表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

02-1.キティ・テナント①




 ここ数日、空はどんよりと分厚い灰色の雲に覆われつづけていた。そしてそのことはキティ・テナントのふさぎこんだ気分をますます暗くさせた。窓際に置いた小さな鉢植えに水を与えている時や大学での講義、それにアルバイト先である小さな植物園で過ごす時間はキティの心のなぐさめになっていたが、このメルグール荘での生活はほとんど憂鬱ばかりだった。

 このアーケア領の片隅にある小さな田舎町で生まれ育ったキティは、幼い頃から内気な性格で、友人も少なく、家族にさえ遠慮がちなところがあった。それでもこうして故郷を離れて新しい生活をはじめるにあたって、何か新しい出会いとか、そういうものがあればいいという希望を胸に抱いていた。少なくともこのメルグール荘での下宿が決まった時、大学に通う五年間を共に過ごす同居人たちとはいい関係を築けたらと思っていたのだ。

 ところがあの、全員がそろったはじめての夕食の席での自己紹介に失敗して以来――マダム・モークリーは後日改めて機会を設けてくれたが少し間が空いたのもあり、結局最低限のことしかしゃべれていなかった――キティはすっかりくじけてしまい、ひどくみじめな気持ちで、同居人と打ち解けることなどできるはずもなくほとんど自室にこもってすごしている。


 メルグール荘のキティの自室は少しずつ物を増やし、部屋の主にとって居心地のいい空間を作りはじめていた。ベッドには実家から持ってきたパッチワークキルトのカバーがかけられ、同じキルトのカバーのクッションが椅子にも置かれていた。古着などを使った祖母の手作りの品で、キティが針の使い方を覚えてからは自ら補修をすることもあった。

 学生のための下宿のため机は広めで、その上にはきちんと整理された筆記具や大学の教科書やノートの他に小さな陶器の花瓶があり、アルバイト先の植物園でもらった花が活けられている。

 女子の部屋にしかないというベッドサイドの小さな棚――これがちょうど窓際に位置していた――の上には小さな鉢植えが二つと、それに水を上げるための小さなじょうろ。棚の中には最低限の化粧品が入っていたが、それと同じくらいクローゼットの中身も控えめだ。そういったものを買うよりも、それよりも造り付けの棚にきちんと収まった専門書や小説にお金をかけがちだった。それに年頃らしく化粧品や洋服に興味はあっても自分に似合うとは思えなかった。


 こうしてショーウインドウに映る自分の姿と、ガラスの向こうにあるワンピースドレスを重ねればなおのことだ。薄いブルーのやわらかな生地でできたそれは、ひらひらとした五分丈の袖や流行りのすとんとしたシルエットのスカートにレース生地が重ねられ、裾や袖口にはビーズがきらめいていた。

 キティが通うノッテンティア大学はアーケア旧国立大学のように大きくはないが穏やかさと活気が同居した学び舎だ。その近くにはいくつも商店が並ぶ通りがあり、エーゲルシュタットのように大きな街では当たり前になってきた大きなショーウインドウのあるおしゃれな店が多くあった。

 鎖骨がよく見えるデザインなのは少し尻込みするが、しばらく立ち止まって眺めていたいくらい素敵な服だった。この角度によっては少しだけ青っぽく見える灰色の瞳がもう少し冴えた色だったら……重たい鞄を持ち直しながら、キティはそっとショーウインドウから視線をそらした。そんなこと、考えても仕方のないことだ。


 大学の近くにある植物園の前のバス停留所からバスに乗る。三日に一回くらいの頻度でこの植物園でアルバイトをしているが、今日は休みの日だった。メルグール荘までは四十分ほど。学生通りには他にも下宿先が多いから、ちょうどこのくらいの時間は講義を終えて下宿先に帰る学生の姿も多い。


「テナントさん」


 座席が空いていなかったので鞄を両腕で抱え適当な位置に立つとほぼ同時に、バスはゆっくりと走り出した。少し開いた窓から心地いい風が車内を通り抜けていった。

 その風の流れにつられて顔を上げ、視線をなんとなく窓の外に向けようとしたキティの耳に、聞き覚えのある声が届いた。窓の外ではなく声の方へと視線を向けると、揺れるバスの中で器用にバランスを取りながらジュストがキティの方へ歩み寄ってきたところだった。彼は気さくな様子で「今帰り?」とたずねたが、キティは小さくうなずいて返事をすることしかできなかった。


「同じ大学だけど、こうしてばったり会うのははじめてだね。今日は植物園の仕事はないの?」

「えっ?」


 キティは驚いて目を丸くした。メルグール荘の同居人たちの中でジュストとイアンは多少話やすい部分があり、食事の時にちょっとだけ世間話をしたことがある――他の三人に対しては難しいことだが――しかしその中で、キティが植物園でアルバイトをしていることを話したことはなかった。


「前に見かけたことがあるんだ」


 キティの表情から彼女の言いたいことを察したのか、ジュストは気まずさと気恥ずかしさが混ざった顔でそう言った。日焼けした頬に赤みが差し、彼を雰囲気を少し幼くしてみせた。


「……植物園にはよく行くの?」

「よくってほどじゃないよ。あそこってベンチとか多いし、閉園が少し遅めだろう? このくらいの時間は人も少なくて、静かに本を読むのにちょうどいいんだ。その、植物園に行ったのに花を見てないのは申し訳ないかな……」

「そういう来園者もいるわ」


 キティは微笑んだ。


「どんな本を読むの?」

「普通に小説だよ。もちろん、課題で使うような本を読むこともあるけど。今はディヴリーっていう作家の小説を読んでて――ナインディアの最近の作家なんだけど、図書館にあってよかったよ」


 ジュストは鞄から小説を出して見せてくれようとしたが、ちょうどバスが大きく揺れたのでキティは小さく首を振ってそれを遠慮した。


「途中にある図書館を知ってる? 学生通りの――小さいけど、小説が充実しているんだ」

「うん……ちょうど今日、行くところなの。返却する本があって」


 ほんの少し緊張をはらんだ声でキティは言った。


「そうなの? 俺もだよ」


 ジュストは朗らかに笑った。こういう時の彼は気取らない親しみやすさがある。キティが彼に距離を取ってしまっていても、彼はまったく気にすることなく気づけばこちらも以前からの親しい友人のように感じられるのだ。そしてそのことに、不思議と不快感や困惑も覚えない。

 ジュストと親しいイアンも穏やかで接しやすくはあったが、彼はある程度親しげな態度でも常に薄いヴェールを一枚まとっているようだった。キティのような人見知りとはまた違うが、彼は常に他人にほんの少し距離を取っている。


 ジュストは彼が読んでいる小説について色々とキティが興味を持つように話してくれたが、キティが小さく相槌をうつだけでも気にする素振りはなく、それでいて彼女が勇気を出して話そうとすると無意識に待つ姿勢を見せてくれた。


「テナントさんはどんな本を読んでるの?」

「借りたのはレポートで使う本と、あとはノースロップという人の小説を。実家にあって、子どもの頃に読んだことがあったのだけれど、図書館で見かけてなつかしくなって……祖母の持ち物だったから、少し古いのだけれど」

「次はその人の本を借りてみようかな。テナントさんが借りたのはどんな話なの?」

「わたしが読んでいるのはシリーズで、都会から田舎へ引っ越して来た十代の女の子の成長物語なの。風景の描写がとてもステキで……他にもいろいろと書いている作家さんだし、図書館にもいくつか置いてあったから……」


 その図書館の近くの停留所にバスが停まったので、二人は会話を終えてバスを降りた。通り沿いにある三階建ての建物で図書館にしては小さかったが、元々は百年ほど前にエーゲルシュタットで暮らしていた文芸雑誌の編集者が集めていた蔵書を近所の人たちに貸していたのをきっかけに本や費用の寄付を募って図書館に改装したものだった。そのため小説を含め物語が充実しており、今でもこの近くに住む人々や学生通りに下宿している学生たちの憩いの場となっている。


 借りていた本をカウンタ―に返し、二人は最近読んだ本について小さな声で話しながら小説の区画へと向かった。こんなに長くメルグール荘の同居人とおしゃべりをしたのはキティにとってはじめてのことだったが、最初はどこまでも速くなるんじゃないかと思った心臓の鼓動も落ち着いて、あの最初の晩餐の日から沈みがちだった気持ちも少しずつ上を向きはじめていた。


「ディヴリーでおすすめなのはこれだよ。前後編なんだ」


 キティがいくつかの小説をすすめたので、ジュストもお気に入りの作家のおすすめを教えてくれた。他国の作家の小説が並んだ棚にはキティが読んだことのない作家の本がたくさん並んでいた。ジュストおすすめのディヴリーという作家の本は人気らしくスペースが大きくとられていたが、借りられているのか空いている場所もたくさんあった。


 少し高い位置にある本を手に取ってキティの方へ振り返ったジュストの後ろで何かがぶつかる音がした。どうやらすぐ近くにいた女学生に振り向きざまに鞄がぶつかってしまったらしい。視線が本棚に向けられていたのでお互いに不注意だったようだ。


「す、すみません」

「いえ、こちらこそ」

「あれ? 君は――」

「あっ、バスの!」


 そう言ってパッと笑った彼女は、太陽の下でいっぱいに咲くひまわりのようだった。すっかり秋を感じるこの時期に、彼女の周りだけは初夏のさわやかな空気に包まれているようだ。すぐ傍でジュストがハッと息を飲んだのがわかり、キティはほんの少し視線を彼の方へと向けた。

 これが見間違いでなければ、キティはこういうハッとしたような男性の顔をここで暮らすようになってからもう何度も目にしたことがあった。ハッとして――目の前の人から目をそらせない表情を。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ