運命の君、出会いはちいさな部屋のなか<後>
目の前の少女はゆるやかに身体を起こし、きょろきょろと辺りを見て、そして再び私へと視線を向けると、こてん、と首を傾げ。
「えっと……ここは、どこなんですか?」
どこか不安そうな、困ったような声音で、私に尋ねてくる。
動いていても喋っていても、どこか浮世離れした目の前の彼女に、何度も見惚れて言葉を失いそうになりながらも、私は、彼女に状況を説明した。
ここは自分の部屋で、あなたはこの部屋の前で気を失っていたこと。
傷だらけで放っておけなくて、自分の部屋に連れ込んで手当したこと。
今の今まで目を覚まさなくて、とても心配したこと。
そんな私の説明を、彼女はどこか、ぼんやりとした様子で聞いていた。
まるで自分の話ではない、他人の話を聞いているかのような、そんな様子で。
自分がどうしてこうなっているのか分からないと、そう、言いたげな様子で。
その姿にどこか違和感を覚えた私は、
「あの、あなたはどうして、あんなに傷だらけになって、私の部屋に倒れていたの?」
そんな私の問いに、彼女はますます困ったように表情をゆがめて、そして、少し言いづらそうに、言葉を吐き出した。
「……ごめんなさい。ぼく、なんにも分からないの」
**
「ぼくの名前はね、『日奈』っていうの。でも、それ以外のことは、全然、分からないんだ」
先程の発言を皮切りに、彼女のー日奈の口からこぼれた言葉に、私は言葉を失った。
いわゆる、記憶喪失というものなのだろう。物語の世界ではよく目にするものだが、まさか自分が、そんなものとかかわり合いになるなどとは夢にも思わず、呆然と、彼女を見つめてしまう。
赤紫と青。宝石のように綺麗な瞳は、相変わらず見惚れてしまうほど綺麗で、でも、どこか不安そうに揺れていた。
不安そうに揺らぐ彼女の瞳を見つめて、不安になるのも当たり前だろうな、とぼんやり考える。
分かるのは自分の名前のみ。そんな状況で、さらに、知らない人間とふたりきり。冷静に考えて、不安になるなと言う方が無理な話なのだ。
さてどうしよう、と。そう思った瞬間。
ぐぅぅぅーー
気の抜けるような音がして、日奈の頬がぶわり、と真っ赤に染まる。先程の音は彼女のお腹が空腹を訴えた結果らしい。
夜も遅いし、今の今までなにも口にしていないのなら、確かに、お腹も空くだろう。そう思った私は、自分の夕飯のついでに作った卵粥を用意しようと、キッチンへ向かう。
と、突然立ち上がった私に、困惑したような視線を向けてくる彼女の気配を感じ、振り向けば、思った通りに、不安そうに私を見つめてくる2色の瞳と視線がぶつかった。
じっと私の瞳を見つめる目の前の彼女を安心させたくて、私はにこりと、めったに浮かべることのない笑顔を浮かべて、
「お腹空いたんでしょう?お粥、作ってたんです。食べれそうですか?」
彼女にそう問いかければ、こくり、と控えめに頷く。相変わらず不安そうではあったが、それでも、自分が作ったものを彼女が食べてくれることが何故か嬉しくて。
キッチンへと向かう足取りは、どこか軽やかな気がした。
**
「お、おいひい……」
もぐもぐと、小動物のようにお粥を食べる日奈に安心しつつもかわいいな、なんて感想を抱きつつ、美味しいと言われたことは素直に嬉しくて自然と頬が緩む。自分が作ったものを褒めてもらえることほど、嬉しいものはない。
そうこうしているうちに、目の前の彼女はお粥を完食したらしい。満面の笑顔で食器をこちらに差し出しつつ、
「ごちそうさま!おいしかったよ!!」
なんて明るい声音でお礼を言う。ここにきて初めて聞くような声音。この状況にも慣れ、本来の彼女の調子に戻ってきたのだろう。その様子は、彼女が小柄なことも相まって、とても愛らしい。
そんな彼女の笑顔につられて、私も笑顔で返事をしてしまう。
「お粗末さまでした。それだけ食べられるようなら、体調は大丈夫そうですね」
「うん!ちょっと身体は痛いけど、あとはとくに変だなってところもないよ!本当にありがとう!」
そう言いつつ、ごそごそとベッドを抜け出す日奈。
突然の行動にえっ、と驚きつつも、ベッドを降り、部屋の出口に向かおうとする彼女の腕を掴んで、
「えっ、ちょ、どこに行くんですか?いくら体調がいいって言っても、あなた怪我人なんですよ?おとなしくしててください!」
慌てて叫ぶように引き止める。慌てすぎてどこか怒ったような声音になってしまったが、彼女は怖がってはいないようだった。むしろなぜ引き止めるのか分からないといった様子で、こちらをじっと見つめている。
このままでは彼女はそのままどこかに行ってしまう。彼女がここを出てしまえば、もう、きっと、彼女と出会う事は叶わないだろう。
それが、どうしても嫌だった。
でも確かに、彼女がこの場所に留まっておく理由もないのだ。怪我を理由にしたとしても、今の彼女の様子を見るに、怪我が治ったらすぐさま私のところからいなくなってしまうに違いない。
記憶喪失だから?なんてそんな理由も、彼女には笑って跳ね除けられてしまうんだろうという予感がしていた。この状況でまたどこかに行こうとしているあたり、それなりに思考能力が働き始めた様子の彼女にとっては、大した問題ではないみたいだし。
そんな彼女は、腕を掴んだまま突然黙り込んだ私にいよいよ痺れを切らしたのか「えっと、助けてくれてありがとうね」なんて言いつつ、空いた手で私の手を引き剥がそうとしていて、その行動に焦った私は、
「だ、だめ!!」
私の手を引き剥がそうとした彼女の手を掴んで、思わず大きな声で叫んでいた。
その声に驚いたのか、彼女は「ひゃあ!?」などという可愛らしい悲鳴をあげているが、それに構っている余裕はない。私は彼女を引き止めるのに必死なのだ。
考えて、考えて、彼女を引き止めるための言葉を紡ぐ。
「あなた、ここを出てどこか行く当てがあるんですか?まさか、野宿でもするつもりなんですか…!?」
その言葉に、彼女は気まずそうに目を逸らした。どうやら図星のようだ。
彼女には行く宛がなくて、私は彼女がここに留まることを望んでいる。
それならーー
「ねぇ、ここで私と暮らすつもりはありませんか?」
「……え?」
私の言葉に、ぽかんとした表情を浮かべる日奈。そんな表情も可愛いな、なんて思いつつ、私は言葉を続ける。
「最近は物騒な事件もよく耳にしますし。野宿は流石に危ないと思いますよ?きっとまた怪我しちゃいます。それに、ご飯はどうするんですか?見たところあなた、お金もないみたいですし…お腹空かせて餓死しちゃいますよ。
その点、うちなら外よりは安全だと思いますし…ご飯だって出しますよ?昼間は私も学校に行くので家を空ける事は多いですが、それでもよろしければ…」
そこまで言って、私は、日奈の腕を掴んでいた手を離して、彼女の目の前に差し出す。
「一緒に暮らしましょうよ。そんなに、悪い話ではないと思いますが」
どうですか?と首を傾げつつ彼女の様子を伺う。彼女は一瞬呆然としていたようだが、直ぐに我に返ったようだった。途端に困ったように眉尻を下げ、申し訳なさそうに、わたわたと喋り始める。
「で、でも…迷惑にならない?ぼくがいたら邪魔なんじゃ……」
「そんなこと思うなら、こんな提案してませんよ」
「ご飯だって…!2人分作るの大変なんじゃ」
「そんな大したことじゃないので大丈夫です。それに、自分以外の人にもご飯作る方が、作りがいがあるってものですし」
彼女の言葉を片っ端から否定していく。その度に、ううっ、と唸っていた彼女だが、私の態度に観念したらしい。ふぅ、と一息つくと、
「えっと、きみの名前はなんていうの?」
「……?あぁ、そういえば名乗ってませんでしたね。失礼しました。私の名前は、木暮夜歌です」
「そっか…じゃあよるちゃんだね!一緒に暮らすのなら、あんまり堅苦しい呼び方は嫌だもん。ぼくはきみを、よるちゃんって呼ぶよ」
「!」
彼女の言葉に、思わず驚いて固まってしまった。そんな私の様子がおかしかったのか、くふふ、と笑いながら、日奈は私の手を取る。
「じゃあ、えっと…これからよろしくお願いします!でいいのかな?よるちゃん」
「はっ…はい!もちろんです。自分の家だと思って、好きなように暮らしてもらえたら嬉しいです。
……ひい、ちゃん」
私が突然呼んだ愛称に、一瞬驚いたような顔をした日奈…ひいちゃんだったが、すぐに嬉しそうにへらりと笑う。そんな彼女の笑顔に、私はやっぱり、つられて笑顔を浮かべてしまうのだった。
**
そう、これが、私の運命と出会った日。
なんの飾り気もないちいさな部屋のなかで、私は私を変えてくれる、そんな存在に出会ったのだ。