01-2.ジュスト・トランティニャン②
気づけば窓の外の空は菫色に染まっていた。室内の灯は何もせずとも点いている。魔動式のランプはどうやら勝手に働いてくれるようだった。あまり意識していなかったが、窓を閉め切ったままだったのに部屋の中は外の暑さの影響はなく快適で、レモン水も最初の一杯以降はあまり減ってはいなかった。きっとこれらもメルグール荘の魔法の一つなのだろう。
そんな風に考えていると階下からヘレンおばさんの、夕食のしたくができたことを告げる大きな声が聞こえてきた。空腹になっていることに気がついた二人はおしゃべりを切り上げ、一階にある広い食堂へと向かった。
「ヘレン、大声で呼ぶのはやめてといつも言っているでしょう?」
清潔なクロスがかかった十二人ほど座れる長いテーブルの上座の席についていたこのメルグール荘の女主人、マダム・モークリーはやわらかい声で家政婦をたしなめていた。
「キッチンのベルを鳴らせば上の階にも聞こえるのよ」
「そういえばそうでした。いつもすっかり忘れてしまうんですよ」
緩くまとめられた濃い金髪にまじった白いものや、目尻のしわから彼女の人生経験をうかがえたが、美しくきらめく緑色の瞳とこの女性が持つ独特の艶やかさが彼女を実年齢よりも若々しく見せていた。
「こんばんは、マダム」とイアンがあいさつをする横でジュストは少し緊張しながら会釈をした。上座にモークリーが座っている以外、席は特に決まっていないようだった。美しい女主人の一番近くの席には、モークリーの美貌に負けない黒髪の美人が座っていた。華やかな顔立ちで、彼女が道を歩いていれば誰もが振り向かずにはいられないだろう。しかしその顔立ち以上に彼女の自信を表すように真っ直ぐに伸びた背筋と姿勢の良さが彼女を魅力的に見せていた。
黒髪美人から二つ席を空けてもう一人の女子がいた。黒髪美人のはつらつとした美しさとは対照的に大人しそうにうつむきかげんで座っている。薄茶色の髪はゆるい三つ編みにされていたが、それがいっそう彼女を内気に見せていた。
女子二人が座る向かい側の、モークリーから一番遠い席には黒髪の男子がいる。痩せていて背が高く、見るからに気難しそうな雰囲気だ。メガネの影が彼の眉間にわずかに寄ったしわをいっそうくっきりとさせていた。
イアンが黒髪美人の向かい側に座ったので、ジュストは彼のとなりに腰を下ろした。「みんなそろったわね」とモークリーはうなずいた。
「少なくとも今日までに到着する方々は。本当なら今日、全員そろうはずだったのだけれど……列車が遅れてしまっているみたいなの。こればかりは、仕方ないわね」
モークリーが話す傍ら、ヘレンと、彼女と同じ髪と瞳の色の女性が配膳をしていた――この若い女性はヘレンの娘で、同じく通いの家政婦をしているマリーだと後からジュストは知った。
豆のスープとサラダ、それから少し大きめの空の皿がカトラリーと共にそれぞれの前に置かれ、テーブルの真ん中には野菜がたっぷり使われたソースのかかった白身魚のムニエルとチキンの香草焼き、トマトとひき肉のパイ、それから蒸したポテトとほうれん草――どちらもバターのいい香りがする――の大皿と丸いパンが入ったバスケットが並べられた。
「洗い物が減るからこの方がいいんですよ」とヘレンがイアンに話すのを聞いて、目の前の料理は食べたいものを自分でこの空き皿に取るのだとジュストは気がついた。
「最初にそれぞれにお話もしたし部屋の冊子にも書いてあるけれど、夕食はできる限りみんなそろっていただきたいわ。もちろん、大学がはじまればみんなそれぞれに付き合いがあるでしょうから毎晩とは言わないけれど、十日に一度はわたくしにあなたたちが十日間どうやって過ごしたのかお話してくれたらうれしいと思っています」
「それではいただきましょう」とモークリーが食前の祈りをささげ、ジュストのこのメルグール荘でのはじめての夕食がはじまった。
食べはじめて間もなく、モークリーは全員に自己紹介をするよう提案した。その申し出は正直ありがたかった。もう一人の男子がポールという名前だということはイアンから聞いて知っていたが、女子二人の名前をたずねるなんてジュストにはかなり勇気のいることだったからだ。
「イアン・セーゲルです」
モークリーが促すようにイアンに視線を向けたのを受けて、彼は魚をナイフで切るのを止めてあっさりとした口調で名乗った。彼と話した時間はまだほんのわずかとはいえ、ジュストは彼のこの口調がどこか他人と距離を取るような響きを含んでいることに気がついていた。
「アーケア旧国立大学で経営や教育について学ぶ予定です。よろしく」
「まあ、それだけなの?」
イアンがすぐに魚を切る作業に戻ってしまったので、モークリーがあきれた口調でそう言ったが、彼は少し肩をすくめて見せただけだった。女主人はあきらめたように息を吐き、今度はジュストに視線を向けた。最初がイアンだったのでそうなるだろうと思ってはいたが、それでも少し緊張しながらグラスの水で口を湿らせた。
「俺――僕は、ジュスト・トランティニャンです。ナインディアから来ました。ノッテンティア大学で地質学を学ぶ予定です」
「ポール・クレイです。フィーナディア大学で魔力工学を専攻します」
ジュストが言い終わると間を置かずにポールが早口でそう告げた。彼は自己紹介も食事も早く終わらせたがっているように見えた。
「それじゃあ、お次はレディたちね」
「アリシア・ガスリーです。トゥーランのメアホルンから来ました」
ポールの不機嫌さとは対照的に黒髪美人は華やかな笑顔を振りまいた。
「アーケア旧国立大学で言語について学ぶ予定です。通訳や翻訳の仕事に興味があります。専攻は違うけれど大学は同じね。イアン・セーゲル」
「そうだろうね」
二人は知り合いなのだろうか? ジュストはとなりを見たが、イアンのテーブルマナーが完璧なこと以外は特に目につくことはなかった。彼はアリシアに視線も向けていない。しかし二人のやり取りには確かに親しみのようなものを感じられた。
「では、最後に――」
「あの、キティ・テナントです。わたしは――」
内気なキティがどこの大学に通い、何を専攻するのかを告げる前に玄関のベルが大きくなる音が聞こえ、食事の席の誰もがピタリと口を閉じた。階下の、おそらくキッチンから軽い足音が玄関へと向かうのが聞こえ、視線を食堂の扉へと向けると大きな荷物を抱えた青年が食堂へと姿を現した。
「どうも、遅くなりました。リチャード・ハントフォードです。今日からお世話になります!」
それがこのメルグール荘の同居人、最後の一人だった。リチャード・ハントフォートはしっかりとした体格の明るい金髪の青年で、その青い瞳はこれからはじまる新生活への希望で輝いているようだった。
「列車が思ったより早く復旧して――今日はもう間に合わないと思ったけど間に合ってよかった。列車でひと晩過ごすなんて、考えただけでゾッとしますよ」
イアンの視線に、ジュストは肩をすくめた。
「地元はメルヘアです。あっちにも大学はありますが、やっぱり“知の都”の方が充実していますからね。アーケア旧国立大学で言語学を学ぶ予定なんです」
それに対してアリシアは何の反応も示さなかった。澄ました顔で、まるで全く違う専攻や大学であるかのような無関心さだった。
「どうぞよろしく」と言ってリチャードが自己紹介を締めくくると、彼が話している間に用意されていた食事の席へつくようにモークリーが促した。
リチャードは食事中もおしゃべりが止まらなかった。とはいえ、荷物を持ったままだったことと到着したばかりだったこともあってひと足先に自室へと戻って行った。次にモークリーがおやすみのあいさつと共に席を立ち、それとほとんど同時にポールやキティも部屋に戻った。残ったのはジュストとイアン、それからアリシアだけだった。
彼女がヘレンに食後のお茶のおかわりと部屋に持って行く用にお湯を沸かして欲しいと頼んでいるのに便乗し、二人もお茶のおかわりを頼んだ。ヘレンの好みなのか濃いめに淹れられたお茶は食後の眠気を飛ばしてくれそうだった。部屋に戻ったら手紙を書かないといけないことを思えばちょうどいいかもしれない。
「テナントさんはどこの大学なんだろう」
ジュストはたずねた。
「声をかけてあげたらよかったかな……」
「内気そうだったからね。あれじゃあ話もつづけられないさ。でもたしか、大学はジュストと同じだったと思うよ」
「ノッテンティア?」
「そう。マダムがたしかそう言っていた気がする」
「それならなおさら声をかけてあげればよかったかもな」
「同じ大学ならこれからいくらでも機会はあるさ」
イアンは微笑んだ。
「ジュストはやさしいね」
「そうでもないけど……妹がああいう感じでいつも悩んでいたから気になっただけだよ」
人によっては皮肉っぽく聞こえそうな言葉だったが、イアンの声音は穏やかで心からそう思っているのが感じられ、ジュストはなんだか照れくさかった。
「僕ももう少し周りを気にかけるべきかな。何しろこれから五年間、一緒に暮らしていくんだからね」
イアンの言うことはもっともだったが、そこまでジュストは気にしているわけではなかった。無理に親しくなろうとは思わない。もちろん、そうなるのが理想的なのかもしれないが――家族といる時だって一人の時間が欲しくなるのだ。他人同士ならなおのこと、それなりに長い時間を一緒に過ごすには適切な距離があるだろう。思ったことをそのまま口にすれば、「そうだね」としっかりと首を縦に振りながらの同意が返ってきた。
「お互いに気持ちよく過ごせたらいいよね」
「まあ……実際のところ、前途は多難そうだけどね」