今そこにある愛
神とは愛である。
立て看板にそう書いてあった。黒いマジックで、丁寧に、少し右肩上がりの字で。
その前に女が二人立っていた。修道服姿の、五十前後の女たちだった。
白と黒の布を身体に巻きつけたような格好で、人の波に向かって小冊子を差し出しながら、交互に声を上げていた。
イエス・キリストはあなたを愛しておられます、神とは愛です、その愛はすでにここにあります。
よく通る声だった。周りがざわついているのに、妙にはっきり聞こえた。
誰も受け取っていなかった。人の流れはふたりを避けるように、自然と迂回していた。俺もそうした。
電車に乗り、座席が空いていたので座った。
窓の外を見るでもなく、スマホを見るでもなく、膝の上に手を置いたまま、さっきの女たちのことを考えていた。
愛、か。
世の中にはいま、この瞬間も、どこかで誰かが泣いている。飢えている。殴られている。
なのに神とやらはそれを止めない。止める気もない。神の愛とはどこに与えられているのだろうか。
声に出したわけではなかった。でも口の中でそう動いた気がした。
電車が動き出した。実家までは一時間ちょっとかかる。別に用があって帰るわけじゃない。
母から連絡があったわけでもない。なんとなく、だ。
なんとなく、という理由を自分でも少し持て余しながら、俺は目を閉じた。
実家の最寄り駅を降りると、空気が変わった。都心とは違う、少し湿った冬の匂いがした。
商店街はシャッターが増えていた。学生のころ毎日通った道を、俺は少し早足で歩いた。
インターホンを押すと、すぐに出た。
「あら」
母は驚いた顔をしたあとに喜んだ顔をした。
「ご飯、食べてきた?」
「食べてない」
「じゃあ作るね」
それだけだった。なんで帰ってきたのとも、連絡くらいしなさいとも言わなかった。
俺が突然現れたことに対して、母はそれ以上何も言わなかった。
荷物を昔の自分の部屋に置いた。何も変わっていなかった。本棚の本も、机の傷も、カーテンの色も。
変わったのは俺だけで、部屋はずっとここに在ったのだと思うと、少し落ち着かなかった。
台所に行くと、母が鍋をかき混ぜていた。背中しか見えなかった。
「残り物と味噌汁しかないけど」
「いい」
俺はテーブルに座った。テレビをつけた。バラエティ番組で、誰かが大げさに笑っていた。
母が配膳しながら、今日寒かったね、とか、駅前に新しいドラッグストアができたね、とか、そういうことを言った。
俺はそうだね、とか、へえ、とか返した。
出てきた皿を見て、少し止まった。
肉じゃがだった。子供のころから好きで、帰るたびに出てくる。
残りもんじゃなかった。作ったのだ、今日。
茶碗のご飯が多かった。高校生のころの量だと思った。
俺はもうそんなに食べない。でも何も言わなかった。
母も何も言わなかった。ただ自分の席に座って、テレビを見た。
ご飯を食べた。味噌汁は大根と油揚げで、熱かった。
食べ終わってしばらくして、母がお茶を出した。
湯呑みを置く手が、視界に入った。
しわが増えていた。肌がたるみ、腕が細くなっていた。
俺の知っている母の手より、ずっと小さかった。
俺は画面を見ながら、自分の手の甲を見た。
何をやっているんだろうと思った。何を、とは言えなかった。ただそう思った。
翌朝、目が覚めると七時前だった。
台所からかすかに音がしていた。母が起きている。俺はしばらく天井を見ていた。
顔を洗って台所に行くと、母が卵を焼いていた。
「おはよう」
母の方から言った。
「もっとゆっくりしてていいのに」
「いや」
それだけ返して、俺はテーブルに座った。
母は俺が何時に帰るかも聞かなかった。ただ二人分の朝ごはんを作っていた。
食べているとき、母がふと言った。
「最近、大丈夫?」
心配げな声だった。
「普通」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。普通、という薄い答えを、そのまま受け取って、自分の茶碗に目を戻した。
俺は箸を動かしながら、母の横顔を見た。
シワが増えていた。白髪も増えた。
昔の母はもっとよく喋った。俺の成績のこと、友達のこと、将来のこと、いろいろ言った。
うるさいと思っていた。
それがいつからか、何も言わなくなった。
ただ朝ごはんを食べているだけの、老いていく母親の横顔だった。
目の奥が、じわっとした。
俺はすぐに茶碗に視線を落とした。飯を口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。
何でもなかった。何でもない。
玄関で俺がコートを着るのを、母は見ていた。
「気をつけて帰ってね」
心配そうな声だった。
「うん」
母が少し前に出た。
コートを着ている俺より、頭ひとつ分小さかった。背中が丸くなっていた。
いつからだろうと思った。こんなに小さかっただろうか。
母はただ扉を開けた。
外に出た。扉が閉まった。
十二月の空は低くて、白かった。
俺は二、三歩歩いて、止まった。
特に何があったわけじゃない。何も起きていない。母は普通にしていた。
飯を作って、茶を出して、扉を開けた。それだけだ。
なのに。
胸の中に、何かがあった。
ずっと前からそこにあって、俺がずっと気づかないふりをしていたものが、確かにそこにあった。
俺はそれを知っていた。知っていたから、見なかった。見てしまったら、受け取るしかなくなるから。
受け取ったら、泣くしかなくなるから。
愛はすでにここにあった、俺はずっと愛を受けていた。




