02-2.キティ・テナント②
まだ他にも本を選ぶというジュストと別れてキティはメルグール荘への帰途についた。少しだけ雲が晴れ、西に傾いた太陽によってオレンジ色に染まった空がその隙間から顔をのぞかせていた。
あのヘーゼルの瞳の女学生とジュストは知り合いのようだった。聞けば、彼が故郷のナインディアからフォルトマジアに来る道中で乗った長距離バスで一緒だったのだという。あいさつだけかわして軽やかに立ち去ろうとした彼女をジュストが呼び止めたのを見て、キティは彼に先に帰ると伝えてその場を立ち去ったのだった。
図書館からメルグール荘までをキティはいつも歩いて帰るようにしていた。夕暮れから先の時間の学生通りは昼間とはまた違うにぎわいを見せている。昼間はそれぞれの大学で講義を受けていた学生たちが集まって、思い思いに過ごすからだ。ダンスホールのような場所こそないが、遅い時間までやっているカフェやレストラン、バーなどは若者たちでいつもあふれていた。
こうして歩いている間にも、華やかなワンピースに着替えた女の子たちがおしゃべりに花を咲かせながら通り過ぎて行ったり、鞄を抱えた大学帰りの二人組の男子がカフェのテラス席でのんびりと語り合っているのを見かけたりする。
キティには縁のない世界だった。同じメルグール荘で暮らすアリシアは仲間とよく集まっているし、アリシアほどではないがリチャードやイアンも日が暮れてから出かけることがあったが、そういう友人はいなかったし、かと言って独りでそういう場所に足を踏み入れる勇気もなかった。
メルグール荘も近づき、図書館を出る前よりも重くなった気がする鞄を抱え直した時、下宿先がある路地の手前、学生通りを挟んでちょうど反対側にあるカフェから颯爽と一人の女性が飛び出し、通りを横切って、キティの目の前をメルグール荘に向かって足早に通り過ぎて行った。
短く切った黒髪は彼女の頭の形のよさを際立たせ、鼻筋の美しい横顔をより一層輝かせている。少し濃い目の口紅はキティにはとても似合わないだろう。大股で歩いてもどこか品があり、そのピンと伸びた背筋は思わず立ち止まって目で追ってしまう。
アリシア・ガスリーだ。
メルグール荘で唯一の同性の同居人だが、彼女は同い年とは思えないくらい大人っぽく、同時にキティと性格も何もかも違うのでいまだにほとんど話したことはなかったし、今後もその距離が縮まるとは思えない相手だった。
この黒髪の美人は大学に通うようになるとすぐ大勢の友人を作り、この下宿先の近くにあるカフェやレストランに集まっては仲間たちと楽しく過ごしているのをキティな何度も見たことがあった。同性の友人ももちろん多いが、同じくらい異性の友人もいて、その中の一部はアリシアを目にするといつもこの世でこれほど美しいものを見たことはないとでも言うように、ハッとした顔をするのだ。今日の図書館でのジュストのように。
彼女を追いかけるように二人の男がカフェから飛び出してきた。彼らもアリシアに対してそういう表情をしたことがあるのだろう。慌てた様子でアリシアを追いかけ、一人がキティにぶつかって彼女が持っていたものを落としてしまったとしても、目の前の美しい女性に夢中で気づきもしない。キティは図書館で過ごす前のように気持ちが沈むのを感じながら落としてしまった鞄と、そこから散らばった本やレポートに手を伸ばした。空は晴れ間が見えるようになったのに、キティの心はまた分厚い雲で覆われてしまいそうだ。
「大丈夫かい?」
少し荒れた自身の手よりもよほどきれいな手が横から伸び、そのレポートの内一枚を拾い上げた。形のよい爪を追いかけて視線を動かすと、困ったような、申し訳なさそうな紫色の瞳がキティを見下ろしていた。
その色合いは神秘的で、光の加減で不思議と若葉に似たやわらかな緑色が混ざっているように見えた。艶やかな黒髪はきっちりと整えられ、すっとした鼻筋や薄い唇は凛とした雰囲気をまとっている一方で、少し下がった眉と優しげな目元が彼の印象を決して冷たくはさせなかった。
「は、はい……ありがとうございます」
「君がお礼を言う必要はないと思うよ」
ずっと聞いていたいような心地よさがある穏やかな声が何でもないようにそう言った。
「ぶつかったのはこちらなんだから」
「……でも、あなたはぶつかっていません」
「でもさっきまで、僕も彼らとカフェにいたから」
キティが落としてしまった荷物をすっかり拾ってしまうと、「すまなかったね」と彼は改めて謝罪を口にした。
「帰るところかい? もう暗くなってきたし、気をつけて」
「ありがとうございます……でも、すぐそこなので……」
「もしかして、メルグール荘?」
「は、はい」
「……それなら送るよ」
ほんの少しためらうような声で、彼は言った。しかし言葉のとおり、メルグール荘はもう目と鼻の先、路地を曲がればすぐだ。困惑したのが伝わったのか、「僕も行くところだから」と彼は今度は少し気恥ずかしそうに付け加えた。
この短い距離で断るのもおかしいと思い、キティは小さくうなずいた。しかしたとえ短い距離でも家族以外の男性と並んで歩くのははじめてのことだった。会話はなかったが不思議と気まずさはなく、ただ彼の方は何か言いたそうにキティのことを気にしているのが雰囲気でわかった。
メルグール荘の前ではアリシアを追いかけていた二人組が立ち止まっていた。彼女は中へ入ってしまったのだろう。メルグール荘は特別な建物だ。古い魔力がこめられ、招かれざる客は足をを踏み入れることはできない。
「そこに立っているとそこに住んでいる人たちの邪魔になるんじゃないか?」
二人組が緑色の玄関扉の前に立っていたが、キティが困る前にとなりを歩いていた彼がそう口にした。先ほどまでのキティに対する態度と違い、突き放すような物言いだった。振り返った二人組は一瞬ばつが悪そうにしたものの、相手の顔を見るとすぐに不機嫌そうに眉をひそめた。
「アリシアが君たちを招き入れることはないだろうからね」
「お前は違うって言うのか、ローラント」
イライラとした声音に、ローラントと呼ばれた紫色の瞳の彼は肩をすくめただけだった。
「少なくともアリシアにあんな失礼なことは言わない分、招待される可能性はあるさ。それより早くそこをどいてくれないか? 困っている人がいるんだ」
彼の陰に隠れるようにして立っていたキティの姿にやっと気がついた二人組は、しかし彼の言うとおりにするのがよほど嫌なのか渋々と言った様子で扉の前から体をずらした。
「迷惑をかけてすまない」
キティがメルグール荘の玄関をくぐる直前、彼は再び謝罪の言葉を口にした。ささやくような声音は、少し離れたところで未だに様子をうかがっている二人組には聞こえないくらいの音量だった。
「アリシアに、今日はもう出かけない方がいいと伝えておいてくれないか?」
「は、はい……」
「それじゃあ、また」
「えっ?」
なぜ「また」なのか聞く前に彼は泉に落ちた朝露のような笑みをこぼし、その場を立ち去ってしまった。その笑みが、いつまでもキティの胸に波紋を残していった。
それがフランク・ローラントとの最初の出会いだった。
メルグール荘に入ってすぐのところにある応接室にアリシアはいた。窓から二人組の様子をうかがっていたらしい。外からアリシアの姿を見ることはできなかったので、きっとメルグール荘の魔法の力が彼女の姿を隠していたのだろう。
「おかえりなさい。あいつら、やっと帰ったわね」
窓際からサッと立ち上がり、応接室のソファに気だるげに身を沈めながらアリシアは言った。
「迷惑かけたみたいね、ごめんなさい」
ぶつかられたことも、外のやり取りも知らないはずなのに謝罪をされてキティは驚いて首を横に振った。
「あの……彼が、今日はもう出かけない方がいいって……」
「彼?」
「紫色の瞳の……」
「ああ、フランクね――言われなくてもそんな気持ちなくなっちゃったわ。あいつら、本当に最悪なんだから」
アリシアは眉をつり上げて立ち上がると、そのまま不機嫌さを隠そうともしない足音で応接室を飛び出し、階段をのぼって行ってしまった。一体何を言われたのだろう……想像もつかないが、とんでもなく失礼なことを言われたのだろうということは察せられた。
何となく応接室の窓から外を見たが、もうそこには誰もいなかった。あの二人組も、フランク・ローラントも。彼はどうして「また」と言ったのだろう? アリシアの友人だから、メルグール荘を訪ねてくることがあるかもしれない。正式に招かれればメルグール荘の住人ではなくても足を踏み入れることができる。
フランク・ローラント――キティは心の中で、ゆっくりとその名前を繰り返したのだった。