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神とは愛である シリーズ3部作  作者: makubes


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1/3

今そこにある愛

 神とは愛である。


 立て看板にそう書いてあった。黒いマジックで、丁寧に、少し右肩上がりの字で。


 その前に女が二人立っていた。修道服姿の、五十前後の女たちだった。

 白と黒の布を身体に巻きつけたような格好で、人の波に向かって小冊子を差し出しながら、交互に声を上げていた。


 イエス・キリストはあなたを愛しておられます、神とは愛です、その愛はすでにここにあります。


 よく通る声だった。周りがざわついているのに、妙にはっきり聞こえた。


 誰も受け取っていなかった。人の流れはふたりを避けるように、自然と迂回していた。俺もそうした。


 電車に乗り、座席が空いていたので座った。

 窓の外を見るでもなく、スマホを見るでもなく、膝の上に手を置いたまま、さっきの女たちのことを考えていた。


 愛、か。


 世の中にはいま、この瞬間も、どこかで誰かが泣いている。飢えている。殴られている。

 なのに神とやらはそれを止めない。止める気もない。神の愛とはどこに与えられているのだろうか。


 声に出したわけではなかった。でも口の中でそう動いた気がした。


 電車が動き出した。実家までは一時間ちょっとかかる。別に用があって帰るわけじゃない。

 母から連絡があったわけでもない。なんとなく、だ。


 なんとなく、という理由を自分でも少し持て余しながら、俺は目を閉じた。



 実家の最寄り駅を降りると、空気が変わった。都心とは違う、少し湿った冬の匂いがした。

 商店街はシャッターが増えていた。学生のころ毎日通った道を、俺は少し早足で歩いた。


 インターホンを押すと、すぐに出た。


「あら」


 母は驚いた顔をしたあとに喜んだ顔をした。


「ご飯、食べてきた?」


「食べてない」


「じゃあ作るね」


 それだけだった。なんで帰ってきたのとも、連絡くらいしなさいとも言わなかった。

 俺が突然現れたことに対して、母はそれ以上何も言わなかった。


 荷物を昔の自分の部屋に置いた。何も変わっていなかった。本棚の本も、机の傷も、カーテンの色も。

 変わったのは俺だけで、部屋はずっとここに在ったのだと思うと、少し落ち着かなかった。


 台所に行くと、母が鍋をかき混ぜていた。背中しか見えなかった。


「残り物と味噌汁しかないけど」


「いい」


 俺はテーブルに座った。テレビをつけた。バラエティ番組で、誰かが大げさに笑っていた。


 母が配膳しながら、今日寒かったね、とか、駅前に新しいドラッグストアができたね、とか、そういうことを言った。

 俺はそうだね、とか、へえ、とか返した。


 出てきた皿を見て、少し止まった。


 肉じゃがだった。子供のころから好きで、帰るたびに出てくる。

 残りもんじゃなかった。作ったのだ、今日。


 茶碗のご飯が多かった。高校生のころの量だと思った。

 俺はもうそんなに食べない。でも何も言わなかった。


 母も何も言わなかった。ただ自分の席に座って、テレビを見た。


 ご飯を食べた。味噌汁は大根と油揚げで、熱かった。


 食べ終わってしばらくして、母がお茶を出した。


 湯呑みを置く手が、視界に入った。


 しわが増えていた。肌がたるみ、腕が細くなっていた。

 俺の知っている母の手より、ずっと小さかった。


 俺は画面を見ながら、自分の手の甲を見た。


 何をやっているんだろうと思った。何を、とは言えなかった。ただそう思った。



 翌朝、目が覚めると七時前だった。


 台所からかすかに音がしていた。母が起きている。俺はしばらく天井を見ていた。


 顔を洗って台所に行くと、母が卵を焼いていた。


「おはよう」


 母の方から言った。


「もっとゆっくりしてていいのに」


「いや」


 それだけ返して、俺はテーブルに座った。


 母は俺が何時に帰るかも聞かなかった。ただ二人分の朝ごはんを作っていた。


 食べているとき、母がふと言った。


「最近、大丈夫?」


 心配げな声だった。


「普通」


「そう」


 母はそれ以上聞かなかった。普通、という薄い答えを、そのまま受け取って、自分の茶碗に目を戻した。


 俺は箸を動かしながら、母の横顔を見た。


 シワが増えていた。白髪も増えた。


 昔の母はもっとよく喋った。俺の成績のこと、友達のこと、将来のこと、いろいろ言った。

 うるさいと思っていた。


 それがいつからか、何も言わなくなった。


 ただ朝ごはんを食べているだけの、老いていく母親の横顔だった。


 目の奥が、じわっとした。


 俺はすぐに茶碗に視線を落とした。飯を口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。


 何でもなかった。何でもない。



 玄関で俺がコートを着るのを、母は見ていた。


「気をつけて帰ってね」


 心配そうな声だった。


「うん」


 母が少し前に出た。


 コートを着ている俺より、頭ひとつ分小さかった。背中が丸くなっていた。

 いつからだろうと思った。こんなに小さかっただろうか。


 母はただ扉を開けた。


 外に出た。扉が閉まった。



 十二月の空は低くて、白かった。


 俺は二、三歩歩いて、止まった。


 特に何があったわけじゃない。何も起きていない。母は普通にしていた。

 飯を作って、茶を出して、扉を開けた。それだけだ。


 なのに。


 胸の中に、何かがあった。

 ずっと前からそこにあって、俺がずっと気づかないふりをしていたものが、確かにそこにあった。


 俺はそれを知っていた。知っていたから、見なかった。見てしまったら、受け取るしかなくなるから。

 受け取ったら、泣くしかなくなるから。


 愛はすでにここにあった、俺はずっと愛を受けていた。


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