第三話 覚醒の契約 ~最強の魔剣は甘えん坊~
青白い燐光が、湿った洞窟の岩肌をぼんやりと照らしている。
ここはダンジョンの最深部よりもさらに奥、地図から抹消された場所『奈落の谷』。
冷たく張り詰めた空気は、生き物の侵入を拒むかのように重くのしかかってくる。
俺、アルトは一歩ずつ、その暗闇の奥へと進んでいた。
普通の冒険者なら、この場に満ちる濃密な魔素にあてられて、数分で意識を失うだろう。Sランクパーティの勇者グレアムたちでさえ、ここに来れば足がすくむかもしれない。
だが、今の俺には不思議と恐怖がなかった。
『……くるな』
頭の中に響く声が、俺を呼んでいる。
いや、拒絶しているようでいて、その実、誰かが来るのを待ち望んでいるような、矛盾した響きを含んでいた。
『私に近づくな……人間……』
『私は呪われている……触れれば死ぬぞ……』
その声は、これまで俺が接してきたどの武具とも違っていた。
『聖剣エクスカリバー』のように傲慢でもない。『聖盾アイギス』のように子供っぽくもない。
それは、あまりにも長い時間を孤独の中で過ごしてきた者だけが持つ、諦念と寂寥に満ちた声だった。
「死ぬとしても、構わないさ」
俺は独り言のように呟いた。
どうせ俺は、パーティを追放され、生きる目的も失った身だ。
レベル5の荷物持ちが、武器もなくこのダンジョンを脱出できる確率はゼロに等しい。ここでのたれ死ぬか、あるいは何かの奇跡に賭けるか。
ならば俺は、この声の主の顔を見てから終わりたいと思った。
洞窟の最奥にたどり着いた時、俺は息を飲んだ。
そこには、巨大な祭壇があった。
祭壇の中央、何重もの太い鎖に縛られ、岩盤に突き刺さっている一本の剣。
それは「剣」と呼ぶにはあまりにも無惨な姿をしていた。
刀身は赤錆に覆われ、刃こぼれし、まるで長い年月をかけて朽ち果てた鉄屑のようだ。
だが、俺のスキル【武具共鳴】は、その錆の下に眠る、太陽よりも熱く、夜の闇よりも深い「魂」の輝きを捉えていた。
『……なぜ来た?』
錆びついた剣から、美しい少女の声が響く。
『愚かな人間よ。ここは神々に捨てられた墓場。私の怨嗟が渦巻く場所。立ち去れ。さもなくば、その命、私の呪いが喰らい尽くすぞ』
脅し文句。
けれど、俺には聞こえていた。
その言葉の裏にある、『お願い、私を見つけて』『私を独りにしないで』という、悲痛な叫びが。
俺はゆっくりと祭壇に近づいた。
「君は、ずっとここで待っていたのか?」
『……!』
「寂しかっただろう。辛かっただろう。こんなに鎖で縛られて……痛かったよな」
俺は祭壇に上がり、鎖の隙間から覗く剣の柄に手を伸ばした。
瞬間、どす黒い波動が俺を弾き飛ばそうとする。
『神殺しの呪い』だ。普通なら触れた指先から腐り落ちるほどの猛毒の魔力。
だが、俺は引かなかった。
今まで、性格の悪い聖剣の癇癪や、賢者の杖の魔力暴走を素手で受け止めてきた経験が、俺の魔力耐性を異常なまでに高めていたのだ。
俺はそっと、そのボロボロの柄を握った。
『っ!? 馬鹿な……なぜ手が腐らない? なぜ正気を保っていられる?』
「慣れてるからな。俺の元・相棒たちは、もっと騒がしかったよ」
俺は苦笑しながら、ポケットから愛用のメンテナンスキットを取り出した。
布とオイル、そして研磨剤。これだけは追放された時も手放さなかった、俺の商売道具だ。
「少し、手入れをさせてくれないか? 君の身体、ひどい状態だ」
『手入れ……だと?』
「ああ。錆が深くまで侵食している。これじゃあ、君本来の輝きが出せない。呼吸をするのも苦しいはずだ」
俺はオイルを布に染み込ませ、赤錆に覆われた刀身を拭き始めた。
優しく、丁寧に。
まるで怪我をした子供の手当てをするように。
『やめろ……汚れるぞ。私は血と死を吸い続けた魔剣だ。清められることなど望んでいない……』
「俺は聖職者じゃないから、清めるなんて高尚なことはできないよ。ただ、君を綺麗にしたいだけだ」
ゴシゴシと錆を落とす。
普通なら落ちない千年の錆だが、俺が触れると、まるで雪解けのように錆が剥がれ落ちていく。
俺のスキルは、単に声を聞くだけではない。武具が「こうしてほしい」と願っている箇所を本能的に理解し、そこに最適な処置を施すことができる。
今のこの剣は、誰かに触れられることを、誰かに手入れされることを、魂の底から渇望していたのだ。
『あ……ぁ……』
少女の戸惑うような吐息が漏れる。
『そこは……だめ……錆が……恥ずかしい……』
「大丈夫。すぐ綺麗になる。……すごいな、君の地肌はこんなに美しい銀色だったんだね」
錆の下から現れたのは、星空を映し取ったかのような、深みのある黒銀の刃だった。
その輝きを見た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。
美しい。
聖剣エクスカリバーなど比較にならない。これは、美術品などというレベルを超えた、一振りの「奇跡」だ。
「名前は? 君に名前はあるのか?」
俺は手を止めずに問いかけた。
剣は少しの間、沈黙した後、震える声で答えた。
『……ブリュンヒルデ』
「ブリュンヒルデ。いい名前だ」
『かつては……神殺しの魔剣と呼ばれ、恐れられた名だ……』
「俺にとっては、世界で一番美しい剣の名前だよ」
その言葉を口にした瞬間だった。
洞窟全体が揺れた。
地震ではない。強大な何かが、俺たちの背後に現れた気配だ。
『グルルルルゥゥゥ……!』
振り返ると、そこには闇そのものが実体化したような、巨大な獣が立っていた。
体長10メートルはある漆黒の狼。『アビス・フェンリル』。
この奈落の谷を守護する番人であり、Sランクパーティが束になっても勝てないと言われる災害級のモンスターだ。
「しまっ……! 匂いを嗅ぎつけられたか!」
俺は身構えるが、武器はない。手にあるのは、まだ錆を落としきれていないブリュンヒルデだけだ。
フェンリルが巨大な口を開け、青白い炎を吐き出そうとする。
『逃げろ、人間! そいつは魔王級の怪物だ! お前の手には負えない!』
ブリュンヒルデが叫ぶ。
だが、俺は柄を握る手を緩めなかった。
「置いていけるかよ」
『なっ……!?』
「やっと名前を教えてくれたのに。やっと綺麗になり始めたのに。ここで逃げたら、俺はただのクズだ!」
俺は恐怖をねじ伏せ、錆びついた剣を構えた。
勝算はない。
けれど、この剣を置いて逃げるくらいなら、ここで死んだほうがマシだ。
俺はもう、誰も見捨てたくない。誰にも、「不要だ」と言わせたくない。
「行くぞ、ブリュンヒルデ! 俺に力を貸してくれ!」
『……っ!』
フェンリルの炎が放たれた。
視界が青白く染まり、死が迫る。
その刹那。
俺の手の中で、爆発的な光が溢れ出した。
『……ああ、もう。馬鹿なマスター』
呆れたような、けれど泣き出しそうなほど愛おしげな声が響く。
『いいでしょう。私の全てを、あなたに捧げます。……契約、承認!』
バキィィィィン!!
俺の手の中で、錆が弾け飛んだ。
刀身を縛っていた鎖が粉々に砕け散る。
溢れ出した闇色の魔力が渦を巻き、迫りくる青い炎を一瞬で飲み込み、消滅させた。
「な……んだ、これは……?」
光が収まると、俺の手には先ほどまでのボロボロの剣ではなく、闇夜を切り取ったような漆黒の長剣が握られていた。
そして、俺の背後から、柔らかい腕が俺の首に回された。
「――やっと会えたね、私のマスター」
耳元で甘い囁き。
驚いて横を見ると、そこには絶世の美女が寄り添っていた。
腰まで届く流麗な銀髪。血のように赤い瞳。喪服のような黒いドレスを纏った、陶器のように白い肌の少女。
彼女が俺の背中にぴたりと身を寄せ、俺の手を包み込むようにして剣の柄を握っている。
「ブ、ブリュンヒルデ……なのか?」
「ええ。あなたが呼び覚ましてくれたのよ、アルト」
彼女は妖艶に微笑むと、俺の頬に口づけをした。
冷たくて、でも熱い感触。
その瞬間、俺の体内に莫大な力が流れ込んでくるのを感じた。
身体能力、魔力、知覚。全てが桁違いの次元へと引き上げられていく。
「さあ、邪魔者を片付けましょうか。私たちの再会を邪魔する不届き者に、罰を与えなくちゃ」
ブリュンヒルデがクスクスと笑う。
俺たちの目の前では、最強の魔獣フェンリルが、本能的な恐怖を感じて後ずさりしていた。
獣の直感が告げているのだ。目の前の存在は、自分などが触れていいものではない、と。
「アルト、ただ振ってくれればいいわ。あとは私が全部やるから」
「わかった……いくぞ!」
俺はブリュンヒルデと共に、剣を振り上げた。
重さを感じない。まるで自分の腕が伸びたかのような一体感。
勇者の聖剣を握っていた時のような「拒絶」は一切ない。むしろ、剣の方から俺の動きに合わせてくれている。
これが……本当の「共鳴」なのか。
「消えろッ!」
俺は横薙ぎに一閃した。
剣技の心得などない、ただの素人の一撃。
だが、その一振りから放たれた衝撃波は、次元を断裂させた。
ズンッ……!
音さえ置き去りにする速度。
黒い斬撃がフェンリルを通過し、その背後にある洞窟の壁、さらにその奥の岩盤までも切り裂いていく。
一瞬の静寂。
次の瞬間、フェンリルの巨体が上下にずれ、音もなく崩れ落ちた。
それだけではない。
後方の壁には、数百メートルに渡って一直線の亀裂が走り、ダンジョンの構造そのものを揺るがしていた。
「……う、嘘だろ……」
俺は呆然と自分の手を見た。
Sランク冒険者でも苦戦する怪物を、たった一振りで?
これが、『神殺しの魔剣』の力……?
「んっ、ふふ……すごい、すごいわマスター! 私の力をここまで引き出してくれるなんて!」
戦闘が終わった瞬間、殺伐とした空気が一変した。
ブリュンヒルデが人の姿に戻り(剣の状態から実体化したのか、剣を擬人化させているのか分からないほど自然に)、俺に正面から抱きついてきたのだ。
「あ、あの、ブリュンヒルデさん? 近い、近いです!」
「『さん』なんていらない! ブリュンて呼んで! ああもう、あなたの魔力、すっごく温かい! 今まで触ってきた人間はみんな欲望でドロドロしてて気持ち悪かったけど、アルトは違う! アルトは最高!」
さっきまでの威厳ある態度はどこへやら。
彼女は俺の胸に顔を埋め、子猫のようにスリスリと頬を擦り付けてくる。
甘い香りが鼻孔をくすぐり、柔らかい感触が全身に伝わってきて、俺はパニック寸前だ。
「ちょ、ちょっと落ち着いて! さっきと言ってることが全然違うぞ!」
「だってぇ、千年も独りだったんだもの! やっと私の声を聞いてくれる人が現れたのよ? しかもこんなに優しく手入れしてくれるし、命がけで守ろうとしてくれるし……もう大好き! 離さないから!」
彼女は赤い瞳を潤ませ、上目遣いで俺を見つめた。
その瞳には、狂気的なほどの親愛と執着が宿っている。
「ねえマスター、私、もう一歩もここから動きたくない。ずっとマスターの腰にぶら下がっていたい。寝る時も一緒。お風呂も一緒。いいでしょ? ね?」
「い、いや、それは流石に……」
「駄目? 私のこと捨てるの? ……あんな勇者みたいに、私を道具扱いするの?」
悲しげに眉を下げる彼女を見て、俺は慌てて首を振った。
「す、捨てない! 絶対に捨てないから!」
「ほんと!? やったぁ! 契約成立ね!」
ブリュンヒルデは満面の笑みを浮かべ、再び俺に抱きついた。
「一生愛してあげるわ、私の可愛いマスター。あの勇者が持ってるナマクラ聖剣なんて目じゃないくらい、私があなたを最強にしてあげる」
彼女の言葉に、嘘は感じられなかった。
俺のスキルが伝えている。彼女の感情は、純度100%の好意と忠誠心だ。
ただ、少し……いや、かなり「重い」かもしれないけれど。
こうして俺は、最強にして最恐、そして超甘えん坊な魔剣ブリュンヒルデと契約を結んだ。
これが、世界を揺るがす「魔王」と「魔剣」のコンビが誕生した瞬間だった。
「さて、行きましょうかアルト。まずは地上に戻って、美味しいご飯が食べたいな。あ、もちろんあーんしてよね?」
「……善処します」
俺たちは崩壊した洞窟を背に、出口へと歩き出した。
以前のパーティにいた時のような疲労感はない。
背中に感じる温もりと、圧倒的な全能感が、俺の足取りを軽くしていた。
地上では、俺を追放した勇者たちがどんな目に遭っているか。
今の俺は知る由もない。
だが、ブリュンヒルデが時折漏らす、「あの聖剣、今頃ガタガタ震えてるでしょうねぇ」という含み笑いが、これから起こる波乱を予感させていた。




