贖う罪は仄甘く
「さて、今日の罪を発表します」
灰色の雲が空を覆う、素晴らしい朝。教室に入ってきた教師が、にこにこと、吐き気のするような笑顔を浮かべて言う。そして、教卓に乗せた黄色い箱の中から一枚の紙を取り出した。
「本日の罪は……『信号無視』。皆さん、自由に罪をあがなってくださーい」
募金にご協力くださーい、みたいなノリで言うんじゃねぇよ、と心の中で悪態をつく。罪を贖うための教室、という大仰な名目の割に、毎日発表される罪は驚くほど軽いものだった。小さいものから少しずつ贖っていって、自分が心の奥底から赦されたいと思う罪を贖えた時、卒業できる、らしい。ただ、罪の発表の仕方からして、卒業できるか否か……つまり、自分の抱える一番大きな罪を贖えるかどうかは、宝くじよりも気の遠くなる運試しに思える。
はぁ、と嘆息して、これからどうするかを考える。せっかくここまで来たというのに、今日はやることがなさそうだ。
「なぁ、どうする?」
近くにいた茶髪の男がやけに馴れ馴れしく話しかけてくる。そういえば、何度か顔を合わせたことがある……かも、しれない。記憶に自信がないので、一応敬語で話しておくことにする。
「知りません。あたし、信号無視なんてしたことないので」
「……マジで?」
信じられないといった表情に、もうひとつ嘆息する。確かに、信号なんてそのへんのちびっ子ですら守らない時があるけど。でも、それとあたしが信号無視してないのとは、全く関係のない話だ。まずもって、同じ土俵にも上がらないだろう。
「ここで嘘ついてどうするんですか。罪が増えるだけです」
「いやまぁ、そりゃあそうなんだけど、な。そんな奴本当にいるのか……」
「ここにいます」
「……お前、何でここにいるの?」
とても返答に困る質問だった。ここにいる理由なんて一つしかない。それは、目の前の彼もよく知っているはずなのに。あたしは苦笑して口を開いた。
「そりゃ……贖罪、するためですよ」
「だよな……変なこと聞いちまったな」
彼も同じように苦笑して、それから、どこかへ行ってしまった。この部屋にいる全員が、同じ理由を持っている。
贖罪。あたしには、赦してもらいたい罪がある。誰もがあたしに非は無いと言った。考えすぎだと言った。それでもあたし自身が納得できないから、あたしはここにいるのだ。彼のことを忘れて生きているように見られるのは嫌だった。それならばいっそ自殺でもしてしまおうかと、何度考えたことか。しかし考えるたびに、下卑た笑い声が、あたしに言うのだ。
「自殺は他人を殺すより重い罪、ですよ?」
頭上から教師の声がする。顔を上げると案の定、そいつは笑っていた。胸ぐらを掴んで殴り飛ばしてやりたくなるようで、触れることすらためらわれるほどおぞましい笑顔。思わず目を逸した。そこで、何かおかしくないか、と思い当たった。教師の声が一瞬遠ざかる。
「……しかし貴女、今日はすることがないようですねぇ。何故こんな小さな罪すら犯したことのない貴女が此処にいるんでしょうか?」
どうせ知っているくせに。その言葉をどうにか飲み込んで、答える。
「……それは、その罪を贖う日がきたら、教えます」
「楽しみにしてますよ」
「楽しまないでください」
「それは無理です。だって、それが先生の仕事ですから」
「……」
吐き気がする。
目の前の、この、下卑た笑顔を消してしまいたい。そうは思うが、きっと永遠に、実行には移さない。ぐっと拳を握り締めて、吐き気を飲み下す。
「質問、してもいいですか」
「おや、何ですか?」
無理矢理、顔面に笑顔を貼り付ける。多分ひきつっているけれど。その状態で話し始めたから、少し頬が痛くなった。
「自殺は重い罪だって言ってましたけど、死んじゃったら罪を贖えないと思うんですが」
「それは肉体の話ですねぇ。魂は罪を背負ったままですから、生まれ変わったとき、その人は生まれながらにして贖罪者ということになります」
なんだか気の遠くなる次元の話だった。生まれ変わってからのこと。そんなこと知るもんか。あたしじゃなければいいのだ。魂が同じだとしても、あたしという存在は今生きているあたししかいない。つまり、生まれ変わって罪を贖うのは、あたしではない。
「来世に罪を持ち込まずに、しっかり現世で贖ってくださいね?」
「善処します」
にやりと笑う顔に、曖昧に答える。こういう時、日本語って便利だと感じる。というか、これ以上こいつの声を聞いているとストレスで胃に穴が空きそうだ。それに、やることがないんだから、帰っていいだろうか。
「それでは」
言いながら、ひらりと手を振って教卓の方へ戻っていこうとする背中を、あたしは引き止める。振り返ったその顔は、何故だかものすごく嬉しそうだった。
「何ですか? 貴女から先生に話を振るなんて、初めてじゃないですか」
「いや、あの、やることないので、帰っていいですか?」
教師の笑顔が固まって、それから徐々に、悲しげなものに変わる。だが、手の施しようがない胡散臭さだったから、全く同情を引けていなかった。
「こんな素敵な日は、どこかに遊びに行きたいので」
そう言い放ち、じっとこちらを見つめる教師を無視して帰り支度を始める。
窓の外へ視線を移す。ガラスの向こうにはまだ灰色の空が広がっている。雲の切れ間は見えない。それでいて、雨が降る様子もない。今日は、とてもいい日だ。
「あのですねぇ、今日のような日をいい天気とは呼びませんよ?」
「それは一般論であって、あたしとは何の関係もありません」
にこりと笑って、踵を返す。
晴れの日は、嫌いだ。
晴れの日は、必ず夕焼けを用意して待っているから。
真っ赤に染まる空は、彼を呑み込んでしまったから。
そして、あたし自身、空に呼ばれているような錯覚に、囚われるから。
***
「ぼくはね、人を殺したことがあるんだ」
ぼくがそう彼女に言うと、彼女はふうん、と興味なさそうに言って、それからそっぽを向いてしまった。嘘臭かっただろうか。本当のことなんだけれど。
「それで、罪を贖うための……学校、みたいなところへ、行っているんだけど」
言葉を続けてみたけれど、彼女が再びこちらを向くことはなかった。苦笑しながら、自分の足下を見つめる。日光を受けてきらきらと光る石を、汚れたスニーカーで転がした。
「で? あたしにどうしてほしいの?」
「えっ」
突然投げかけられた言葉に驚いて顔を上げると、彼女はいつの間にかこちらを見ていた。見ていた、というよりは、睨んでいた、の方が正しいかもしれない。ぼくを軽蔑しているのか、嘘つきだと罵っているのか。ともかく、彼女の目線は鋭かった。
「ねぇ、聞いてた?」
「いやそれが全然」
素直に答えると、深い溜息が返ってきた。急に話しかけられたんだから仕方ないだろうと思ったけど、一応謝っておいた。
「そんな心の込もっていない謝罪はいらないわ」
「ごめん」
「いらねぇっつうの」
「ごめ……おっと」
彼女がまた嘆息する。幸せに逃げられ放題だなぁ、とか、笑うと可愛いだろうになぁ、とか、口に出したら怒られそうなことばかり考えてしまう。
「あんたさっきから失礼なことばっか考えてるでしょ」
見抜かれていたようだ。
「いや、幸せに逃げられまくってるなとか笑うと可愛いんだろうなとかそんなことは全然」
「……もういい」
「ごめんなさい」
三回目か四回目のごめんを口にする。今度はいらないとは言われなかった。代わりに、話を戻す、と、真面目な声が鼓膜を震わせた。
「戻すといいますと」
ぼくも思わず、真面目な雰囲気を出してしまった。太陽は相変わらずぼくら二人を照らしていて、彼女は一度それを鬱陶しそうに睨みつけ、それからぼくの方に向き直った。
「あんたが、あたしにどうして欲しくて、人を殺したなんて言ったのか」
「あー……」
何と答えるべきか。正直にか。格好つけるか。個人的には格好つけてみたいけれど……彼女の目が、正直に話さないと半殺しって言ってる。仕方ない。
「きみの気を引きたくてさ」
「巫山戯んな」
「じゃあ別の理由にしよう」
「……」
返ってきたのは嘆息だけだった。彼女はもうこちらを見ていない。
また間違えてしまったんだな、と思う。だからいつまでも、あの狭苦しい教室から抜け出せないのかもしれない。ぼくは別に、何も考えずに行動しているわけじゃない。欲望のままに動いたりもしない。それなのに、ぼくはいつも間違えてばかりだ。反射、というか、咄嗟の反応というものが、一般的な感性や常識というものから離れているのだと思う。それを自覚してから、なるべく他人に悟られないよう、周囲に合わせて生きてきた。他人を、とりわけマジョリティというものを真似てきたのだ。それでも尚、変われない部分があった。だからきっと、あの時人を殺めてしまったのだ。変われなかった部分を、まるで狙ったかのように、あの時空へ踏み出した人は刺激してきた。けれどそれは、その人の犯した間違いではない。
間違えていたのは、ぼくなのだ。
何をどう間違えたのか、具体的に説明することは難しい。けれど、なんとなくはわかっている。ぼくが、ずっと間違い続けていること。
それはきっと、
「ねぇ」
ぼくが今、
「あんたさ」
生きていることだ。
「死にたいんでしょ?」
彼女の声がぼくの思考を揺さぶる。彼女に言われた死にたいんでしょ、が、熱に浮かされたようにぐるりぐるりと頭の中で回り続ける。回るだけ回って、その言葉の意味するところが蒸発してしまいそうになる。ぼくはそれが消えてしまう前に、どうにか口を開く。
「どうして」
「どうしてわかったのってこと?」
当たり前じゃない、と彼女は言う。何が? なにが、あたりまえ?
「あんた、そういう目をしてる」
目。眼球。そんな、もので。
「目は口ほどに物を言うって、昔から言うでしょ?」
いつだったか聞いたことのある言葉。諺だったか。
「……いつ、気づいたの」
「会ってすぐ、は、なんとなくだったけど……あんたがさっき、人を殺したって暴露した時、確信した」
だったら。最初からわかってたなら。
「どうして」
「今度は何よ」
「どうして、ぼくを、殺してくれなかったのさ」
心からの叫びだった。声が掠れて、叫びと言えるほど声量は出なかったけど、ぼくは叫んでいた。けれどそれは、彼女の幾度目かの嘆息に裏切られる。
「なんであたしが、あんたの為にこの手を汚さなきゃいけないの」
そんな彼女の、冷たい言葉が、ぼくの背中を押した。そのあとに何か言葉が続いたようだったけれど、全く耳には入らなかった。ぼくは意識の全てを、そ一歩踏み出した先に囚われていた。それは仄甘くぼくを誘う。そこに誘われるがままに身を投じるのが、最良だと思えた。彼女は、ぼくに道を示してくれたようなものだ。
だからぼくは、彼女に言う。背負った太陽も後押しして、とてもいい雰囲気が出せるだろう。とびきりの笑顔で飾って、言い放ってやる。
「×××××」
***
あたしは、俗に言う普通とか一般というものとは違うのだと、そう自覚したのはいつだっただろうか。とても幼い時だったように思う。
そうだ、あれは、祖父が道路に飛び出したあたしを庇って死んだとき。あたしが殺してしまったんだ、という認識はあったけれど、それ以外の感情は湧いてこなかった。祖母や父や母や、名前も知らない親戚たちはぎゃんぎゃん泣いていたのに、あたしは何も感じていなかった。あたしが祖父を死なせたのだからいなくなるのは当たり前で、悲しむのはおかしいと、そんな風に考えていた。
それと同時に、このままじゃ上手く生きていくことはできないのだと理解した。祖父の死に悲しまないあたしを、家中の誰もが一度は奇異の目で見たからだ。あの時は、あたし自身の幼さがあたしを助けてくれたけれど、後は無いことはわかっていた。だから、あたしはそれからというもの、普通を装って暮らすようになった。人が亡くなったら悲しむ。命は大切に思う。大切なものだから、簡単に奪ってはいけない。きっと世の中の大半が普通に思っていること、即ち常識というものを、頭に叩き込み、常に意識する。そうして生きていくことで、なんとか頭のおかしい奴というレッテルを貼られることなく過ごすことができた。その代わり、違和感はずっと付きまとっていたけれど。
だから、なのだと思う。彼を一目見たときに、同類だとすぐにわかった。どこか普通と違うものを持っているのだと、そう直感した。彼の方も恐らく、あたしが普通というものに属していないとわかったのだと思う。向こうから、あたしに話しかけてきた。
「きみ、きっと、ぼくと同じだ」
初対面の第一声でそれはどうなの、と思ったけれど、その声がとても嬉しそうで、咎める気は起きなかった。
「きみが良かったら、なんだけど。今日、天気もいいし、ちょっと話さない?」
これが俗に言うナンパってやつなんだろうな、と他人事のように考えながら、いいですよ、とあたしは笑った。
そんなファーストコンタクトを経て、一番近くにあった喫茶店でとりとめもない話をして、その中で、彼を異常足らしめている部分をあたしなりに探してみた。わかったのは、彼もまたあたしと同じように自分が普通でないことを上手く隠して生きているということだけだった。そこで初めてお互いに名乗っていないことに気づき、あたしから聞いてみたのだ。
「そういえば、貴方の名前は?」
「えっと……どうしようかな」
「いやいや、なんで迷うの」
ここまでとってもフレンドリーな会話をしてきたのにそれはないだろう。そうあたしが笑うと、彼も笑った。
「いや、じゃあ、適当にお兄さん、とでも」
「同い年か年下に見えるんだけどなぁ」
すると笑顔が一転、急に機嫌が悪そうになる。どうやら拗ねたようだ。こういう表情や仕草に、幼さを孕んでいるせいで、どんなに頑張って意識しても、年上には見えなかった。
「こう見えてもぼく、18だよ?」
「あぁ、じゃああたしの一つ上だ」
「ほら!」
「そうですね、さっきのは、ごめんなさい」
ぺこり、と頭を下げると、少し間を置いて、わかればいいんだよ、という彼の声が耳に届いた。それから、今更敬語はやめて、とも。
「それで、貴方の名前は?」
「ぼくはリョウって言うんだ。鶺鴒の鴒で、リョウ」
「セキレイ……」
「あ、漢字、教えようか」
「大丈夫、思い出した。命令の令に鳥、でしょ」
「正解」
そこで彼は笑った。太陽の光と同じくらい眩しい笑顔だった。だから、その反対にある陰は、きっととても深いものなのだと、そう感じた。
「きみは? あぁいや待って、当てる」
「えっ」
そんなことができるのか、と目を見開いたあたしに、彼は自信満々に言う。
「春!」
「全然違う。誰よ、ハルって」
「ぼくが昔飼ってた猫。じゃあ……綾とか?」
「違います」
全然当たる気がしなかった。まず漢字一文字から離れて欲しい。
「んー……ヒント頂戴」
「ええと、漢字二文字で、音も二文字。濁音は入ってないよ」
「ふむ……」
本格的に考え込んでしまう。正解を言っていいかと切り出しても、もうちょっと待っての一点張りだったので、気の済むまでやらせることにした。
結局、彼が諦めるまでに、ミサ、サナ、リカ、カナ、サキ、アミ、メイ……あとはもう覚えてないけれど、十数種類の名前を挙げられた。よくそれだけ思いついたものだと、あたしは苦笑し、不正解を連発して落ち込んでいる彼に名乗った。
「深緒」
「へぇ、綺麗な名前だね」
「深いに、いとぐちの緒」
それから彼は、反芻するようにミオ、と呟いて、また笑った。悲しそうな微笑みだった。
そのあともまた、他愛のない話をして、陽が傾くか否かという時間になって、散歩しないかと持ちかけられた。断る理由は、なかった。彼が何をしようとしているのか、あたしに何を望んでいるのか。彼があたしの同類であることを見抜いた瞬間から感じていたものが、実体を持ちはじめているのがわかった。でも、あたしは、普通でいたいのだ。それは彼も同じだから、きっと言葉にはしないと、そう信じていたかった。
けれど、あたしの思いは彼に裏切られて。
そして、彼の願いはあたしに裏切られた。
あたしは確かに、人の死に感情を抱かない。けれど、あたしは彼に好意を持っていたのだ。恋愛感情ではない。友情と呼ぶには小さすぎる。そんな中途半端な気持ちだけれど、好意であることに変わりはない。言い訳がましく、あたしはあなたが嫌いじゃない、なんて付け足してみるけれど、その声はもう、彼には届いていないようだった。彼はずっと遠くの方を眺めているようで、今にも、消えてなくなってしまいそうだった。
彼を繋ぎとめようと、彼を裏切る理由をもっとたくさんあげようとして、気づく。あたしは、普通でいたいだけなのだ、と。普通でいたいから、彼を見殺しにして何も感じない自分を自覚したくないのだ、と。
彼の笑顔が傾いていく。あたしはそれを、止められなかった。あたしのエゴのために、彼を苦しめることはできなかった。彼が死ぬことには何も感じない。けれど、彼が生きながらえて、それ故に苦しむのは嫌だった。生きることには、ちゃんと、心が動くのだ。
やはりと思う冷静な自分と、彼が実行に移してしまったことに動揺する自分がいた。冷静な方の自分は、彼がこうしてまで滅ぼしたかった罪の本質に気づいていた。きっと、彼もあたしと同じことをしたのだろう。こうしてただ見ているだけというのも、立派な殺人になると思えた。人を殺したんだ、と言うには十分だと思えた。動揺している方の自分は、あたしはこれから、彼の通ってきた道を辿っていくのだという直感に支配されていた。そうしなければならないと、彼に言われているような気がした。
彼が視界から消える。夕陽は泣きたくなるほど鮮やかに空を燃やしていて、まるで彼の死を祝っているようだった。
あたしは、彼の最期の言葉に答えるように、口を開く。笑うことはできなかった。涙が出ることもなかった。ただただ、言葉を紡いだ。
「×××××」