度ではあるが、最初に出会ったときに聞かされていた。
「っ! ま、まさか、コウちん……?」
天寧に続くように、弘毅の言葉の意味を理解したアリスだったが、血の気が引いていき、興奮によって赤くなっていた顔を青ざめさせていく。
「〝アムリタ〟の仕事……一つは、そこの小僧や嬢ちゃんのような〝異能〟の力を持ったやつらをスカウト、もしくは捕縛すること……んで、もう一つは……」
「っ……!」
死刑宣告にも等しい弘毅から発せられる言葉の続きを聞き入れたくないアリスは、反射的に、身を守るように耳を塞いでいくが、続けられる言葉はしっかりと聞き取れてしまっていた。
「〝異形〟の確認。そして――処理だ」
弘毅の言葉から出た非情の言葉に、場の空気が萎縮していくような感覚を、弘毅も含めて、この場にいる全員が感じていく。
「コウちん……」
「オマエは〝異形〟となってしまった。となると、〝アムリタ〟としては、オマエを処理しなくちゃならない」
耳を塞いでいた手がアリスから離れていく、塞いでいたとはいえ、弘毅の言葉はしっかりと聞こえており、未だに、弘毅の口から発せられた言葉を信じられない面持ちで佇んでいた。
「しょ、処理って……どういうこと? まさか、あの人を……こ、殺すってこと?」
言葉の意味をようやく理解した春香が、動揺から微かに震えていく肩を押さえながら、弘毅とアリスを交互に見てから呟いていく。
「何もそこまでしなくたっていいじゃない! よく分からないけど、あなた達の組織の仲間とかに頼めば、元に戻すことだって出来るんじゃないの?」
焦りを見せながらも、先ほどまで命を奪われそうになったとはいえ、それでも、誰かが死ぬところを見るのは嫌だと、春香は胸中で思いながら、春香は言葉を続けた。
「随分とお人好しの嬢ちゃんだな……出来ればよかったが、それが出来るんだったら、俺も喜んであのバカを連れ戻していただろうさ」
「そんな……」
突き放すような弘毅の言葉に、春香は落胆の表情を見せていた。
「ま、そういうわけさ、予定が狂いに狂ってしまったが……小僧、ここは一旦、共同戦線といこうや?」
「共同戦線だと?」
軽い調子で弘毅が和真に協力を申し込んできたが、軽い調子と、和真にとってあまりにも突拍子もない提案に、訝しげな表情を見せる。
「オマエにとってアイツは敵だろう? だったら、今は利害が一致するってことになるんじゃないか?」
「ふざけるな、お前だって、天寧を傷つけようとしたじゃないか、その上、仲間をあっさり裏切るような奴なんか、信じられるわけないだろう!」
〝カゲホウシ〟を通して状況を把握していた和真からすれば、弘毅がやった行いは許せるはずもなく、弘毅の提案に対して、怒気を帯びた声で拒否の言葉を投げつけていく。
「それに……俺はまだ諦めていな――!」
和真が言葉を続けようとしていくが、咄嗟に何らかの異変をアリスから感じ、ナイフを身構えなおしていく。
「許さナい……」
怒りか悲しみか、あるいは両方か、少なくとも激しい感情から、アリスの体は激しく震えていた。
興奮により脈が早くなっているのか、遠目からでも血管が先程よりも太く膨れ上がり、今にも破裂しそうになっているのが確認できる。
「アタシを……アタシを否定するものはみんな……」
アリスの体が震え続けていくと、大きな脈動がアリスの右腕から鳴らされる。
「みんな……ミんな死んじゃエぇッ!」
「うっ!」
「きゃっ!」
アリスの叫び声が木霊すると同時に、アリスの体から激しい衝撃が発せられ、衝撃と、それによって生じた土煙から身を守るために、その場に居た全員が、顔や体を腕や手で覆ったりしていく。
「…………」
程なくして衝撃は治まり、同時に生じていた土煙も晴れていく。
「……っ!」
視界が鮮明になっていくと、その異変に最初に気づいたのは和真だった。
「くっ……!」
そこには、先程まで体を震わせていたアリスの姿はなく、和真の視線の先に居たのは、もはや、顔の左側が僅かしか残っておらず、それ以外の部分が、すべて異形の怪物へと姿を変貌させていたアリスだった――。
「ん、フフフフ」
アリスが含んだ笑いをしていき、和真は構えを解かずに、じっと見つめていく。
「サぁ……第三ラウンドの開始ヨ!」
「なっ!」
刹那――。
アリスが言葉を発した瞬間、その巨体が姿を消したかと思うと、瞬きが終わるよりも素早く、アリスの右腕が和真の腹部にめり込んでいた。
「が……はっ!」
和真の腹部をすさまじい衝撃が走り、肺からこみ上げてきた空気が口から漏れ出す。
腹部への衝撃により目は見開かれ、口を開けたままの和真の姿に、アリスはにやりとした歪んだ笑みを浮かべ、右眼があったと思われる箇所に出現した巨大な瞳を不気味に向けると、和真へ叩き込んだ右腕を瞬時に引き戻し、僅かに宙に浮いた姿勢になっている和真へ目掛けて、アリスは、自分の体を素早く捻り、間髪を入れずに回し蹴りによる追撃を繰り出していく。
「ぐあぁっ!」
宙にわずかに浮いたほぼ無防備な状態で、アリスから放たれた回し蹴りを叩きこまれた和真の体は、すさまじい勢いでで洞窟の壁へと叩きつけられ、爆音のような音を出しながら、和真の体を壁にめり込ませていく。
「和真さん!」
「和真!」
咄嗟に起きた出来事に、天寧と春香の思考は停止し唖然としてしまったが、壁から発せられた爆音で我に返ると、和真の名前を呼びながら、彼の傍へと駆け寄っていく。
「うふ……ア、ハハハッ!」
湧き上がってくる力への高揚感、先ほどまで自分を圧倒していた存在へ一矢報いたことによる達成感、快楽にも似た充足感をアリスは感じていた。
「スゴイよぉ……力が、力が沸キ上がっテクル。何て、小心地いいノ――」
〝異形〟となったことによるものなのか、それとも、元から自分の身の内にあったものか、アリスは、この満たされていく感覚の正体が理解出来なかった、しかし、もはや今のアリスにとって、そんなことは微々たることでしかなく、興奮と高揚により顔を上気させ、目は見開き血走らせ、歪んだ笑みのまま、〝異形〟の力に魅入られてしまっていた。
「最初から、こうシテいればよかっタンダァ……そうすれば、何も怯エルコトナク、アタシが、〝アタシ〟で居らレタンダ!」
まるで獣の雄叫びのように喋っていくアリスからは、狂気と歓喜の双方を感じられた。
「和真! 和真ぁっ!」
「和真さん、しっかり……和真さんっ――」
アリスが興奮して喋っている間に、天寧と春香は和真の傍へと駆け寄り、彼の名前を何度も呼びかけていく。
『……てよ……』
「えっ……?」
春香と共に、天寧が和真の名前を呼んでいくと、何処からともなく声が聞こえ、天寧は辺りを見渡した。
「天寧?」
『アタシの話を、聞いてよぉ……』
天寧の仕草に、春香は不思議に思い顔を向けるが、天寧が感じた声は、天寧にしか聞こえていなかった。誰かが喋っているようなものではなく、直接、自分の頭の中に、響いてくるように天寧は感じていた。
『ちゃんとアタシを見てよ……』
天寧に聞こえたその声は、とてもか細く、悲しみを溜めた、今にも消え去ってしまいそうなほどに、寂しそうな声であった。
『どうして、どうして……』
〝どうして……〟と聞こえた声を最後に、天寧が感じていた声は消えてしまったが、その声の雰囲気に天寧は覚えがあった。
天寧は、先ほど頭の中に響いてきた言葉に、弘毅の言葉に対して向けられたアリスの表情が、天寧の脳裏で重なって感じていた。
「あの人、泣いています……」
「え?」
天寧から呟かれた言葉に、春香は天寧に視線を向けていく。
「声が、聞こえたのです……あの人の声が、まるで……まるで迷子になってしまった子供のような、そんな、声が……」
決して確証があったわけではない、しかし、頭の中に響いてきた声とアリスの表情を重ねてしまい、天寧の胸中は、そう思えてならなかったのである。
「で、でも――」
「俺は……、天寧さんの言葉を信じる……」
天寧の言葉に、春香が戸惑いの言葉を掛けようとしたが、春香の言葉に割り込むように、和真が口を開いた。
「和真、だ、大丈夫?」
和真が口を開いたことに微かに安堵を感じながら、春香が彼の傍へと駆け寄る。
「ああ、体中がかなり痛むけど、何とか大丈夫だよ。それより、天寧さん、さっき言ったことを、詳しく聞かせて欲しい」
口の中を切ったことにより、多少の出血はしていたが、出血の量から内臓器官などは傷ついていないことを確認した和真は、春香へ微笑みを向けて、ひとまずは無事なことを伝えながら、壁から体を引きずり出していくと、天寧が先ほど呟いた言葉の真意を知るために問いかけた。
「どうしてなのかは、私にもよくは分かりません、ですが、あの人から聞こえてきたのです。とても、とても悲しい声で……」
それだけ言い終えると、天寧は軽く握り拳を作り胸に当て、ほんのわずかな間だけ目を瞑ってから開いていくと、ある決意を胸に抱きながら、和真へと顔を向ける。
「和真さん、お願いが、あるのです」
決心を抱いた強い表情、純粋過ぎるとも言えるその真っ直ぐな瞳と表情に、和真は、自然と頷いていた。




