海と愛
日曜日の午後が、ゆっくりと過ぎていった。
カーテンの隙間から光が差し込んでいて、埃が浮いているのが見えた。
見ないようにして、寝返りを打った。起き上がってコーヒーを淹れ、飲みながら何かしようと思って本を開いたが、活字が頭に入ってこなくて閉じた。
スマホを触って、意味のない画面を上にスクロールして、下にスクロールして、やめた。
そういうことが、何度か繰り返された。
ため息をついた、とかではない。ただ、またか、と思った。
続けられない自分を責める気力もなく、確認するように、ああそうか、と思うだけだった。
部屋の中が静かだった。亮が死んでから一年と少しが経つ。
関係があるのかないのか、わからない。ただ、部屋が静かだった。
片付けようと思って本棚の前に立ったが、背表紙を眺めているだけで何も動かせなかった。
隣の棚に手を伸ばして引き出しを開けたとき、手が止まった。
ノートだった。大学のころに買った、何でもないキャンパスノートで、引き出しの奥に押し込んだまま何年も触っていなかった。
表紙を見ると、亮の字で「やりたいことリスト」と書いてあった。
開いた。
俺の字と亮の字が交互に並んでいた。くだらないものが多かった。
ラーメンの食べ比べ、徹夜で映画を見る、草野球の大会に出る。線が引いてあるものもあった。
やったやつだ。草野球は俺がエラーばかりして、亮にさんざん笑われた。
徹夜映画は途中で二人とも寝て、翌朝お互いに見ていたふりをした。
たいていは亮が言い出して、俺が引っ張られた。亮がいなければ、俺はどれもやっていなかった。
くだらなかった。くだらなくて、よかった。
途中で手が止まった。
「海に飛び込む」
亮の字だった。その下に、俺の字で「堤防から」と書き足してあった。線は引いていない。
いつ書いたんだったか。笑いながら書いた気がした。
亮が先に書いて、俺が足して、二人で少しふざけていた、そんな感じだった。
どこの海でもよかった、具体的な場所すら決めていなかった。いつかそのうち、と思っていた。
そのうちは、来なかった。
亮が死んだのは去年の春で、俺はその連絡を終業後の電車の中で受けた。
座席に座って、ぼんやり窓の外を見ていたときだった。
画面を見て、何が書いてあるのかすぐにはわからなかった。俺はそのまま終点まで乗り続けた。
突然だった。突然すぎて、何も間に合わなかった。
お見舞いにも行けなかった、最後に会ったのがいつだったかも、もうよく思い出せない。
ノートを閉じた。捨てられなかった。引き出しにも戻せなかった。
テーブルの上に置いたまま、コートを取った。
電車はがらがらで、オフシーズンの海沿いの線は乗っている人間もまばらだった。
窓の外に海が見えてきたとき、何も考えていなかった。ただ揺られていた。
駅を降りると風が冷たくて、砂の匂いがした。堤防まで歩くあいだ、誰ともすれ違わなかった。
波の音だけがしていた。海は冬の色をしていた。
堤防の端まで行って、下を見た。想像より高かった。水面がゆっくり動いていた。
飛べない高さじゃない。でも足が動かなかった。風が吹いてきて、コートの裾が揺れた。
なんで来たんだろう、と思った。答えは出なかった。
亮に見せたかったのか、亮の代わりに来たのか、それとも俺がただ来たかっただけなのか。
わからなかった。わからないまま、ここまで来ていた。
ふと、言葉が浮かんだ。
神とは愛である。
どこかで聞いた言葉だった。なら俺は何だ、と思ったが、答えは出なかった。
考え始めると止まる。
飛んだ。
一瞬、何も聞こえなくなった。
次の瞬間、全身が水に叩かれた。冷たいというより、痛かった。
足から入ったはずなのに、どこが上でどこが下かわからなくなって、泡だけが見えた。
耳の奥で低い音がした。
浮き上がった。
空が見えた。冬の青い空だった。
亮、俺はここにいるぞ。




