後日談(追放側視点)
王都の裏路地にある酒場『豚の足跡亭』。
その名の通り、床には泥と残飯が散乱し、鼻が曲がりそうな悪臭が漂っている。昼間から安酒をあおるゴロツキや、明日の食い扶持にも困るFランク冒険者たちがたむろする、吹き溜まりのような場所だ。
かつて、王都の最高級ホテル『天上の楽園』のスイートルームを定宿にしていた俺、勇者グレアムにとって、ここは地獄以外の何物でもなかった。
「……おい、親父。酒だ。もっと持ってこい」
俺は空になった木製のジョッキをテーブルに叩きつけた。
中身が入っていたのは、水で薄めたような酸っぱいエールだ。以前飲んでいた最高級ワインとは比べるべくもない。
「へいへい。これで最後にしてくだせえよ。金、あるんでしょうな?」
無精髭を生やした店主が、疑わしげな目で俺を見る。
その視線に、俺の中で燻っていた怒りの火種が爆ぜた。
「誰に向かって口を聞いている! 俺はSランク勇者、グレアムだぞ! 世界を救う選ばれた男だ! 金なんて腐るほど……」
「ああ、はいはい。『元』Sランクの『剣折れ』グレアムさんだろ? あんたのツケ、もう上限いっぱいなんだよ」
店主は鼻で笑い、汚い布でテーブルを拭った。
「剣折れのグレアム」。
それが、今の俺の通り名だ。
あの日、大衆の面前で聖剣エクスカリバーをへし折って(正確には勝手に折れたのだが)以来、俺の評価は地に落ちた。
『聖剣にすら見放された偽物の勇者』。
ギルドからの信用は失墜し、クエストの失敗続きでランクは降格。今や、泥水をすするような生活を送っている。
「……クソッ! クソッ! どいつもこいつも!」
俺は頭を抱え、テーブルに突っ伏した。
両手にはまだ包帯が巻かれている。聖剣に焼かれたただれ傷は、なぜか治癒魔法を受け付けてくれず、今もズキズキと熱を持って痛むのだ。
「うるさいわよ、グレアム。頭に響くじゃない」
向かいの席から、刺々しい声が飛んできた。
かつて「王都の宝石」と謳われた美貌の魔法使い、ミリアだ。
だが、今の彼女にかつての面影はない。
トレードマークだったサラサラの栗色の髪は、あの時の暴発事故以来、チリチリに痛んで戻らなくなり、今は薄汚れた頭巾で隠している。高価なシルクのローブはあちこちが破れ、ツギハギだらけだ。
「あんたが飲んだくれてるせいで、今日の宿代もないのよ。どうすんの?」
「俺に聞くな! お前こそ、何か魔法で稼げないのか!? 街灯の点火とか、水の生成とかあるだろ!」
「ふざけないで! 私は大魔導師よ!? そんな雑用できるわけないでしょ! それに……」
ミリアは手元の杖――市場で二束三文で売られていた枯れ木のような杖――を忌々しげに睨んだ。
「この安物の杖、全然言うことを聞かないのよ。魔力を流すと詰まる感じがして……ああもう、イライラする!」
以前使っていた『賢者の杖』は、アルトがいなくなってすぐに完全に沈黙し、最後はミリアが癇癪を起こして叩き折ってしまった。
代わりの杖を買ったが、どれを使っても魔法が暴発するか、不発に終わる。
彼女は「道具が悪い」と喚き散らしているが、俺たちは薄々気づき始めていた。
彼女の魔法制御が、もともと絶望的に下手くそだったのだと。
「おい、喧嘩はやめろよ……腹減ったなぁ」
隣で力なく呟いたのは、重戦士ガストンだ。
自慢の筋肉は見る影もなくげっそりと落ち、左腕はまだ吊ったままだ。
『聖盾アイギス』を失った彼は、ただの図体がでかい的でしかなかった。
安物の鉄の盾を持たせたが、「重くて振れない」とすぐに捨ててしまった。彼もまた、あの盾の「重力制御」と「自動防御」のアシストなしでは、まともに動くことすらできなかったのだ。
「神よ……なぜ私たちにこのような試練をお与えになるのですか……」
聖女セレスティアは、テーブルの隅で虚ろな目をして祈っている。
だが、彼女の祈りに答える声はない。
以前は彼女が祈れば、空から光が降り注ぎ、傷が癒えたものだ。
しかし今では、小さな擦り傷ひとつ治せない。
彼女が「神の加護」だと思っていたものは、実は彼女の法衣や聖印に込められた魔力増幅回路のおかげであり、それを毎日微調整していたのがアルトだったという事実を、彼女はまだ受け入れられずにいる。
「……アルト」
俺はその名前を口の中で転がした。
苦い。泥水よりも苦い名前だ。
ただの荷物持ち。雑用係。
俺たちの金魚のフンだったはずの男。
あいつがいなくなってから、全てが狂った。
いや、違う。
あいつがいたから、俺たちは「勇者」ごっこを続けられていたのだ。
聖剣の不機嫌をなだめ、盾の重量を殺し、杖の回路を繋ぎ、聖印の感度を高める。
そんな神業のようなことを、あいつは涼しい顔で、毎晩の焚き火のそばでやっていたのだ。
「……あいつ、今頃どうしてるかな」
ガストンがぽつりと漏らした。
「野垂れ死んでるに決まってるわ!」
ミリアが叫ぶ。
「レベル5のゴミよ!? 私たちがいなきゃ、ダンジョンで一日だって生きられないわ! あの時連れていた女だって、どうせすぐに逃げ出したに決まってる!」
「そうだ……そうに違いない」
俺は自分に言い聞かせた。
そうでなければ、俺たちの今の惨めさが際立つだけだ。
あいつは不幸になっていなければならない。俺たち以上に、どん底で這いつくばっていなければならないんだ。
その時、酒場の扉が開いた。
外の喧騒と共に、冒険者の一団が入ってくる。彼らは興奮した様子で、手にした号外新聞を広げていた。
「おい見ろよ! 『黒銀の魔王』がまたやったぞ!」
「マジか! 今度は深層階のドラゴンを単独討伐だって!?」
「すげぇなぁ。Sランク昇格どころか、国から『特級英雄』の称号が出るらしいぞ」
店内の空気が一気に湧き立つ。
俺は耳を疑った。
黒銀の魔王? 聞いたことのない名だ。最近急激に名を上げた新星らしいが、俺には関係のない話だ。
だが、次の言葉が俺の心臓を凍りつかせた。
「連れてる相棒の『銀髪の剣姫』もすげぇ美人だよな! 二人だけでドラゴン瞬殺とか、もはや伝説だろ」
「名前、なんて言ったっけ? 元はどこかのパーティの荷物持ちだったって噂だぜ」
「ああ、確か……アルト、とか言ったか?」
時が止まった。
酒場の喧騒が遠のき、耳鳴りだけがキーンと響く。
「……あ?」
俺は震える手で、近くの冒険者が持っていた新聞をひったくった。
「おい何しやがる!」
怒鳴り声を無視して、紙面を見る。
そこには、魔法写真が大きく掲載されていた。
ドラゴンの巨大な死骸の上に立ち、涼しげな顔で黒い剣を担ぐ青年。
以前よりも精悍になり、自信に満ちたその顔は、間違いなくアルトだった。
そしてその隣で、彼の腕に抱きつきながら幸せそうに微笑む、銀髪の絶世の美女。
あの日、俺たちを見下したあの女だ。
『元・荷物持ちの英雄アルト! 腐敗した勇者パーティを追放され、真の力に覚醒! 史上最速で英雄へ!』
見出しの文字が踊っている。
そして、その記事の端には、小さく俺たちのことも書かれていた。
『一方、彼を追放した旧・勇者パーティ『栄光の翼』は、その後急速に没落。実力不相応な装備に頼っていただけの偽物だったことが露見し、現在は事実上の解散状態にある』
「ふ……ふざけるな……!」
俺は新聞を握りつぶした。
「偽物だと!? 俺が!? この俺が偽物で、あいつが本物だと!?」
俺は椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。
「あり得ない! 捏造だ! こんなのインチキだ! あいつはただのレベル5だぞ!? なんでドラゴンを倒せるんだ!」
俺の叫びに、店内が静まり返る。
冒険者たちが、冷ややかな、侮蔑を含んだ目で俺を見た。
「おい、あれ……噂の『剣折れ』じゃねえか?」
「ああ、記事に載ってる『没落した馬鹿』ってこいつのことか」
「荷物持ちを追放して自滅したってやつな。傑作だな」
「ざまぁねえぜ。他人の手柄でイキってただけのカスがよ」
嘲笑。
クスクスという笑い声が、さざ波のように広がる。
ミリアが顔を真っ赤にして俯き、ガストンは縮こまり、セレスティアは耳を塞いでいる。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れッ!」
俺は腰に下げていた安物の鉄剣を抜いた。
こんな奴ら、切り捨ててやる。俺の剣技を見せてやる。
「死ねぇッ!」
近くで笑っていた男に斬りかかる。
はずだった。
ガキンッ。
「……は?」
俺の剣は、男が適当に掲げたビールのジョッキに阻まれていた。
いや、阻まれたのではない。
俺の踏み込みが浅く、手首の返しが甘く、剣筋がブレていたため、ジョッキの厚いガラス部分に当たって弾かれたのだ。
「あっぶねぇな。酔っ払いかよ」
男は呆れたように俺を蹴り飛ばした。
「ぐえっ!?」
俺は無様に床を転がり、残飯の中に顔を突っ込んだ。
口の中に腐った野菜と泥の味が広がる。
「おいおい、元Sランク様がこれかよ?」
「弱すぎだろ」
「剣の持ち方もなってねえな」
違う。
俺は弱くない。
俺の動きは完璧だったはずだ。
今までなら、ここで剣が勝手に軌道修正して、相手の急所を貫いていたはずなんだ。
踏み込みが甘くても、剣が俺の体を引っ張って加速させてくれたはずなんだ。
『……下手くそ』
ふと、手元に転がった安物の鉄剣から、声が聞こえた気がした。
幻聴かもしれない。
だが、その幻聴は残酷な真実を告げていた。
『お前の手汗、気持ち悪いんだよ。握り方も雑だし。前の持ち主の方がマシだったぜ』
『もう俺を使うなよ、この偽物が』
パキン。
安物の鉄剣が、何かにぶつかったわけでもないのに、半ばから折れた。
金属疲労ではない。
それは明確な、武器からの「絶縁状」だった。
安物の量産品にすら、俺は見限られたのだ。
「あ……あぁ……」
俺は折れた剣を見つめ、涙を流した。
悔しさではない。
ただただ、自分が空っぽであることを突きつけられた絶望の涙だった。
アルトは、こんな声を聞いていたのか。
毎日、俺たちに罵倒されながら、それでも俺たちのために、こんなわがままな鉄屑どもの機嫌を取っていたのか。
「ねえ、グレアム……」
ミリアが震える声で言った。
彼女の足元には、真っ二つに割れた杖が転がっている。
「私、魔法が使えない……火種ひとつ出せないの。私、ただの凡人だったの?」
「俺もだ……盾が持ち上がらねぇ。重くて、一歩も動けねぇよ……」
ガストンが子供のように泣きじゃくる。
俺たちは、Sランクという高い塔の上に立っていたつもりだった。
だが、その塔は俺たちが積み上げたものではなく、アルトという一本の柱が支えていただけだった。
その柱を自ら切り倒した瞬間、俺たちが地面に叩きつけられるのは必然だったのだ。
店主が冷ややかな目で見下ろしてくる。
「おい、暴れるなら外でやってくれ。あと、その新聞代、弁償してもらうぜ」
「金なんて……ない……」
「なら、裏で皿洗いでもしてもらうか。一生かかっても返しきれないだろうがな」
俺は泥まみれの床に頬をつけたまま、動けなかった。
視界の端に、踏みつけられた新聞記事が見える。
写真の中のアルトは、本当にいい笑顔をしていた。
俺たちが一度も見せたことのない、心からの信頼と喜びに満ちた笑顔を。
「……ごめんな」
誰にともなく、俺は呟いた。
アルトにか。それとも、壊してしまった聖剣にか。
いや、今さら謝ったところで、声が届くはずもない。
俺たちの声はもう、誰にも、何にも届かないのだ。
「さあ、立てよ『元勇者』様。労働の時間だ」
店主に首根っこを掴まれ、引きずられていく。
かつて世界を救うと予言された俺の末路は、薄暗い酒場の厨房、腐臭漂う残飯処理係だった。
窓の外には、今日も青い空が広がっているのだろう。
だが、俺たちがその青空の下を胸を張って歩く日は、二度と来ない。
俺たちが捨てた、たった一人の少年の背中を、遠く遠く見上げるだけの人生が、ここから始まるのだ。




