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02-3.キティ・テナント③




 「また」の機会はキティが思わぬところでやってきた。




 翌日はそれまでの曇り空とは違い気持ちよく晴れていたが、キティの心は相変わらずどんよりとしていた。その日の夕食はマダム・モークリーも出かけており、キティとジュスト、それからポールの三人だけだった。ポールはメルグール荘で食事を取ることが多く、こうして食堂で顔を合わせる機会もそれなりにあったが、いつも黙々と食事をすませ早々に部屋へ戻ってしまうため会話はもちろんあいさつも、目を合わせることさえほとんどない。

 今日ももまたポールがすぐに部屋へ戻ってしまったので、今はキティとジュストの二人だけだ。十日に一回の夕食と違って、普段のこうして人数が少ない日の夕食はキティの皿にもジュストの皿にも同じ料理が乗せられている。


「ディヴリーは進んでる?」


 詰め物パスタにナイフを入れたところで、ジュストが声をかけた。不意のことに飛び跳ねた心臓はそのまま早鐘を打っている。キティはなんとか首を縦に動かし、「少しずつ」と小さく答えた。パスタに入れた切り込みからほうれん草とチーズのソースがこぼれていた。


「俺の方はテナントさんがすすめてくれたシリーズの一冊目がもうすぐ終わりそうだよ」


 意識的なのか無意識なのかはわからないが、キティがうまく会話をつづけられない分ジュストがなんでもないように会話をつづけてくれた。自分が読んだ本の感想を話し、話の区切りでキティにも彼女が答えやすいような聞き方で本の感想をたずねてくる。ジュストのようにうまく言葉を紡げなかったが、そのことはキティが彼と会話をするための助けになってくれた。

 ジュストはどうしてこんなに上手に人と会話ができるのだろう……キティは皿の上に広がった緑色のソースに視線を落とした。自分はうなずいたり首を横に振ったりするだけでせいいっぱいだ。あいさつすらまともに返すことができない。


「テナントさん?」


 目の前の皿に視線を落としたまま眉根を少し寄せてすっかり黙りこんだキティの名前をジュストが不思議そうに呼んだ。落ち着いた色合いの瞳がきょとんとしてこちらを見つめている。その表情は年相応の顔立ちに、幼さを彩っていた。


 本当は、もっとちゃんとできたらといつも思っているのに――。




***




「こんにちは」


 花のものとも違う、さわやかな香りが風と共にキティの鼻をくすぐった。

 植物園の一角にある野草を集めたエリアにはアーケア領ととなりのトゥーラン領の境にある山岳地帯で採取された植物を新たに植えたばかりだった。ひし形の白い花弁を持つ小さな花をつけるこの植物の自生する地域では、昔から薬草として使われてきたらしい。

 香りに誘われるように立ち上がって振り返ると、フランク・ローラントが立っていた。彼は決して近づきすぎない適切な距離を保っていたが、その不思議な色合いを帯びた紫色の瞳はどこか親しみのようなものを含んでキティを見つめていた。

 驚きに息がつまりうまくあいさつに返すことができない。彼はそのことに対して気にする素振りもなかったが、キティは申し訳なくてほんの少し視線を下げた。


「仕事中に話しかけてすまない」


 彼はやはり気にする様子を見せることなくつづけた。


「ただ、その……君の姿が見えたから……」


 一瞬何を言われたかわからなくて、キティは目を丸くした。


「それじゃあ……仕事、がんばって」


 さわやかな香りが遠ざかっていく。キティはただ背の高い彼の後ろ姿を見送ることしかできなかった。




***




「……どうしたら」

「ん?」

「ど、どうしたら、トランティニャンくんみたいに、上手におしゃべりできるのかと思って……」

「えっ? 俺みたいに? いや、俺もそんなに上手じゃないと思うよ。イアンとかの方がよっぽど――」


 ジュストは遠慮したように口を閉じた。


「……そんなに気にしたり、身構えたりしなくてもいいんじゃないかな? テナントさんだって別に普通にしゃべれていると思うよ。今もだし、昨日の図書館だって」

「それは……トランティニャンくんが、上手だから……いつもあんな風にしゃべれないもの」


 キティは持っていたフォークを皿の上に置いた。


「最初の、自己紹介の時だって……」

「あれはリチャードが……タイミングがよくなかっただけで、テナントさんは悪くなかったと思うよ」


 あまりよくないフォローだと思ったのか、ジュストは一度口を閉じた。彼はこの問題についてキティほど深刻には受け止めていないが、それでも真剣に考えてくれていた。こういうところが、彼の好かれるところだと思う。


「もう少し、肩の力を抜いていいんじゃないかな? 無理にしゃべろうとしなくたってなんとかなるよ。俺はまあ、普通だけど、おしゃべりが好きな人ってたくさんいるからね。それこそリチャードなんて、みんなが集まる夕食の時いつもずっとしゃべってるじゃないか」


 「それが楽しいおしゃべりか別にして」とジュストがぼそりと付け足したひと言はキティの耳にもしっかりと届いたが、あえてそれには触れなかった。


「それにテナントさんは、しゃべるのが得意じゃなくても聞くのはうまいと思うよ」

「そうかしら……」

「ちゃんとこっちを向いていてくれるのがわかるっていうか……だから話しやすいよ。それに会話が途切れた時とか、黙ってても気まずくならないし」


 もともとあまりしゃべらないから、あまりにも中途半端に会話が途切れでもしない限りは会話が途切れてもそれを変に気にしたことはなかった。話題を見つけなければいけないと焦ることはあったが、そういう風に思われているなんて思いもしなかった。


「でも、このままでいいかわからなくて……」


 大学に入ってこうして下宿をはじめたら、もう少しマシになるかと思っていたのに。


「そんなに気になるなら、そうだな――たとえば、あいさつとか相槌とか、ちょっとしたことから返していくのはどう?」

「あいさつ……」

「意識しすぎるのもよくないと思うけど、ちょっとずつできることからしていけばいいと思うよ。今日はこれだけはやるとかさ。レポートとか、本を読むのだってそうだけど、今日はこのページだけ読んじゃおうって決めてこつこつやれば、その内読み終わるだろう? おしゃべりなんて、無理してやろうとしたらかえってうまくいかないよ」


 ジュストは穏やかにそう話した。




***




 今まではきっとそうだっただろう。遠ざかっていく背中を見ながら、キティはぐっと手を握りしめた。はじめて会った次の日も、彼はこうして植物園で働くキティの前に現れた。あいさつに返すことさえできなかった。今だって、会話をつづけようなんて、とてもじゃないけれど思えない。でもせめて、ほんのひと言でも返すことができたなら――



「……あ、あの!」


 握りしめた手のひらにじんわりと汗がにじむのを感じた。振り返った紫色の瞳が不思議そうにこちらへと向けられている。いつもなら緊張でそらしていただろう視線を上げたまま、キティはその紫色を真っ直ぐに見つめ返した。


「あ、ありがとう……ございます……」


 たったひと言、ただそれだけを口にするだけでも心臓まで一緒に口から飛び出してきそうだった。その次の瞬間が訪れるのがとても遠くに感じられ、キティはただただ目の前の人を見つめていた。


「……うん」


 彼ははにかんだように見えた。浮かんだ笑みはやわらかく、キティへ向けられていた視線はそれまでと違う温かな色が混ぜられているような気がした。


「うん――じゃあ、また」


 あの日と同じように、フランク・ローラントは「また」と告げて、今度こそキティの前から立ち去った。キティが気づかないくらいの名残惜しさを残しながら。




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