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03-3.イアン・セーゲル③

長めです




 四日後は休息日だった。空は灰色の分厚い雲で覆われ、ここ十日ほどの中では一番寒い日だった。イアンは少し早めに目を覚まし、いつもより少し丁寧に身だしなみを整えた。食堂へ降りるとちょうどヘレンが朝食をテーブルに並べているところで、香ばしいパンの香りが鼻をくすぐった。

 イアンより先に食堂にいたのはアリシアだけで、部屋着に藤色のカーディガンを羽織ったままコーヒーを片手に朝刊を読んでいるところだった。


「おはよう、アリシア。休みなのに早いんだね」

「おはよう、イアン。伯母さまが来ていて、一緒にお芝居に行く約束をしているの」


 化粧をしていないアリシアはいつもより幼く見える――こともなく、猫のような瞳が輝く華やかな雰囲気は損なわれていない。パンにサラダ、ハムエッグ、それからマグカップに入ったポタージュを皿に乗せて、イアンはアリシアの向かいに座った。彼女が読んでいる朝刊の順番待ちのためだ。


「午後の公演だけど、早めに行こうと思って――ホテルでブランチをごちそうしてくれるって言うし」


 差し出された朝刊をイアンは受け取った。


「あなたも随分早いじゃない? 休みはいつももう少し遅いでしょう?」

「僕も予定があるんだ」

「ふーん、そんなにおしゃれをするような()()ねぇ」

「僕にそんなにおしゃれするような予定があったらおかしいかい?」

「そうは思わないけど。あなたってそれなりにモテるみたいだし。わたしも時折紹介して欲しいって頼まれるもの」

「まさかしようとしてる?」

「してないわよ。あなたにいいか聞かずにそんな勝手なことはしないわ」


 イアンはやれやれと息を吐いた。もっとも、アリシアはその辺りきちんとしてくれるだろうという信頼もあった。


「それで、予定のお相手は?」


 絶対に詮索してくるだろうという信頼もあるが。


「婚約者だよ」


 誤魔化す必要も感じず、イアンはさらりとそう告げた。


「婚約者? あなた、今どき婚約者なんているの? フランクだっていないのに!」

「フランクはそうだろうね。彼は何というか……人間関係に慎重なところがあるから」

「物は言いようね」

「慎重なのはそう悪いことじゃないよ」


 アリシアから受け取った朝刊のゴシップ面にはイアンも知っている名家の令息の恋愛模様について書かれていた。いつの時代も、上流階級の色恋沙汰は人々の興味を引くのだろう。 フランク・ローラントも上流階級の人間だ。この新聞に小さく写真が載っている令息よりもずっとその中心に近い。色々なことに慎重になるのも仕方のないことだった。


「まあ、フランクはちょっと慎重さにかけるようになった気もするけど」


 アリシアは口元にからかうような笑みを浮かべた。


「今日だって、早くにわたしを迎えに来るって言うのよ。休息日だからキティは朝からアルバイトの可能性が高いし……わかりやすいわよね」

「君の早起きはブランチだけが理由じゃないんだね」


 ちょうどキティが食堂にやって来たので二人は話題を切り上げた。食事をしたらすぐに出かけるつもりなのだろう。アリシアと違ってしっかりと身支度を整え、鞄を持っている。


「おはよう、キティ。休みなのに早いのね」

「……お、おはよう」


 まだひと呼吸が必要そうだったが、この頃はキティもこうして会話をするようになっていた。目を合わせるのは相変わらず苦手そうだったが、彼女には不思議とこちらの話をしっかりと聞いてくれているという安心感があるからかそれほど気にはならなかった。


「今日もアルバイトなの?」


 パンとサラダ、スープと紅茶を取って席に着いたキティにアリシアはつづけてたずねた。


「うん……それに、できたら大学にも寄りたくて……」

「休息日に?」

「研究室の、プランターの様子を、見に行こうと思ってるの」


 丁寧に言葉をつむぎながらもキティはきちんと食事を進めていた。早めにメルグール荘を出る予定だったのだろう。元々食べる量も多くないからすぐに食事を終え、朝刊は植物園で見ればいいからと遠慮してキティは席を立った。


「あの、アリシアのカップも持って行く……?」

「大丈夫よ」

「食器なら置いて行っていいよ。僕が後でまとめてキッチンに持って行くから」

「でも、そんな……悪いわ」


 眉を下げるキティにイアンは首を振った。自分ももうすぐ食べ終わるし、アリシアのカップを入れたって大した食器の数じゃなかった。なおも遠慮するキティとイアンはしばらく押し問答をしていたが、見かねたアリシアが「こういう時は」と口を挟んだ。


「遠慮せずにお願いしたらいいのよ」


 キティが次の言葉を口にする前に、しっかりと自分の分の朝食を食べ終えたイアンは彼女の食器と自分の食器を重ねてしまった。彼女が申し訳なさそうにしているのに微笑んで、アリシアの「こういう時は“ありがとう”、よ」という言葉通りにお礼を言ったキティに「どういたしまして」と返した。


 出かけるキティと一緒に食堂を出たのと同時に玄関の呼び鈴が響いた。階下から足音を立ててヘレンがやってきてひとり言のように「はいはい、どちら様でしょうね」としゃべりながら扉を開けると、いつもよりきちんと髪型をセットしたフランクが立っていた。アリシアを迎えに来たのだろう。思わずとなりにいるキティの横顔を見ると、彼女は驚いて目を丸くしていた。


「早いのね、フランク」


 ヘレンに呼ばれたアリシアが食堂から顔をのぞかせた。


「まだ着替えていないの。ちょっと待ってて欲しいのだけれど――キティ、時間が大丈夫そうならフランクの相手をしていてくれない?」

「えっ? わ、わたし……でも、イアンくんが――」

「僕はこれを片づけたらすぐ出ないといけないんだ」


 時間に余裕はあったが、イアンは咄嗟にそう口にしていた。フランクからの視線が突き刺さったが、たまにはこういうことがあってもいいだろう。


 食器を運び、すぐに玄関に向かう気にはなれなくて、イアンはヘレンのおしゃべりに少しだけつき合い、ついでに夕食のメニューについてリクエストをした。彼女は基本的に何でも作れるので、食べたいメニューを言えば数日後の夕食に並ぶのだ。

 イアン自身も出かける予定があるので頃合いを見はからって玄関に向かう。フランクとキティがまだ話しているか、それともキティが出かけてしまってフランクが一人さみしく立っているかどちらかだろうと思っていたのに、張りつめたような雰囲気が漂っていてイアンは眉をひそめた。


「君は――随分と無礼だな、君は」


 静かだがはっきりとしたフランクの低い声が響いた。玄関の扉を開けたままフランクとキティは話をしていたらしいが、なぜかそこにリチャードもいた。おそらく朝食のために一階に降りてきて、二人が話しているのを見つけたのだろう。リチャードがどんな風に二人に絡んでいったのか、聞いていなくても予想はできた。フランクの表情は誰も寄せ付けない氷のような雰囲気をまとった無表情になっていたし、その傍でキティが困惑しきった顔で立ちすくんでいたからだ。


 神秘的な紫色の瞳が、高圧的にリチャードを見下ろした。誰の目から見ても明らかにリチャードが怖気づいたのがわかったが、無謀にも彼は己の態度を改めることなくフランクに向かい合った。


「ひ、非常識な君に言われたくはないな」


 精いっぱい高圧的に発した言葉も、フランクの前ではすっかり見劣りしてしまう。どうしたってリチャードの上から目線な態度はただただ不快感が付きまとい、フランクのように誰かを恐れさせる力がないのだ。

 

「非常識だって?」

「そうさ。ガスリーと付き合ってるのにテナントにもなれなれしくして二人に失礼だと思わないのか?」

「つき合ってる? アリシアと僕が?」

「誤魔化そうとしたって無駄さ」


 ついこの間、イアンもそのことをきっぱりと否定したのに。きっと今、自分はフランクと同じようにあきれた視線をリチャードに向けている。しかしそのことについて口を挟めば余計に大事になるような気がして、イアンは口を閉じたままでいた。フランク自身がどうにかするだろう。


「どうして大して知りもしない君に対してそんな誤魔化しをする必要があるんだ? 僕らが恋人同士だなんてありえない」


 後半はむしろ傍らにいるキティに聞かせたかったのだろう。噛んで含めるように告げ、「僕らは」とつづけようとした言葉はしかし、ちょうど身支度を終えて階段を降りてきたアリシアによって遮られてしまった。


「何をしているの? リチャード、二人に何の用?」


 形のいい眉をつり上げ、フランクと少し色合いの違う紫色の瞳に怒りと「またか」という呆れを混ぜ合わせてアリシアはリチャードを睨みつけた。いつもより着飾った彼女はそれだけで迫力がある。


「僕は二人のことを思って――」

「二人って誰? わたしとキティのこと? わたしたちにもフランクにもあなたの勝手な思い込みで絡むのはいい加減やめてくれるかしら?」

「だけどこいつは――」

「こいつだって? よく知りもしない相手にそんな風に呼ばれる筋合いはないな」


 感情的なアリシアやリチャードと違い、フランクの口調は淡々としていた。それがかえって恐ろしかった。


「しかもまるで僕を遊び人のように決めつけて、他人に対してそんな乱暴な呼び方をする前に自分が何を言ったのかよく振り返った方がいいじゃないか」

「なっ――!?」

「あなたフランクのことをそんな風に言ったの? わたしと仲がよくてキティとも仲がいいから? たったそれだけで?」


 アリシアはすっかり呆れかえっていた。イアンも同じ気持ちだった。


「それだけだって? そりゃあ、いつも男に囲まれてちやほやされている君からしてみればそれだけだろうな! ふん! そう思うと君らはお似合いだよとってもね! ふしだらで――」

「やめて!」


 空気を引き裂くような声が上がった。一瞬、その場にいる誰もがその声を誰が発したのかわからなかった。


「ふ、二人をそんな風に言わないで! そ、そんな……二人はそんなんじゃないわ……!!」


 浮かんだ涙が灰色の瞳を少し青っぽく見せていた。キティは頬を赤く染め、リチャードをきつく睨みつけていた。


「二人とも、いい人よ! わ、わたしみたいな相手でも、やさしくて……あ、あなたが……あなたにそんな風に言われることなんて、何もない! そんな風に言うのって、さ、最低よ!」


 叫ぶようにそう言ってメルグール荘の奥へと走り去ってしまったキティの瞳から涙があふれているのが見えた。


「キティ!」


 真っ先に我に返ったのはフランクで、その声に弾かれるようにしてアリシアがキティを追いかけて行った。つづこうと一歩踏み出したフランクが、悔しそうに扉の前にいる。リチャードは呆然としていて、イアンはその分冷静になれた。


「フランク、僕が行く。君はカフェで待っててくれないか?」


 メルグール荘の魔法のせいで、住人ではないフランクは中に入れないのだ。彼の視線はキティが走り去った奥へと向けられたままだった。おそらく彼が踏み込んでも、すぐに玄関の扉の前に戻されてしまうのだろう。


「グレースとそこで待ち合わせているんだ。僕が遅れるって、伝えて欲しい」

「……わかった」


 リチャードを一瞥し、二人はその場を去った。メルグール荘の一階の奥には裏庭につづく扉がある。二人は確かにそちらに走っていった。もし三階に上がられていたらこうして追いかけることはできなかっただろう。女子たちのフロアに男子は入れないからだ。

 手入れされた芝生の裏庭の片隅には小さなランドリー小屋があり、キティはその前で背中を丸めてしゃがみこんでいた。その背中をアリシアがさすっている。そっと近づけば、アリシアが少しだけ視線を上げて追いかけてきたのがイアンだと確かめ、またキティへと視線を戻した。


「大丈夫よ」


 アリシアの声はどこまでもやさしかった。


「きっとあんな風に怒ったことがないでしょう? びっくりしたのね?」

「わ、わたし……」

「あなたがわたしたちのために怒ってくれて、うれしかったわ」


 顔を上げたキティにイアンはハンカチを差し出したが、断られてしまった。こういう時さえ遠慮をしてしまうのがかえってキティらしかった。彼女のハンカチはやわらかな綿の、真っ白で清潔なものだった。


「わ、わたし……あなたたちのことが、好きよ」


 そこにフランクも含まれていることはすぐにわかった。アリシアが珍しくあっけにとられた顔をして、しかしすぐに花が咲くような笑顔を見せた。アリシアの細い腕がキティの背中に回されるのを見ながら、イアンは微笑んで、静かにその場を去ったのだった。




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