羽化―うか―
「やだ、静かだと思ったらまた寝てたの!?」
夏休み最後の日、わたしの至福のまどろみの時間を打ち破ったのは、突然部屋に入ってきたお母さんの金切り声だった。
「……あれ、もう夕方だ」
わたしが枕にしていたクッションから顔を上げると、お母さんはその間にずかずかと部屋に入り込んできて、ここ数日面倒で閉じっぱなしにしていたカーテンを開けていた。窓の外から夕日が差し込み、セピア色の世界が部屋の中まで侵食してくる。どうせすぐ夜になるんだから、そのままで全然良かったのに。
「もう夕方、じゃないわよ。あんたったら夏休みの間、毎日のようにだらだらだらだら、浮いた話のひとつも出てこない。せっかくそれなりに可愛く産んであげたのに。試験だって来月でしょ? そんなので大丈夫なの?」
ぶちぶちと小言を言いながら、お母さんはその辺に投げ捨てられていた洗濯物を拾っている。わたしは口の端のよだれをぬぐってから、そんなお母さんの背中を見上げた。
「……おかーさん」
「なによ」
「最近、しわ増えたんじゃない? 目元とか口元とか、怒りじわ」
言って頬を両側からぐにゃっと押しつぶした変顔を披露すると、お母さんの顔が窓から差し込む西日の中でもはっきりわかるほどに真っ赤になる。
「あんたのせいでしょ!」
目を三角にしたお母さんの雷から逃げ出すように、「ちょっと散歩」わたしは部屋を飛び出して大急ぎで階段を駆け下りると、そのまま玄関でビーチサンダルをひっかけた。
玄関ドアを開けるとすぐに、昼のなごりのむっと熱い空気が肌に触れる。
同時に、誰かの話し声が耳をついた。キンと高い女の声と、対照的に少しぶっきらぼうな男の声。
「……おおっと」
わたしはそれで、瞬時に状況を把握した。バーンと開け放ちかけたドアを慌てて引っ張り戻す。わずかに残した隙間から外の様子を伺えば、果たしてそこには思った通りの光景が広がっていた。
ドアの隙間から覗き見えるのは、お隣さんの門の前で話し込む一組の男女の姿。
時々女の明るい笑い声が挟まるその会話を、わたしは一言一句逃さずに盗み聞きした。
「ねえ、正真」
「……何?」
「ううん、なんでもない。それじゃ、また明日、学校でね」
やがて話が一段落すると、二人はそう約束して解散する。送るよという男の申し出を、まだ早い時間だからと断った女が何度も振り返って手を振り、男はその姿が次の角の向こうに消えるまで見送った。
それから彼は一つため息を吐き、
「羽夏」
こちらに背中を向けたまま、呆れたような声音でわたしの名前を呼んだ。
「あー、バレてたかー。正真くんって、こういうところだけは鋭いよねえ」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ、それ。……って、何だ、その格好?」
玄関ドアの影から家の前の歩道にのこのこ現れるわたしの姿に、彼――正真くんは男らしく目鼻立ちの整った顔に深いしわを寄せて難しい顔をする。
その表情に気づいたわたしも、改めて自分の格好を見下ろした。
得体のしれないキャラクターのプリントがついたTシャツに、くたびれたデニムのショートパンツ。長い髪は髪ゴムでぐるぐるまとめて後ろ頭で緩いお団子にしている。
あ、でも、せめてブラはしておいてよかった。それは女子としてさすがに、ね?
「年頃なんだから、外に出るときはもうちょっと格好考えろよ。っていうか、昔はもっとちゃんとしてただろう?」
「あー、学校行くときはもうちょっとちゃんとしてるよ。夏休みだから、テキトーテキトー」
わたしがへらへら笑って見せると、向かい合った正真くんはますます難しい顔になった。
「……羽夏はさ、普通に可愛いんだから」
少しためらうような間を置いてからそう言って、正真くんは彼より顔ひとつ分背が低いわたしの頭を軽くぽんぽんと叩く。その様子はまさしく年下の幼なじみをたしなめるという感じで、さしものわたしもムッとした。
「あー、彼女以外の女の子にそういうこと言っちゃいますか。やめなよー? 女の子って、そういうの嫌がる子多いから」
へらへらした態度を崩したつもりはなかったが、言葉に隠した棘は正真くんにきっちり刺さったらしい。彼もまたムッとして言う。
「年上に、そういう口聞くんじゃない」
「だって本当のことだし」
わたしが頑なに突っぱねると、「……女って、わからん」正真くんは顔をしかめてぼやいた。
二人の会話は、そこで一度途切れる。
正真くんとわたしは、幼なじみだ。生まれた時から家が隣同士で、ずっと一緒に育ってきた。
でも、正真くんは大人になった。
すらっと背が伸びて、声も低くなった。名は体を表すと言うべきか、昔から正しく真面目な優等生だった彼は、両親の望み通り地元で一番の難関である国立大学にストレートで合格して、今は二年生。学校では経済を学んでいる。さっきの女の子は大学に入ってからできた通算二人目の彼女。高校の時に付き合っていた子はわたしも知っている子だったけど、高三の秋に受験に集中するためという建前で別れた。
今の彼女は県外からこっちの大学に来ている人らしく、彼女の影響か、最近の正真くんの言葉にはわたしの知らない方言が交じる。
そうやって、彼はわたしの知らない場所に羽ばたいていってしまうのだ。
そんなことを考えていたからだろうか。その時ふと、あるものに目が止まった。
「あれ、これ、セミかな?」
ただし、セミと言ってもあのミンミンやかましい成虫ではない。幼虫だかさなぎだか、そういう未発達な状態で、茹で上げられたエビのようにくるりと丸まったまま、歩道の脇、細い街路樹の幹に止まって動かない。
「……生きてるの、これ?」
わたしが指差して尋ねると、正真くんも肩をすくめる。
「さあな。でも、だいぶ前からずっとそこに張り付いてる」
「あ、そりゃダメだ」
わたしは思わず天を仰いだ。完全にご臨終である。
「あーあ、かわいそうだねー。蝉ってさ、何年も土の中で暮らしてるものなんでしょ? 地上に出てくるのは、人生最後のほんの短い時間だけでさ。でもこのセミは、暗い土の中で不安や恐怖に耐えるばっかりで、結局いい思いをする前に死んじゃったわけだ」
わたしはそこで一度言葉を切り、
「まあでも、そういうことって、あるよね」
そう言ってまたへらへらと笑うわたしに、正真くんはやっぱり、難しい顔をする。
正真くんとはその後、少しだけ言葉を交わして別れた。
わたしは家に戻るとまだ鬼のツノをしまいきっていないお母さんと、仕事から帰ってきたお父さんと、家族三人でいつもどおりの夕食を摂る。それからお風呂に入って、ベッドで携帯をいじりながら眠くなるまでごろごろした。夏休みの宿題はなに一つ手をつけていないけど、提出日まではまだ期限があるから、まあ、なんとかなるでしょう。
そうこうしているうちにわたしは眠ってしまい、そして気がつくと朝が来ていた。
昨日カーテンを閉め忘れた窓から朝の明るい光が差し込んでくる。忌々しい二学期の始業式の朝だ。
わたしはしぶしぶベッドから這い出ると、一月半ぶりの制服に袖を通して学校に行くための身支度を始める。伸ばしているというよりは伸びっぱなしの長い髪をコテでそれなりにまとめ、目元と唇にだけ薄く化粧をする。
高校一年生にもなれば、みんなすっかり色気づいている。だからせめて見た目だけは周りから浮かないように、わたしだって最低限それくらいはする。
でも、他の子みたいに朝からフルメイクって気持ちには、到底なれなかった。
だからこそ、その朝、夏休み明けの気だるさの満ち溢れる教室に山田さんが姿を現した時、わたしは正直どきりとした。
一学期までの山田さんは、冴えない印象の女子生徒だった。ぽっちゃりとした体型で、頬にお肉のついた丸顔は、お化粧どころか、最低限のお手入れさえされていない。ぼさぼさの黒髪をいつも後ろでひっつめて、おしゃれなんてこれっぽっちもキョウミない感じ。
けれど夏休みの間に、山田さんはがらりと印象が変わっていた。ぼさぼさだった髪は女の子らしい巻き髪になっており、明るいカラーが入っている。顔立ちもすっかりほっそりとしてしまっていて、その顔にはティーン向けの雑誌で紹介されているみたいな手の込んだメイクが施されていた。
未成熟なさなぎの殻を脱ぎ捨て、美しい成体を現したようなその姿には、はっきりとした努力の跡がにじんでいる。
試験のためだと、わたしは咄嗟に気づいていた。
そしてそれは他のクラスメイトたちも同じらしく、彼女に横目をくれながらなにやらこそこそと囁き合ったり、大して親しくもないはずの山田さん本人の元に押しかけてわいわい騒いだりしている。
わたしはそんな教室のどよめきを一人、教室の隅にある自分の席で見ていた。
山田さんとわたしは、あくまでただのクラスメイトだ。友達と言えるような関係では決してないし、なんなら言葉を交わしたことだって、ほんの二、三度あるかどうか。
ただ、ここ何年かはずっと同じクラスに所属しており、クラスの中で、わたしたちはずっと似たり寄ったりの立ち位置だった。
……でもきっと、それも今年で終わり。
ぼんやりとそんなことを考えながら、わたしは手元の文庫本に目を落とし、文章を読んでいるというよりは文字を目で追っているだけの読書を再開した。
わたしはその日一日、一学期までと同じようにぼんやりと学校生活をやり過ごし、帰りのホームルーム終了と同時に教室を出た。寄り道せずに家に帰り着くと、なにやらごちゃごちゃと小言をぶつけてくるお母さんを適当にいなし、自室に戻って倒れこむようにベッドに身を沈める。
そのまま眠りに落ちていくわたしは夢を見ていた。
夢の中で、「普通に可愛い」わたしには彼氏がいる。今より少し背の高いわたしは、甘ったるいふんわりとした服装に、ばっちりと男子ウケの良いメイクをして、指を絡めた男の子の隣で幸せそうに微笑んでいた。
そのわたしはきっと、「試験」に合格したのだろう。人並みの努力を人並みにして、人並みの幸せを享受している。
けれど、見上げた隣の男の子の顔は、やっぱり正真くんではないのだ。
なんだよもー。夢の中でくらい、夢を見せてくれたっていいのに。
「――か! 羽夏! また寝てるの? 夜ご飯食べちゃいなさい!」
「……ふぁーい」
まどろみを打ち破るお母さんの声で飛び起き、わたしは駆け足で階下へ向かう。
食卓にはすでに仕事から帰ってきていたお父さんの姿があり、すぐにいつもどおり家族三人の夕食が始まった。寝ぼけまなこのままおかずを頬張っていると、わたしはふと、あることに気づいて箸を止める。
「あれ、お父さん、風邪?」
食卓テーブルの斜め向かいに座るお父さんの席には、おかずがいくつか並ぶわたしやお母さんの席とは違って、おかゆが盛られた茶碗と、ささやかな漬物の入った小皿しか置かれていない。
「ああ、お父さん、もうすぐ試験でしょ?」
お母さんがあくまでなんでもない顔をして言った。
「……え?」
「四十五歳の試験は、『病気を乗り越える』ことだもの。症状が出始めてるのか、最近食欲がないんですって」
お母さんの解説に、お父さんが苦笑気味に頷く。言われてみればその頬はやややつれ気味で、顔色も悪い。
試験――それはわたしたち人類に平等に課せられた義務だ。
それが始まったのは、今から八十年ほど前のこと。その頃、先進国では前世紀から続く少子高齢化の流れに歯止めがかからず、国際社会は機能不全に陥りかけていた。
そんな折に開発されたのが、人体の「テロメア」という部位を自由に操作する技術だった。テロメアは染色体の先端に位置し、生物の寿命に深く関係するものだ。これを自由に操作することによって、人類は不老不死さえも実現することができる。
しかし、少子高齢化が進み、それに伴う不自然な社会構成に長い間苦しめられてきた人類が選択したのは、不老不死という特性をもつ新たな生物に生まれ変わることではなく、人間という生物が本来持つ正しいサイクルを守る道だった。
そのために導入されたシステムが「試験」だ。
人間がこの後の世界でも「人間」として本来のありかたを外れることのないように。
社会を構成する人々の年齢層が、正しい形のピラミッドを描くように。
人々にはその年齢相応の試験という名の義務が課せられるようになり、その結果如何によってテロメアの操作――加齢が行われるようになった。試験に合格できない限り歳を取ることはできず、また試験に躓く者は社会的に未成熟とみなされる。
その決定はすぐに国際会議で批准され、「試験」システムを施行するためのナノマシンの埋め込みが原則全人類に義務付けされた。
そんなこと、この世界では小学生だって理解していることだ。前世代の人間たちが、過去の失敗を活かし、よりよい未来を構築するべく決断した、賞賛すべき尊いシステム。
けれど、さっきまでの夢のせいか、わたしは異様にいらいらしていた。怒りのような、焦りのような、名前もわからない感情に突き動かされるままお母さんに食い下がる。
「で、でも、それって本当に大丈夫なの? 病院とか行ったほうがいいんじゃ……」
「行くわよ。時期が来たら国から案内が来るから、その時にね。平気よ。指定病院に一ヶ月間入院をして、決まった治療を受ければすぐによくなるわ。そういう試験なんだもの。そうやって試験に合格すれば、また一つ歳を取れるし、お父さんの会社での評価も上がる。まだ体力のあるうちに病気をしておけば、その後の人生観に深みが出るって言うしね」
「でもっ、やっぱり変だよ、そんなのって!」
淡々と告げるお母さんに、わたしはとうとうやりきれずに叫んだ。すると、おかあさんは箸を置いて、まっすぐわたしを見る。
お母さんは聞き分けのない小さな子供を諭すみたいに、噛んで含めるように言った。
「……羽夏、あんたの言い分はわかる。でもね、この社会で生きていくためには受け入れなきゃならないことなの。あんたの試験だってそう。十六歳になるための試験は難しいでしょう? 相手のあることだからね。だけど、いつかは乗り越えなきゃいけない。試験の不合格が長く続けば、国の施設で矯正を受けなければならなくなるし、お父さんもお母さんも、七十五歳の試験が終われば、天寿を全うして死ぬことになる。いつまでもあんたの側にはいてあげられないのよ。
――だからね、羽夏、あんたももういい加減、大人になりなさい」
「……わかってるよ……!」
わかってる。そんなことわかってる。
自分の気持ちに折り合いをつけて、ちゃんと大人にならなきゃいけないことなんて、わたしが一番わかってる。
「――羽夏!」
だけどわたしは、悲鳴のようなお母さんの声を振り切り、家を飛び出した。
玄関から外に出ると、空にはまだオレンジ色が残っているものの、肌に触れる風はひやりと冷たい。
夏はもう、終わるのだ。
「羽夏?」
突然名前を呼ばれて、わたしはびくりと身をすくめる。しかもその声は背後の玄関ドアの中からではなく、わたしの前方、お隣さんの門の前からこちらに向けられたものだ。
「正真くん……」
そこに立ち尽くしていた青年の姿に、わたしは絶望的な気持ちになった。
だって彼は今、わたしの一番会いたくない相手だから。
けれど、今更食卓にも戻れないわたしは、しぶしぶ正真くんの方へ近寄っていく。そうやって正真くんと向き合って初めて、彼がひどく驚いたような顔をしていることに気がついた。慌てて目元をぐしゃぐしゃと拭ったが、どうやらもう遅かったらしい。
「どうしたんだ、その顔?」
「……試験のことで、親とちょっと」
わたしが観念したような気持ちで白状すると、正真くんは案の定渋い顔になって言った。
「おじさんもおばさんも、お前のことを心配してるんだ。少しは親の気持ちも考えてやれ」
……わかってる。わかってるよ。そんなこと。
でもそれは、正真くんにだけは言われたくなかったなあ!
怒りとやるせなさが入り混じって、頭の中が真っ白になる。いつものへらへら笑いを取り繕う余裕もなく、わたしは低い声で唸った。
「やめてよ、大人ぶるの。わたしたち、もともとは同い年だったんだから」
「でも今は、俺が年上だ」
そう、わたしたちはもともと、同い年の幼なじみだった。けれど、わたしが十六歳の「試験」に躓き続けている間に、正真くんはわたしを置きざりにして、どんどん大人になってしまった。
そしてその大きく開いた距離は、もう決して埋まることはないのだろう。
「なあ、羽夏。試験のこと、もうちょっと真剣に考えたらどうだ? 羽夏はさ、普通にかわいいんだ。だから、努力すればいくらでも……」
正真くんがやっぱり大人ぶって正論を説く。それを遮って、わたしは叫んだ。
「できないよ! わたしにはできない! 試験だからって割りきって、無理やり好きな人を作って付き合うなんて、できないっ!」
人類が十六歳になるために与えられた試験の内容は、「恋人を作る」こと。
でもその試験は、わたしには難しすぎだ。
「……だってわたしは、正真くんが好きだったんだもん!」
わたしは、正真くんが好きだった。子供のころから、ずっとずっと。土の中で羽化の時を待つように、じっと恋心を募らせてきた。
「だから……可愛い服だって、綺麗なお化粧だって、正真くんのためじゃないなら、意味ない!」
「っ……!」
わたしが思わずこぼした本音に、正真くんは一度息を呑み、
「……なんだよ、それっ!」
そして、はっきりと激高した。
「俺だって、お前が好きだった! 『恋人』としてたった一人選ぶなら、お前じゃなきゃ嫌だった。だから十六歳の試験でお前に告白したんだ。なのに、お前は煮え切らない返事ばっかりで……お前には、他に好きな奴がいるんだと思った。クソ、なんで今さら。俺がどんな気持ちでお前を諦めたと思って……」
激情をやり過ごすように頭を掻きむしる正真くんに、わたしは溢れ出しそうになる涙をぐっと堪えて告げる。
「だって、いやだったの……。初めてを正真くん以外の人とするのも、正真くんのことを嫌いになれないのに二年後に別れなきゃいけないのも、いやだったの!」
十六歳の試験で結ばれた恋人とは、十七歳の試験で初めて身体を重ねる。そうやって少年少女は恋を知り、性を知り、愛を知る。
そうしてあらゆる経験を共にした初めての恋人とは、十八歳の試験で別れるのだ。
なんでも、生涯で恋人の関係になる異性がたった一人では、人生観に深みが出ないからだとか。
切ない別れを経験し、貴重な人生経験を積んだ少年少女は、十九歳の試験で二人目の恋人を作り、のちに人生の伴侶となるその異性と、また新たな関係を築いていく。
「ねえ、正真くんはどうして、二年後に別れなきゃいけない最初の恋人にわたしを選ぼうとしたの? こんな難しいこと、どうやって決断したの? わたしにはわからないよ。なにが正解なのか、どうすることが一番幸福なのか、五年経ってもまだわからない」
そうやって正真くんを見上げると、彼はもう一度頭を掻き、吐き捨てるように言った。
「……くそ、女って、なんだってこう……」
それからわたしの視線から逃げるように顔を伏せ、告げる。
「仕方ないだろ。この世界は、そういう風になってるんだ。真っ当に生きていくためには、周りに合わせて諦めなきゃいけないこともある。
だから、羽夏。お前も大人になれよ。――俺がお前を幸せにしてやれないなら、せめてお前は、幸せになってくれよ……!」
「正真くん……」
懇願するようなその声音に、わたしはそれきり言葉を返すことができなかった。その代わりに堪え切れなくなった涙がぼろぼろと溢れだす。正真くんはそんなわたしをしばらくなにも言わずに眺めていたが、
「……お前ももう家入れ。風邪引く」
震えた声で精一杯大人ぶってそう言うと、子供にするみたいにわたしの頭をぽんぽんと軽く叩く。
そんな仕草が悔しくて苦しくて、そのまま正真くんが逃げるように家の扉の向こうに消えていってからも、わたしはそこから一歩も動くことができなかった。
夏の終わりの冷たい風が、びゅうとわたしに吹き付ける。
歩道の脇に植えられた細い街路樹の幹に、あのセミの姿がないことに気づいたのは、ちょうどその時だった。
あの死に体のようだったセミは、どこへいってしまったのだろう。ともすれば奇跡的に羽化を終え、大人になってどこかに飛んで行くことができたのだろうか。
それとも――
それからの数日間、わたしはうわべこそは今までどおりの日々を送っていた。目元と口元だけの簡単なメイクで登校し、学校生活をなにげなくやりすごしては、家に帰ってきてお母さんの小言をへらへらと受け流す。
けれど、わたしの内面では、あの日以来、確かに葛藤が生まれていた。
やっぱり、わたしはこのままではいけないのだろう。両親のためにも、そしてなにより自分のためにも。そんなこと、わたしだってちゃんとわかっている。
だがそれでも、わたしにできることは相変わらず、生きているのか死んでいるのかさえもわからないまま、何一つ答えを出さずに済む、止まった時間にしがみついていることだけだった。
「やだ、静かだと思ったらまた寝てたの!?」
二学期最初の週末、眠りの世界に逃げ込むわたしのまどろみを打ち破ったのは、突然部屋に入ってきたお母さんの金切り声だった。
「……あれ、もう夕方だ」
わたしが枕にしていたクッションから顔を上げると、お母さんはその間にずかずかと部屋に入り込んできて、ここ数日億劫で閉じっぱなしにしていたカーテンを開けていた。
「もう夕方、じゃないわよ。あんたったら夏休みが開けても、あいも変わらずだらだらだらだら。試験は今年もダメなの? ……もう、そろそろお父さんとお母さんのこと、安心させてよね」
お母さんはそこまで一息でまくしたて、ふとなにかに気づいたように動きを止めた。お母さんが見ているのはカーテンの開け放たれた窓の外の景色だ。外に誰かいるのだろうか?
「そう言えば、羽夏、聞いた?」
お母さんはわたしに向かい、人目を憚るように声を潜めて切り出した。
「……んー、なにを?」
「正真くん、彼女に振られたんだって」
「……はあ!?」
突然の爆弾発言。わたしは思わず飛び起きた。
「なんで!?」
「まあ、お母さんもよく知らないんだけど、彼女の方から一方的に別れ話を切り出されたとかなんとか。……ほんっと、最近の若い子ったら、将来のことを真剣に考えてないのかしら? 今年の試験、困っちゃうわねえ。正真くん、誕生日十月だもの」
正真くんはしっかりしてるのに、災難ねえ。そう言うお母さんの口調には、「試験」に躓くのが自分の娘だけではなくなって安堵するような、隠し切れない喜びが滲んでいた。
わたしは、自分のせいでお母さんにそんな醜い感情を抱かせてしまったことをやるせなく思う。
けれどわたしは、そんなお母さんを詰ったり軽蔑したりすることはできなかった。
だってその時のわたしの心は、それよりももっと醜い衝動で満たされていたから。
「――あ、ちょっと、どうしたの羽夏!?」
お母さんの驚いたような叫び声を背に、わたしは階段を駆け下りて玄関に向かった。
「正真くん!」
サンダルを引っ掛けて玄関ドアを勢い良く開け放つと、果たしてそこにはお母さんが窓から様子を伺っていたらしい青年の姿がある。
「羽夏!?」
ちょうど外出先から帰宅したところらしい正真くんは、玄関から飛び出してきたわたしを見て、心底気まずそうな顔をする。わたしはそんな彼の表情などお構いなしで尋ねた。
「ねえ、彼女と別れたって、本当?」
彼はど真ん中に直球を投げ込むわたしから咄嗟に視線をそらし、やがて観念したように白状した。
「……本当だよ。振られた。『周りに合わせることばっかり必死で、私のことを見てくれない』だってさ。全く、女って、わからん」
正真くんがばりばりと頭を掻く。わたしはそんな彼の側まで寄って行き、嘯いた。
「二十歳の試験は、えーと、『今の恋人を人生の伴侶と確信する』だっけ。……あー、困ったねー。正真くん、誕生日来月なのに」
「……うるさい」
つっけんどんに突っぱねる正真くんは近頃の大人びた様子と違い、まるで小さな子供のようで、なんだかかわいかった。
だからわたしは、意を決して言ったんだ。
「じゃあさ、わたしが正真くんの彼女になってあげるよ」
「……は?」
正真くんがきょとんとわたしを見下ろす。わたしはドキドキとやかましい心臓の音に負けないように続けた。
「それで今回の試験は合格できるでしょ。そうすれば、周りに合わせることばっかり必死な正真くんの面子も守られるしね。……それとも、正真くんは、わたしじゃダメかな?」
「いや、ダメとかダメじゃないとか、そういう話じゃないだろ!? だって、お前にはお前の試験があって、だから……」
「あー、確かに今はそれでよくても、わたしが十八歳の試験に合格するためには、わたしは二年後に正真くんと別れなきゃだね」
わたしが口にするのは、悪魔のささやきだ。わたしは正真くんの助けになるふりをして、その実わたしの欲望を叶えようとしている。
醜いわたしの、醜い衝動。
――けれどこれが、ずっとなりたかった、本当のわたし。
「あのね、やっぱりわたし、『恋人』としてたった一人選ぶなら、正真くんじゃなきゃいや。だから、正真くんがわたしを受け入れてくれたら、わたしは正真くんのためにいつも可愛い服を着て、毎日綺麗にお化粧をする。それがたったの二年間で終わる日々だとしても、わたしは正真くんを愛して愛して愛し尽くす。
――でもね、そうしたら正真くんもきっと、わたしと別れたくなくなると思う。わたしはあなたに、必ずそんな風に思わせてみせる」
だからわたしは、そんな自分の本性を覆い隠していた殻を脱ぎ捨てることにした。殻から這い出した成体は、正しくも美しくもないかもしれないが、それでも殻の中で死んでいくよりはよっぽどいい。
「ねえ、正真くん。わたしがあなたの心を動かしたその時は、その正しく真面目な優等生の殻を脱ぎ捨てて、わたしと一緒に、人間辞めてくれる?」
わたしがにやっと笑うと、
「……女って、わからん」
正真くんはそう言って、諦念じみたため息を吐いた。(了)