第二話 崩壊の序曲 ~聖剣、ストライキを決行する~
アルトの背中が闇の奥へと消えてから、数分が経過した。
Sランクパーティ『栄光の翼』の野営地には、奇妙なほど明るい空気が流れていた。まるで、長年こびりついていた汚れが落ちたかのような、清々しさすら感じられる雰囲気だ。
「あー、せいせいした! いやあ、空気が美味いな!」
勇者グレアムは、大げさに両手を広げて深呼吸をした。
金色の髪がテントから漏れる魔法の明かりに照らされ、自信に満ちた表情を浮かべている。
「本当ね。あんな陰気な荷物持ちがいなくなるだけで、こんなに気分が晴れるなんて。もっと早く追い出しておけばよかったわ」
魔法使いのミリアが、長い杖を弄びながら同意する。彼女は自身の美貌を鼻にかけているところがあるが、今日は一段と機嫌が良さそうだ。
重戦士ガストンも、焚き火に残った肉を豪快に齧りながら頷いた。
「違いない。あの野郎、いつもボソボソと武器に話しかけやがって、気味が悪かったんだ。こっちまで調子が狂うってもんだぜ」
「神も祝福しておられます。私たちの前途は洋々ですね」
聖女セレスティアが穏やかに微笑む。
彼らの中に、罪悪感など微塵も存在しない。あるのは、自分たちこそが選ばれた勇者であり、足手まといを排除したことでパーティは完成された、という傲慢な確信だけだった。
「さて、と。邪魔者も消えたことだし、早速行くか。この階層の主を狩って、地上に戻ったら祝勝会だ」
グレアムが立ち上がる。
本来なら、ボス戦の前には入念な装備点検が必要だ。いつもならアルトが「剣の刃先が少し摩耗しています」「盾のグリップが緩んでいます」と細かくチェックし、万全の状態に仕上げてくれていた。
だが、今の彼らにそんな懸念はない。
自分たちは最強だ。多少のメンテナンス不足など、圧倒的な才能とレベルでねじ伏せられると信じているからだ。
「準備はいいな? 俺について来い。伝説を作るぞ」
グレアムが先頭に立ち、野営地を出る。
目指すは第45階層の奥に鎮座するボス部屋。
道中に出現する雑魚モンスターなど、彼らにとっては準備運動にもならないはずだった。
異変は、すぐそこに迫っていた。
◇
通路を進んで十分ほど。
石畳の回廊の前方から、低い唸り声と共に三体の巨大な影が現れた。
『レッド・オーガ』。
真紅の皮膚と筋肉の塊のような巨体を持つ、上位種の鬼だ。一般的な冒険者なら逃げ出す相手だが、Sランクパーティにとっては格下の相手に過ぎない。
「はん、雑魚がお出ましか。ちょうどいい、新しい剣技の試し斬りにしてやる」
グレアムは不敵に笑い、腰に帯びた聖剣エクスカリバーの柄に手をかけた。
普段なら、ここで流れるような動作で抜刀し、瞬きする間に敵の首が飛んでいる場面だ。
彼はいつものように、軽く、しかし力強く柄を握り――引き抜こうとした。
ガキンッ。
硬質な音が響いた。
剣が抜けない。
まるで鞘の内側に強力な接着剤でも流し込まれたかのように、聖剣は鞘に収まったまま微動だにしなかった。
「……あ?」
グレアムは眉をひそめた。
力が足りなかったのか? いや、そんなはずはない。
彼は再び力を込める。腕の筋肉が隆起し、血管が浮き出る。
「ぬ、ぬぅんッ! ……な、なんだ!? おい、抜けろよ!」
ガチガチガチ。
鞘と鍔がぶつかり合う音だけが虚しく響く。
目の前では、レッド・オーガたちが獲物を見つけた喜びで雄叫びを上げ、棍棒を振り上げて突進を開始していた。
「グレアム、何遊んでるのよ! 早くやりなさいよ!」
背後でミリアが叫ぶ。
焦りがグレアムの額に脂汗として滲み出る。
なぜだ。今までこんなことは一度もなかった。アルトが手渡してくれる時は、指一本で抜けるほど滑らかだったはずだ。
「くそっ、整備不良か!? あの役立たず、最後に嫌がらせをしやがったな!」
グレアムは両手で柄を握り、全体重をかけて強引に引き抜こうとした。
その時だった。
ジュッ……!
「あ、熱っ!?」
掌に、焼きごてを押し当てられたような激痛が走った。
聖剣の柄が、異常なほどの高熱を発していたのだ。
それは物理的な熱だけでなく、魔力による拒絶の熱だった。
「ぐ、あああああああッ!!」
たまらず手を離す。
見ると、グレアムの両掌は赤くただれ、皮がめくれて煙を上げていた。
剣が熱を持つなど聞いたことがない。ましてや、聖なる加護を持つエクスカリバーが、持ち主である自分を傷つけるなどあり得ない。
「な、なんだこれは……手が、俺の手が……!」
「グガァァァッ!」
混乱するグレアムに、先頭のオーガが迫る。
太い丸太のような棍棒が、脳天めがけて振り下ろされた。
武器が抜けない以上、防御もできない。
「グレアム様ッ! ガストン、守って!」
セレスティアの悲鳴に近い指示が飛ぶ。
重戦士ガストンが舌打ちと共に前に出た。
「ちっ、しょうがねぇな! 俺に任せろ!」
ガストンは自慢の大盾『アイギス』を構え、オーガの攻撃を受け止めようとした。
この盾は、敵の攻撃エネルギーを自動的に分散させ、衝撃をゼロにする能力を持っている。だからガストンは、いつものように棒立ちで、適当に盾を掲げただけだった。
本来なら、盾自身が角度を微調整し、最適な受け流しを行ってくれるからだ。
だが、今のアイギスにそんな義理はない。
『知るかよ。勝手に潰れろ、筋肉ダルマ』
そんな声が聞こえた気がした直後――。
ドゴォォォォンッ!!
「ぐぼぇっ!?」
凄まじい衝撃音が響き渡った。
衝撃分散など一切発動しなかった。オーガの怪力が、まともにガストンの腕と体を襲ったのだ。
骨がきしむ嫌な音と共に、ガストンの巨体が دم毬のように吹き飛ばされ、壁に激突する。
「が、はっ……う、嘘だろ……なんで、衝撃が……」
ガストンは壁からずり落ち、左腕を押さえて呻いた。盾は重く、まるで鉛の塊のように左腕にのしかかっている。
いつも感じていた浮遊感のようなアシスト機能が、完全に停止していた。
前衛二人が一瞬で無力化された。
この異常事態に、後衛のミリアは顔面蒼白になった。
「な、なんなのよあんたたち! しっかりしなさいよ!」
「ミリア、魔法を! 早く!」
セレスティアに促され、ミリアは震える手で『賢者の杖』を構えた。
「も、もう! 私がやるしかないじゃない! 消し飛びなさい、下等生物! 『エクスプロージョン・ファイア』!」
彼女は最大火力の爆裂魔法を詠唱し、杖にありったけの魔力を流し込んだ。
この杖は、術者の魔力効率を最大化し、どんな雑な魔力操作でも完璧な術式に変換してくれる最高級品だ。
ミリアの魔力操作は実は荒っぽいのだが、いつも杖が尻拭いをしてくれていたのだ。
だが、今は違う。
杖の内部で、魔力が乱流を起こす。
『汚い魔力を流すな!』という拒絶の意思と共に、杖の先端で魔力が詰まった。
キィィィィン……!
嫌な高音が鳴り響く。
ミリアが「え?」と声を漏らした瞬間。
ボォォォォォンッ!!
魔法が放たれる前に、杖の先端で魔力が暴発した。
至近距離での爆発。
黒煙が巻き上がり、ミリアの体が後方へ吹き飛んだ。
「きゃあああああッ!!」
地面に転がったミリア。
その姿を見て、セレスティアは息を飲んだ。
サラサラだった自慢の栗色の髪は、爆発でチリチリのアフロヘアのように逆立ち、顔は煤で真っ黒になっていた。高級なローブも焦げ跡だらけだ。
「わ、私の髪……! 私の顔がぁぁぁッ!」
「う、嘘……Sランクパーティが、たかがオーガ相手に……」
セレスティアは震えが止まらなかった。
前衛は怪我を負い、魔法使いは自爆。
残るは自分だけ。だが、彼女は回復魔法しか使えない。
オーガたちは、目の前の獲物が意外なほど弱いことに気づき、嗜虐的な笑みを浮かべて包囲を狭めてくる。
死の恐怖。
今まで感じたことのない、圧倒的な「弱者の絶望」が彼らを襲う。
「ひっ……くるな、くるなぁ!」
グレアムは腰を抜かし、地面を這いずりながら後退った。
両手は激痛で使い物にならず、頼みの聖剣は鞘の中で沈黙している。
いや、沈黙ではない。鞘越しに伝わってくるのは、明確な「殺意」だ。
『お前なんかに使われるくらいなら、ここで朽ち果ててやる』という、強烈な拒絶。
なぜだ。どうして急にこうなった。
今まであんなにスムーズに動いてくれていたじゃないか。
俺が天才だから、俺が選ばれた勇者だから、従っていたんじゃないのか。
脳裏に、アルトの言葉が蘇る。
『エクスカリバー様は本当に繊細な方でして……』
『俺が毎日声を聞いて、コンディションを整えているからこそ……』
「あ、あいつ……まさか、本当に……」
グレアムの脳裏に、認めたくない事実が過った。
だが、それを認めることは、自分の全存在を否定することになる。
プライドが、現実を受け入れることを拒絶した。
「ち、違う! これは呪いだ! あいつが去り際に呪いをかけていきやがったんだ!」
グレアムは狂ったように叫んだ。
そう思わなければ、精神が崩壊しそうだったからだ。
「退却だ! セレスティア、転移水晶を使え! 早くしろ!」
「は、はいっ!」
セレスティアは懐から高価なマジックアイテム、緊急脱出用の水晶を取り出した。
一個で家が一軒買えるほどの代物だが、今は背に腹は代えられない。
水晶を砕くと、光がパーティを包み込む。
オーガの棍棒が振り下ろされる寸前、彼らの姿はその場から消滅した。
◇
命からがらダンジョンの入り口付近まで転移した一行は、泥のように地面にへたり込んだ。
通りがかった他の冒険者たちが、ボロボロになったSランクパーティの姿を見て、ぎょっとして立ち止まる。
「お、おい、あれ『栄光の翼』じゃないか?」
「なんであんなボロボロなんだ? 階層主と戦ったのか?」
「いや、なんか焦げ臭いし、女の魔法使い、髪がすごいことになってるぞ……」
ひそひそ話が聞こえてくる。
屈辱だった。
今まで羨望の眼差しで見られていた自分が、見世物のように哀れまれている。
ミリアは顔を覆って泣き出し、ガストンは痛みに顔を歪めている。
グレアムは、ただれた両手を見つめ、ギリギリと歯を食いしばった。
「アルト……アルトォォォッ!!」
怒りと憎悪が腹の底から湧き上がってくる。
自分の無能さを棚に上げ、全ての責任を追放した少年に転嫁する。
そうでなければ、立っていられなかった。
「許さん……絶対に許さんぞ。俺たちにこんな恥をかかせやがって……!」
彼らはまだ気づいていない。
これが一時的な不調ではなく、終わりの始まりであることを。
そして、彼らが捨てた「荷物持ち」が、どれほど偉大な存在であったかを、これから嫌というほど思い知らされることになるのだ。
◇
一方その頃。
勇者たちの転落劇など知る由もないアルトは、ダンジョンの未踏破エリア、通称『奈落の谷』の底を歩いていた。
地上へ戻るルートを探しているうちに迷い込んだ、地図にも載っていない場所だ。
じめじめとした空気。どこからともなく聞こえる不気味な水音。
だが不思議と、アルトの心は落ち着いていた。
「……静かだ」
以前なら、常に頭の中で誰かしらの声が響いていた。
『腹減った』『寒い』『磨き方が悪い』『勇者がウザい』。
そんな武具たちの不平不満の合唱がない世界は、アルトにとって初めての体験だった。
リュックの重みだけが、心地よい負荷となって体に伝わる。
一人だ。
守るべきものも、機嫌を取るべき相手もいない。
自分の命だけを管理すればいい。
「意外と、悪くないな」
アルトは懐から安物のナイフを取り出した。
勇者たちの装備に比べれば、なまくらで、何の魔力も宿っていないただの鉄屑だ。
だが、そのナイフはアルトの手の中で、不思議なほど馴染んでいた。
『……おや?』
ふと、微かな声が聞こえた気がした。
ナイフからではない。もっと奥、この谷の最深部から響いてくる声だ。
『誰か……そこにいるのか?』
それは、今まで聞いたどの武具の声とも違っていた。
わがままでもなく、傲慢でもない。
深く、澄んでいて、けれど底知れない孤独と哀しみを湛えた、鈴を転がすような少女の声。
アルトのスキル【武具共鳴】が、その声の波動を捉えていた。
勇者たちの武具の声が「ノイズ」だとしたら、この声は「歌」のようだった。
「誰だ?」
『私の声が、聞こえるの?』
声に驚きの色が混じる。
アルトは足元の悪さを気にせず、声のする方へと歩き出した。
本能が告げていた。
この出会いが、自分の運命を大きく変えることになる、と。
「ああ、聞こえるよ。君はどこにいる?」
『ずっと奥……暗い暗い、封印の檻の中。もう千年も、誰も訪れなかった場所』
千年の封印。
普通なら警戒すべき言葉だ。封印されているということは、それだけ危険な存在だということだからだ。
だが、アルトに恐怖はなかった。
その声があまりにも寂しそうで、放っておけないと感じたからだ。
あるいは、パーティを追放され、孤独になった今の自分と、どこか重なるものを感じたのかもしれない。
「待っててくれ。今、行くから」
アルトは歩調を早めた。
谷底の闇の先、青白い燐光が漏れ出している洞窟の入り口が見えてくる。
そこには、かつて世界を滅ぼしかけ、神々によって封印されたといわれる『神殺しの魔剣』が眠っていた。
勇者が聖剣に見放されたその日。
追放された荷物持ちは、最強のパートナーと巡り会う。
逆転の歯車が、静かに、しかし確実に回り始めた瞬間だった。




