03-1.イアン・セーゲル①
イアン・セーゲルは己の目を疑った。
秋も終わりが近づき、時折吹く風が鋭く肌をこすっていく季節になっていた。大学に入学し、このメルグール荘で暮らしはじめてもうすぐ三か月になろうとしていた。大学の講義はおもしろく、人間関係もそれなりだ。元々イアンはそこまで深い人付き合いをする方ではなかったので、どちらかと言えば新しく出会った人たちのことを適度に距離を置いて眺めていることの方が多かった。
特にメルグール荘の同居人たちは普通に生活していたらきっと関りを持たなかっただろうなと思う相手もいるからなおさらだ。
アリシアは初等学校の頃から年に一、二回顔を合わせる程度だったが知り合いで、それなりに気心が知れていた。社交的で魅力あふれる――しかし、イアンからしてみれば恋人よりも友人として見た方が魅力的な女性だ。
メルグール荘ではっきりと友人と呼べるもう一人はここではじめて出会ったジュストだ。彼は穏やかで人好きのする雰囲気があり、イアンが何となく作りがちな他人との距離をいつの間にかするりと越えていた。が、それが不思議と不快ではなかった。
ポールは気難しく、誰かと親しくしようとは思ってない様子だった。食事の席での会話もほぼない。とはいえ一見常に不機嫌のように見えるがそうでもなく、イアンが話しかければ普通に会話もした。密かに気が合うのではと思っているが、まだよくわからない。
リチャードは明るく、友人もたくさんいるようだった。きっと彼にとってイアンもその友人の一人に含まれているのだろうが、イアンにとってはそうではない。彼は周囲の雰囲気とか、そういうものを読むのがうまくないように見えた。
そのリチャードのタイミングの悪さでメルグール荘でのスタートにつまずいたキティは内気でしばらくはここに馴染めなかった。ポールのように自室にいることが多いが、ポールと違って本当に他人と話すのが苦手なようだった。とはいえ、最近は少しずつ慣れてきているようで、ジュストを中心にイアンや時折アリシアとも話すようになっていた。
しかし今、彼女が話している相手はその誰でもない。
メルグール荘の玄関扉のすぐ横の壁に、少しもたれかかるようにして立っているのはフランク・ローラントだった。厚手の上着を着て、ポケットに手を入れていた。すらりと背が高く、そういうポーズが様になっている。少し長めの前髪が彼の涼し気な目元の整った顔立ちに陰を作っていた。同性の自分の目から見ても彼は魅力的だった。特にイアンにとって彼の身長はうらやましいものだった。母方の家系があまり身長が高くなく、イアンの背は残念ながら大して伸びなかったし、これからも伸びそうになかったからだ。
フランクは、彼にしては珍しく口元に微笑みを浮かべて誰かと話していた。一瞬誰なのかわからなかったその後ろ姿がキティ・テナントのものだと気づいた時、イアンはぽかんと口を開けてその場に立ちつくした。
会話が弾んでいる雰囲気はないものの、二人のいる場所は穏やかな雰囲気で満たされているようだった。好奇心が押さえきれず、しかしできる限り平静を装ってイアンがメルグール荘に近づくと同時に、玄関からパッとアリシアが姿を現した。
「あら、おかえりなさい。イアン」
フランクとキティの視線がほぼ同時に向けられたことにちょっと気まずさのようなものを感じながら、「ただいま」とイアンはいつもの調子で答えた。フランクはアリシアを迎えに来たらしい。そこで大学から帰ってきたキティとばったり会い、立ち話をしていたのだろう――この組み合わせでなければ、この予想にもっと自信が持てるのだが。
「出かけるのかい?」
「そうよ。と言っても、いつものそこのカフェだけど。たまにはキティもどう?」
キティは目を丸くして首を横に振ったが、アリシアはそれに気を悪くした様子もなくイアンも同じように誘って来た。
「あとで行くよ」
今晩は部屋で課題をやるつもりだったが、目の前のことが気になりすぎてそれどころではなかった。フランクに視線を向けたが、彼は先ほどまでキティに向けていた表情が嘘のようにいつものどこかそっけない顔になっている。アリシアは二人のことを何か知っているのだろうか? イアンの疑問を感じたのか、アリシアは片眉を上げて見せつつ「じゃあ、またあとでね」と軽やかな足取りで通りを渡り、カフェへと向かって行った。
メルグール荘に入るイアンの背中で、フランクがキティに「それじゃあ、また」とありきたりなあいさつをしているのが聞こえた。
メルグール荘の近くにあるカフェは夜になるとアルコールの提供もあり、営業時間も長いことからこの辺りに住む学生たちのたまり場のようになっていた。メルグール荘でここを一番よく利用しているのはアリシアで、彼女が友人たちと一緒に過ごしているところにイアンも時々混ざっている。
年季の入ったシャンデリアにぼんやりと照らされたその店はシャンデリアと同じくらい古い建物で、調度品もまた同じだった。コーヒー色のテーブルや椅子、壁際には赤いソファのある広い席、カウンターは背が高く、何組かのカップルが肩を寄せ合ってグラスを傾けていた。カウンター内にある道具は古くから使われている物もあれば、最新のコーヒーマシンもある。
にぎやかで活気のあふれる店内で、いつもアリシアは通りの見える大きな窓がある一角に友人たちと陣取っている。イアンは二人分のレモネードソーダのグラスを持ってちょうど人がいなくなったアリシアのとなりに腰を下ろした。
「あの二人、いつの間に知り合ったんだい?」
「あの二人って?」
「フランクとキティだよ」
「ああ、その二人ね」
アリシアは紫色の瞳をきらりと瞬かせた。
「わたしも知らないわ。最初、すごく驚いたの――キティの方からフランクに声をかけていて。あいさつだけだったけれど、そういうことにだってすごく勇気がいるって感じじゃない?」
「まあね」
「フランクに聞いたんだけれど、はぐらかされちゃったわ。でも、彼の方から声をかけたのがきっかけみたいだった」
「フランクがねぇ」
フランクのこともアリシアと同じく以前から知っている。むしろフランクの方がつき合いが長かったし、会う頻度も多かった。アリシアは社交的だがフランクはイアンと同じく他人に対して一定の距離を取るタイプで、しかもイアンよりもあからさまに壁を作りがちだった。そんなフランクがあんな風に他人に関わろうとするなんて、今まであっただろうか? しかもキティは明らかに内気で人づきあいが苦手なタイプだ。自分なら積極的に声をかけないだろう。こんな風に同じ下宿先で暮らしているのでなければだが。
「フランクはともかく、キティはメルグール荘の人じゃない方がとっかかりやすいのかもね。最初がああだったし……最初って大事でしょう? 失敗するとその後もなかなかうまくいかなかったりするもの」
「君ならそうはならないだろうけどね」
皮肉な口調も、アリシアは気にもしなかった。
「あと、意外とあの二人、気が合いそう」
フランクは少し離れた一人用の席で、コーヒーを飲みながら本を読んでいた。この店にいる別のグループの女子が彼に声をかけたそうにしていたが、フランクの誰も寄せ付けない雰囲気が彼女を尻込みさせていた。
アリシアが何をもってフランクとキティの気が合いそうだと判断したのかイアンにはさっぱりわからなかった。それならジュストとキティの方がよほど気が合いそうだ――もっとも、実際はひと欠けらの甘い雰囲気もないのだが。
そういう点では、フランクとキティの二人はお互いに意識しあっている。勇気を出した見知らぬ女子がフランクに話しかけて冷たく追い返されているのを見ながらイアンはそれを認めた。
「そう思って今日キティに声をかけたのかい?」
「そうよ」
「余計なことをしない方がいいと思うけど」
アリシアは肩をすくめた。
「わたしをだしにするフランクが悪いのよ。わたしを迎えに来たのだって、あわよくばキティに会えないか期待してるからなのよ?」
「そっとしておいてあげなよ」
奥手な二人には、絶対にその方がいい。「考えておくわ」というアリシアに、イアンはわざとらしくため息をついた。