第一話 別れは突然に ~聖剣の罵倒を翻訳する男~
焚き火の爆ぜる音が、静寂に包まれたダンジョンの暗闇に吸い込まれていく。
湿り気を帯びた石壁に囲まれた第45階層のセーフティエリア。Sランクパーティ『栄光の翼』の野営地には、張り詰めた空気が漂っていた。
勇者や賢者といった主力メンバーたちが高級な魔法テントの中で眠りについている中、俺、アルトは見張り番を兼ねて、ひとり焚き火の前で作業を続けている。
手元にあるのは、世界を救うと予言された勇者だけが扱えるという至高の武器、『聖剣エクスカリバー』だ。
白銀の刀身は焚き火の明かりを反射して美しく輝いているが、その実態は、俺にしか分からない「最悪の性格」を秘めていた。
『おい、雑用。そこじゃねえよ。もっと鍔の裏側を丁寧に磨けって言ってんだろ。あーあ、マジで最悪だ。今日のオークの脂、まだ残ってる感じがするわ』
脳内に直接響いてくる不機嫌なバリトンボイス。
俺はため息を殺し、最高級の磨き布に専用のオイルを染み込ませて、聖剣が文句を言っている箇所を丹念に拭った。
「すみません、エクスカリバー様。これでどうですか?」
『ちっ……まあ、さっきよりはマシか。つーかさぁ、あの勇者、マジで手汗キモいんだけど。今日とか必殺技の溜め動作の時、無駄に力んでグリップ握りしめてきやがって。俺の柄は握力トレーニングの道具じゃねえんだよ』
「グレアム様も必死だったんですよ。階層主相手でしたから」
『知ったことかよ! 俺、潔癖なんだっつの。次にベタベタ触ってきたら、手首ごと焼き切ってやるからな』
物騒なことを平然と口にするこの聖剣をなだめるのが、俺の毎晩の仕事だ。
俺には【武具共鳴】というユニークスキルがある。
戦闘能力は皆無だが、武器や防具に宿る「自我」の声を聞き、意思疎通ができるという地味極まりない能力だ。
この世界において、強力な伝説級の武具ほど、長い年月を経て強烈な自我を持っている。そして厄介なことに、そのほとんどが人間のことを「単なる道具」や「運搬係」程度にしか思っていない。
『だいたい、あの勇者は剣筋も雑なんだよ。俺の切れ味に頼りすぎて、刃の角度とか適当すぎ。俺がインパクトの瞬間に微妙に軌道修正してやってるの、絶対気づいてねえだろ?』
「ええ、まあ……グレアム様はご自身の才能を信じておられますから」
『才能? 笑わせんな。俺がお前の頼みを聞いてやってるから攻撃が当たってるだけだろ。お前がいなきゃ、あんなナルシストの攻撃なんざ全部空振りだっつの』
聖剣はそう吐き捨てると、ふんと鼻を鳴らすような気配を見せた。
俺は苦笑しながら、手入れの終わった聖剣をそっと鞘に収める。
勇者グレアムが「俺の剣技が神域に達した」と豪語できるのは、実のところ、俺が毎日こうして聖剣の愚痴を聞き、機嫌を取り、「明日もなんとか力を貸してやってください」と頭を下げているからに他ならない。
ふぅ、と一息ついたところで、今度は背後に立てかけてあった巨大な盾がガタガタと震え出した。
パーティの守りの要、『大地の聖盾アイギス』だ。
『ねえー、アルトくーん。僕もう帰りたいー。重いー。痛いー』
「アイギス、明日もまだ探索は続くんだ。頑張ってくれ」
『やだやだやだ! 今日のミノタウロスの斧、めっちゃ痛かったし! タンク役のガストンのおっさん、受け流し下手くそなんだもん。全部僕の表面で受け止めやがって。塗装ハゲたらどうすんのさ!』
「あとでコーティング剤を塗ってあげるから」
『高級なやつにしてよね? あと、明日は絶対動かないから。地面に根を張ってテコでも動かないからね』
今度は駄々っ子のような盾の説得だ。
さらにその横では、賢者の杖がヒステリックな甲高い声を上げ始める。
『キーッ! 聞いてよアルト! 今日の魔法使いの小娘、また魔力操作ミスったわよ! 私の回路がショートするかと思ったじゃない! ああもう、イライラする! 次に変な魔力流してきたら、ファイアボールをパーティのど真ん中で暴発させてやるわ!』
頭が痛くなってくる。
Sランクパーティ『栄光の翼』。その華々しい戦果の裏側には、こうして毎晩、反乱寸前の武具たちを必死になだめすかす、俺という犠牲者が存在しているのだ。
彼らは俺以外の人間の声を聞こうとしないし、俺以外の人間が触れることを極端に嫌う。
だから俺は、荷物持ち兼・装備係として、このパーティになくてはならない存在……のはずだった。
ガシャッ。
背後で乱暴な足音が響き、俺の思考は中断された。
振り返ると、豪奢な金髪をかき上げた男、勇者グレアムが不機嫌そうに立っている。
その整った顔立ちは、今は苛立ちに歪んでいた。
「おい、雑用係。いつまでカチャカチャと音を立てている?」
冷ややかな声。
俺は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「申し訳ありません、グレアム様。聖剣の手入れが長引いてしまって……今日はずいぶんとご機嫌斜めだったもので」
「はあ? 剣の機嫌だと?」
グレアムは鼻で笑った。
彼には武具の声など聞こえない。俺のスキルについても「装備の状態がなんとなく分かる程度のハズレスキル」としか認識していないのだ。
「道具に感情などあるわけがないだろう。お前はいつもそうだ。自分の作業が遅いのを、オカルトじみた言い訳で誤魔化そうとする」
「いえ、決してそのような……エクスカリバー様は本当に繊細な方でして、グレアム様の手の脂が気になると仰っていたので、念入りに拭き取りを」
ドガッ!
鈍い音が響き、俺の腹部に鋭い痛みが走る。
グレアムの爪先が、俺の鳩尾に深々と突き刺さっていた。
「がっ……!?」
「口答えをするな、無能が」
俺は地面に転がり、咳き込んだ。
肺から空気が強制的に押し出され、視界が明滅する。
Sランク冒険者の身体能力による蹴りは、防具をつけていない俺にとっては致命傷になりかねない威力だ。
『おい! 何してんだあの馬鹿! 俺の専属メンテナンス係になんてことしやがる!』
『アルトくん!? 大丈夫!? うわ、あの勇者サイテー!』
『ちょっと、あいつ燃やしていい!? 今すぐ黒焦げにしていい!?』
脳内で武具たちが激昂し、殺気立った声を上げる。
だが、その声はグレアムには届かない。
彼は倒れ伏す俺をゴミを見るような目で見下ろし、懐から一枚の羊皮紙を取り出して俺の顔の前に放り投げた。
「……なんだ、これは?」
「契約解除通知だ。アルト、お前をこのパーティから追放する」
痛みを堪えながら顔を上げると、グレアムは残忍な笑みを浮かべていた。
テントの入り口からは、騒ぎを聞きつけた他のメンバーたちも顔を出している。
魔法使いの少女ミリアと、重戦士のガストン、そして聖女のセレスティア。
彼らの視線もまた、冷ややかなものだった。
「つ、追放……? いきなり何を」
「いきなりではない。ずっと考えていたことだ」
グレアムは自慢の金髪を指で弄りながら、淡々と告げる。
「お前はレベルが低すぎる。俺たちはもうレベル60を超え、神域に足を踏み入れようとしている。だがお前はどうだ? いつまで経ってもレベル5のままだ」
「それは……俺には戦闘スキルがないから……」
「だから不要なんだよ。お前がいると、分配される経験値が無駄になる。それに、Sランクパーティに『ただの荷物持ち』がいること自体、外聞が悪い」
俺は必死に言葉を探した。
確かに俺は戦えない。だが、貢献していないわけではないはずだ。
「でも、誰が装備の手入れをするんですか? 皆さんの武具は、普通の鍛冶師では扱えません。俺が毎日声を聞いて、コンディションを整えているからこそ……」
「まだそんな妄想を言っているのか」
呆れたように溜息をついたのは、魔法使いのミリアだった。
彼女は俺の方を見ることなく、自分の杖を愛おしそうに撫でながら言う。
「アルトさん、勘違いしないでください。私の杖が調子いいのは、私の魔力コントロールが完璧だからです。あなたが布で拭いているからじゃありません」
『はああ!? ふざけんじゃないわよ、このド下手くそ娘! あんたの魔力が汚いから、私が必死に浄化してんのよ! アルトがいなくなったら、あんたなんか三流魔術師以下よ!』
杖の罵倒が響くが、ミリアは得意げな顔で言葉を続ける。
「それに、あなたがそばにいると気が散るんです。魔力の質が低すぎて、ノイズになるというか……生理的に無理、と言った方がわかりやすいですか?」
「そ、そんな……」
重戦士のガストンも、腕を組んで頷いた。
「俺も同意見だ。盾が最近重く感じるのは、お前の手入れが悪いからだろう。もっと腕のいい鍛冶師を雇った方が、パーティの生存率は上がる」
『違うよ! 重くしてるのは僕だよ! おっさんの汗が臭いから離れたくてわざと重くしてるんだよ! 気づけよ筋肉ダルマ!』
盾の悲痛な叫びも虚しく、ガストンは俺を睨みつける。
最後に、癒やしの聖女であるセレスティアが、申し訳なさそうな、しかし決定的な言葉を口にした。
「ごめんなさい、アルトさん。神託により、これからの戦いには『選ばれた者』のみが必要と出ました。あなたの存在は……その、不純物なのです」
不純物。
その言葉が、胸に深く突き刺さった。
俺は幼馴染だった彼らと、故郷の村を一緒に出た。
最初はみんな弱くて、装備もボロボロで。
それでも俺は、彼らが少しでも楽に戦えるように、なけなしの金で買った手入れ道具で、毎日毎日、彼らの武器を磨き続けた。
夜も寝ずに武具たちの愚痴を聞き、説得し、時には自分の血を捧げて契約の魔力を補填したこともあった。
『俺のおかげで勝てた』などと言うつもりはない。
でも、少なくとも仲間だと思っていた。
共に夢を追う、対等なパートナーだと信じていた。
だが、彼らにとって俺は、ただの便利な、そして今はもう不要になった「道具」以下だったのだ。
俺の中で、何かが冷えていくのを感じた。
怒りや悲しみを通り越して、乾いた諦めのような感情が心を満たしていく。
「……わかりました」
俺はふらりと立ち上がった。
腹部の激痛はまだ引かないが、これ以上ここにいて、彼らに情けをかける必要はないと悟ったからだ。
「俺が出ていけば、満足なんですね」
「ああ。手切れ金くらいはくれてやる。とっとと失せろ」
グレアムが革袋を投げ捨てる。中からは小銭が触れ合うジャラジャラという音がした。Sランクパーティの報酬とは思えない、子供の小遣い程度のはした金だ。
俺はそれを拾うことなく、自分の荷物だけをまとめた。
背中のリュックひとつ。それが俺の全てだ。
「忠告だけはしておきます。その装備……特にエクスカリバー様は、本当に気難しい方です。俺がいなくなれば、今まで通りには扱えないと思いますよ」
「はん、負け惜しみか? 伝説の聖剣が使い手を選ぶなら、それは俺しかいない。お前のような無能が触っていたこと自体が、聖剣にとっては屈辱だっただろうよ」
グレアムは嘲るように笑い、聖剣の柄に手をかけた。
『やめろ! 触んな! 汚い! アルト、行くな! 俺を置いていくな! こいつら皆殺しにしていいから、俺を連れてってくれよぉ!』
聖剣の絶叫が脳内に響き渡る。
かつてないほどの拒絶反応。
俺がここを去れば、間違いなく「何か」が起こるだろう。
だが、もう俺には関係のないことだ。
俺は聖剣の声を聞かなかったことにした。
いや、聞く資格を剥奪されたのだ。
「そうですか。では、お元気で」
俺は最後に一度だけ彼らを見渡し、踵を返した。
ミリアやガストン、セレスティアの顔には、厄介払いができたという安堵の色が浮かんでいる。
誰も、俺を引き止めようとはしなかった。
『アルト! アルトーーっ! 嘘だろ!? 本気で見捨てるのか!?』
『やだやだ、アルトくん行かないで! 僕、明日から誰に磨いてもらえばいいの!?』
『ちょっと! 私のメンテナンスはどうなんのよ! この小娘の魔力、もう一秒だって我慢できないわよ! 戻ってきなさいよ!』
武具たちの悲鳴と罵倒が背中に突き刺さる。
胸が痛まないと言えば嘘になる。
彼らとは、ある意味でパーティメンバー以上の時間を共に過ごしてきた。
ワガママで、性格が悪くて、でもどこか憎めない相棒たち。
けれど、俺はその契約者ではない。
彼らの持ち主は、あの勇者たちなのだ。
俺は暗闇の広がるダンジョンの通路へと足を踏み出した。
一歩、また一歩と進むごとに、焚き火の明かりが遠ざかっていく。
『おいコラ勇者! アルトを呼び戻せ! 今すぐ土下座して連れ戻せ! じゃなきゃ俺はもう二度と協力しねえからな!』
『うわああああん! アルトくーーん!』
断末魔のような声が、脳内スキルを通じて微かに聞こえ続ける。
俺はスキルを【OFF】にした。
フッ、と頭の中が静寂に包まれる。
それは久しぶりに訪れた、誰の愚痴も聞こえない、完全なる静寂だった。
「……静かだな」
独り言が、冷たい通路に吸い込まれる。
これからどうやって生きていくか、当てもない。
このダンジョンを一人で抜けることすら、レベル5の俺には至難の業だ。
それでも、あの場所にいるよりはマシだと思った。
俺は知らなかった。
俺が去った直後、野営地で何が起きたのかを。
グレアムが勝利の美酒に酔おうと聖剣を掲げようとした瞬間、剣が赤熱し、彼の手のひらを焼き尽くしたことを。
盾が地面に癒着して二度と持ち上がらなくなったことを。
杖が暴走し、ミリアのアフロヘアを焦がしたことを。
そして、この暗闇の先に、俺の運命を変える「彼女」との出会いが待っていることを。
今はただ、ただの荷物持ちに戻った俺が、重いリュックを背負って歩き続ける足音だけが、ダンジョンに響いていた。




