03-2.イアン・セーゲル②
課題があるからと適当なところで会話を終わらせ、イアンは通りを横切ってメルグール荘へと帰った。アリシアの集まりはいつも遅くまでカフェにいて、途中で引き上げないとさすがに課題の提出があやしくなってしまう。
このグループは主にアリシアが友人に声をかけ、その友人たちも誰かしらに声をかけるためいつも大所帯だが、その分様々な専攻の学生が集まって話題に事欠かない。流行や恋愛を含めた他愛のないおしゃべりもするが、それよりもお互いが学んでいる分野についてあれこれ話すことの方が多かった。時には討論会のようにさえなる。
今日もフランクとキティのことをアリシアと話した後は近くにいた別の仲間も交えて使い捨て魔石を魔動車や列車にもっと活かせないかについて話した――この話題には途中からフランクも参加した。彼の専門分野に近かったからだ。様々なエネルギー源となる魔石は大きく二種類あり、一つは魔力を補充することで使いまわせる古くから流通しているもので、もう一つは比較的最近普及したある程度使うと壊れてしまう使い捨ての魔石だ。
熱心な討論会というわけではなかったがあまり詳しくない分野について聞けるのは興味深く、イアンがアリシアの集まりに時折参加する理由がこれだった。
しかし周りから見ると目的もなくただ騒いでいるだけのグループに見えるらしい――中心のアリシアが派手なのと、彼女目当ての男子学生もちらほら混ざっているからだろう。もっとも、ただアリシアが目当ての男たちは話題についていけないことも多く、アリシアからも無視されるのでいつの間にかいなくなっていることが常だった。強引に彼女に言い寄ろうとすると、冷たく拒否されるだけだ。
夕食の時間はとっくに終わっていたのもあり、メルグール荘の一階は静かなものだった。唯一食堂から小さな物音が聞こえて顔をのぞかせると、遅い夕食を食べているリチャードがいた。傍らには読みかけの新聞が広げられている。
リチャードの方もイアンが発した物音に気付いたのか、食事と新聞を行ったり来たりしていた視線を上げた。彼は目を丸くして、それから不機嫌であることを示すように顔をしかめて見せた。
「おかえり」
「ただいま、随分と遅い夕食だね」
「大学でやることがあってね。帰るのが遅かったんだ。ガスリーと一緒だったのか? カフェで集まってただろ?」
「そうだけど?」
この後つづく話題を察して、イアンは食堂のドアにもたれかかり、腕を組んだ。ここで暮らすようになってしばらくすると、リチャードは彼女の派手な交友関係に眉をひそめるようになっていった。眉をひそめるだけでなく、実際に口を出して直接二人が言い合っているのをイアンを含めたメルグール荘の仲間たちは何度も目にしたことがあった。そのたびに、リチャードがアリシアにあしらわれているのも。
イアンも直接「ああいう集まりに参加するタイプとは思わなかった」とか「付き合いをやめた方がいいんじゃないか」とか的外れな助言をされたことがある。普段どういう会話をしているのか説明したこともあるが、リチャードはそれを信じなかった。彼にとってカフェは講義の内容やそれぞれの専門分野の話をする場所ではなく、そういうことは大学でやるものだからだ。
「ああいう軽薄な集まりに参加するのはどうかと思うけど」
リチャードはその助言を心から親切に思っているのだ。それを否定することをすっかりあきらめているイアンは、大きくため息をついた。
「最近はテナントも絡まれていてかわいそうだ」
しかし今日は話題が思わぬところに行き、イアンは片眉を上げてリチャードを見た。どうやらこの頃フランクがキティに声をかけるようにしているのをリチャードも見かけたことがあるらしい。
「ガスリーとつき合っているのにあんな風にテナントに話しかけて――」
「アリシアとフランクはつき合ってないよ」
イアンは言った。
「あの二人はそんなんじゃない」
イアンの言い方があまりにもきっぱりしていたのに驚いたのか、リチャードが彼にしては珍しく口を閉じた。
「大体、パッと見て絡まれていると決めつけるくらい君はフランクがどういう人間か知ってるのかい?」
「いや、それは……」
「何でも印象で決めつけすぎない方がいいよ、リチャード。目に見えたものだけが真実だとは限らないんだ」
「……そうかな? 印象だって結構大事だと思うけど。少なくとも僕は僕自身の目が信じられるものだと思ってるけどね」
その言い方があまりにも自信にあふれていることに、イアンは眉をひそめた。明るい青い瞳が真っ直ぐにイアンを見つめている。美しい青だった。が、同じくらい美しい青ならきっと他にも持つ者がいるだろう。この国で最も美しい青を、イアンは知っていた。
これ以上会話をつづけても無駄な気がして、イアンは最後にもう一度ため息をつくと「部屋に戻るよ」と扉から体を離した。リチャードはまだ何か言いたそうにしていたが、イアンの雰囲気がそれを許さなかった。
いつもなら静かに上がる階段も、いら立ちを反映するように音を立てて軋んでいた。リチャードはああいう思い込みを曲げないところがある。この三か月ほどの短い期間でもそのことは十分に理解できた。そして悪いとも、間違ってるとも思っていない。そのことは彼の最大の欠点で――リチャードは自覚していなかったが――その欠点は他の彼のいいところを全て台無しにしていると、イアンは思った。
「出かけてたのか」
自分の部屋に入る前に、ちょうど部屋から出てきたポールと鉢合わせた。手にはポットを持っているからお湯をもらいに行くところなのだろう。
「ちょっとカフェに行っていたんだ」
「何かあったのか?」
「カフェでは何も。下でちょっとリチャードと言いあっただけだよ」
「ああ、なるほど」
「ポールはあまりリチャードと話さないね」
「別に話すようなこともないからな。あいつも俺もお互いに気が合わないと感じているのさ。お前やジュストがつき合ってられないと思う相手と、俺がうまくやっていけると思うか?」
「いや……」
「まあ、あの性格じゃあそのうちつまずいて――大人しくなるさ」
「どうだろうね……お湯を取りに行くなら、僕のポットを貸そうか? 部屋から持ってくるよ」
また落ちそうになったため息を飲み込んでイアンは提案した。魔動式のポットで、部屋でも水を沸かすことができるものだ。部屋に戻ると扉に郵便物が入った袋がかかっていて、ポールにポットを貸し出してから郵便物と一緒に部屋へ戻った。郵便物は机の上に、上着はハンガーに、それからひとまずシャワーを浴びて郵便物と課題を一緒に机の上へと広げた。
ポールの言うとおり、リチャードはいつか人間関係につまずきそうだ。マダム・モークリーはどうして彼をメルグール荘に住まわせることにしたのだろうか? ここはエーゲルシュタットの中でも特に人気のある下宿先で、募集がかかるたびに大勢の若者が応募してくるということはイアンも知っていた。今回も、選ばれなかった人は大勢いるはずだ。
つい最近も十日に一回の晩餐で、リチャードとアリシアが口論になった。アリシアの集まりのことでリチャードが文句をつけたのだ。それまでも何度かそういうことがあった上にああいう場でも言われてアリシアもカッとなったのだろう。中々激しい口論で――ジュストやキティはすっかりおろおろしてしまっていたし、ポールはあきれ切っていた。
結局、マダム・モークリーが仲裁したが口論の激しさとは反比例した穏やかな仲裁で、せいぜい「お互いに付き合いが色々とあるのよ」程度のものだ。とはいえ、彼女に仲裁されたら二人ともそれ以上口論をつづけることもできず、その場は一応収まったのだが……火種は未だにくすぶっていた。
手紙は三通あった。家族から一通、領立図書館からのお知らせが一通、それから美しいバラの模様が入った封筒――イアンはまずそれを手に取って、ペーパーナイフで丁寧に封を切った。閉じ込められていた甘いコロンの香りが、いら立ちに染まった心をやさしくなぐさめてくれるのを、イアンは感じたのだった。