渡せなかった愛
沢田さんが来なくなって、三日が経っていた。
病気だと聞いたのは、総務の田中からだった。詳しくは言えないが、しばらく休むことになった。
そのまま、故郷に帰るかもしれない。田中はそれだけ言って、自分のデスクに戻った。
俺は頷いた。急ですね、とだけ言った。
沢田さんのデスクは俺の隣にあった。いつもきれいに片付いていた。
ペン立てに三本だけ、モニターの端に小さなポストイットが一枚、引き出しはいつも閉まっていた。
最終日も同じだった。荷物をまとめて、椅子を引いて、軽く頭を下げた。
お世話になりました、と言った。声が少し低かった。それだけだった。
俺は見送った。何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
何を言えばよかったのか、今も分からない。
沢田さんとは、特別何かをしたわけじゃない。
デスクが隣同士だったから、休憩が重なると自然と話した。
仕事のことか、天気のことか、そのくらいだ。笑うと少し目が細くなった。
コーヒーはブラックで飲んでいた。
話していると、不思議と気持ちが落ち着いた。何かを言ってくれるわけじゃない。
ただ聞いて、時々相槌を打って、それくらいだった。
でも席に戻るとき、さっきより少し楽になっている自分がいた。
なぜかは分からなかった。考えたこともなかった。
沢田さんが休みの日は、午後の休憩をどこか持て余した。理由は考えなかった。
一度、菓子の話になったことがあった。沢田さんが北海道の取り寄せ品の話をした。
有名な店で、なかなか手に入らないと言っていた。俺はそれを食べてみたいと言った。
沢田さんは少し笑って、いつか、と言った。
いつか、のまま一ヶ月が経っていた。
沢田さんが去って一週間ほどして、総務が片付けに来た。
引き出しの中身を段ボールに入れて、持っていった。俺はその様子を横目で見ながら、画面を見ていた。
翌朝、デスクの上に菓子の袋があった。
段ボールに入れ忘れたのか、引き出しの奥に残っていたのか。あの北海道の菓子だった。
付箋が貼ってあった。
俺の名前だけが書いてあった。ペンの跡が少し強かった。
書いて、迷って、それでも書いたような跡だった。
しばらく、それを見ていた。
それから自分の引き出しを開けた。
奥に、紙袋があった。一ヶ月前に、取り寄せたものだった。
沢田さんが好きだと言っていた、九州の菓子だった。渡す機会を、ずっと探していた。
渡せないまま、そこにあった。
俺は紙袋を取り出して、机の上に置いた。
沢田さんの菓子と、俺の菓子が、並んだ。
その日の仕事が終わらなかった。画面を見ていたが、何も入ってこなかった。
定時になって、立ち上がった。紙袋を持った。
沢田さんの菓子も、鞄に入れた。
エレベーターを待ちながら、鞄の中の紙袋を思った。
連絡先は知っていた。一度だけ、仕事の都合で交換したことがあった。使ったことはなかった。
外に出た。冬の空気が冷たかった。
スマホを取り出した。連絡しようと思った。菓子を送りたい、それだけ言えばいい。
顔を上げると、立て看板があった。
いつからあったのか、今まで気づかなかった。黒いマジックで、丁寧に書いてあった。
神とは愛である。
俺は少し、笑った。




