01-1.ジュスト・トランティニャン①
夏から秋へと季節が変わる頃に特有の日差しの強さを受けたバスが、乳白色の車体を光らせながら広間の一角に入ってきた。停留所の傍にある二本の広葉樹は大きく枝を広げ、その周囲の芝生に木陰を作っている。
バスを待つ人々、その人たちを見送りに来た人々、バスの乗客を迎えに来た人々、様々な人たちが木陰の下に敷物を広げたり荷物を椅子の代わりにしたりしてバスが停まるまでの時間をくつろいでいた。
「やっと到着ですね」
通路を挟んでとなりの座席に座っていた女性が少し眠そうな声でそう言った。そのヘーゼル色の瞳は、声とは違って明るくきらめいて見えた。性別こそ違ったが同年代の彼女は、読書か睡眠以外はすることのないバスの中でのいい話し相手だった。
バスを降り、その光景を眺めながら大きく伸びをしたジュスト・トランティニャンは、この旅の終わりがやっと見えたことに安堵の息を吐いた。長い旅だった。国と国を結ぶ魔動列車を乗り継ぎ、バスに乗って、故郷のナインディアからはるばる隣国のフォルトマジアにやって来たのは、この秋からここで大学生活をはじめるからだ。
故郷に比べて涼しい場所とはいえ今日は天気も良く、魔動列車やたった今降りた魔動バスの中は空調がきいていた反動もあって、外に出ればジュストの日焼けした肌にじんわりと汗がにじんだ。木陰の誘惑には心惹かれるが、予定していた到着時間よりも一時間近く遅れてしまっていた。早く下宿先に向かわなければならなかった。
「下宿先は近いんですか?」
同じくバスから降りてきたとなりの彼女が、先ほどよりもはっきりとした声でたずねた。
「そう遠くないと思います。少し歩かないといけないだろうけど……バスがあるかもしれないけど、もう何日かは乗り物に乗りたくないですね」
「ナインディアから来たんですもんね。わたしは乗り換えなんです」
「それじゃあ」とどちらからともなく二人は話し相手になってくれたお礼を言いあい、別れのあいさつをした。話の中で同じ大学であることはわかっていたので、もしかしたらまた会えるかもしれない。彼女が次に乗るバスは別の停留所から出るバスらしく、ジュストは太陽の下だと赤っぽく見える茶色のポニーテールを見送った。
ジュストが降り立った停留所のある広場は、ここ、アーケア領の領都であるエーゲルシュタットの中心街ともいえる大通りの半ばにあり、この辺りに暮らす人々の憩いの場だ。自然も多く、美しい噴水があり、あちらこちらにそれらの風景を楽しめるベンチも置いてあった。散歩を楽しむ人たちが行き交い、子どもたちの笑い声が響いている。バス停留所の掲示板には時折開かれているらしい朝市のポスターが貼られていて、きっとその日は特ににぎわうのだろう。
その広場を抜けて大通りを横切り、路地をしばらく歩いていくと別の大通りへと出た。広場のある通りとは違って落ち着いた雰囲気のあるそこは人々から学生通りと呼ばれている通りだ。カフェや本屋など、学生の好みそうな店が多く並び、古くから“知の都”とも呼ばれているエーゲルシュタットで学ぼうと集まる若者のための下宿も多かった。
その通り沿いにまたしばらく歩き、小さな本屋と店先に老婆が座っている不思議な香りのする店の間の路地に入って三番目の建物、それがジュストの目的地であるメルグール荘だった。
にじんだ汗をぬぐい、年代物の旅行鞄をしっかりと持ち直した。鞄を持つ手と反対の手でこげ茶色のくせ毛を何度かなでつけてから、ジュストはメルグール荘の緑色の両開きの玄関横についたベルを引っ張った。
呼び鈴の音は外には響いてこなかった。というよりも、中の音は不思議と何も聞こえてこないらしい。少し待って扉が開き、中から小柄でふっくらとした女性が顔を出すまで、ジュストはもしかして誰もいないのではないかという不安を感じなければならなかった。
「はいはい、どちらさまでしょう?」
出てきた女性は今までの静寂が嘘のようにはきはきとした大きな声でたずねた。かぶっていた三角巾の下の赤茶色の髪には白いものがまじり、顔や手には豊かな人生の経験が刻まれている。水色の瞳には活気がきらきらと輝いているようだった。
「こんにちは、トランティニャンです。今日からお世話になる――あの、遅くなってしまって」
「ああ、トランティニャンさん! お待ちしていましたよ。どうぞお入りくださいな」
女性は――この家の通いの家政婦で、ヘレン・スターリーと名乗った――やや早口な口調でそう言いながらジュストを中に促した。彼女がジュストの重い鞄を部屋まで運ぼうとするのを断るのには骨が折れたが、なんとかメルグール荘の女主人へのあいさつを終わらせ、彼はこれから大学生活の間を過ごすことになる自身の城へと足を踏み入れた。
日焼けしたせいかほとんど白に近いクリーム色の壁紙、年季の入った床にはきれいにワックスがかけられている。ベッドに机と椅子、クローゼットと造り付けの棚という必要最低限の家具があり、奥の薄緑色の扉の向こうには小さいがバスルームとトイレがついていた。
事前に送っていた荷物はもう届いていたらしい。古いトランクや箱が部屋の隅につまれている。持っていた鞄をベッドの傍に下ろし、その中から筆記具と便箋を取り出した。家族に無事に到着したことを知らせないといけない。きっと心配しているだろう。彼の故郷であるナインディアとこのフォルトマジアは陸つづきのとなり同士とはいえ、家族の誰も長旅を経験したことがなかったし、それはもちろんジュストも同じだった。
離れた場所にいる相手にちょっとした文章を送ることができる通信台や音声通話ができる通話器も随分と普及したとはいえ、気軽に利用するには学生の懐は十分だとは決して言えない。
机に置かれている冊子――このメルグール荘で暮らすにあたっての色々な決まりごとなどが書かれていた――を隅にどかして便箋を広げ、書きはじめる前にキッチンで少し水をもらって来ようとジュストは部屋を出た。となりの部屋の扉が開いて中から同年代の青年が顔を出したのはちょうどその時だった。
「やあ、どうも」
朗らかな声がジュストの耳に届くのと同時に、視界には眩い金髪が飛び込んできた。まるで太陽を切り取ったような色だ。緑色の瞳は声と同じ穏やかさで満たされていたが、その穏やかさは周囲を阻むような薄い膜の向こう側にあるようにも見えた。
一方で、ジュストも決して背が高い方ではないが、太陽の髪の彼はジュストよりも少し視線が下にあり、その彼の小柄さが薄い膜の持つ近づきがたい雰囲気を幾分やわらげているように感じさせた。
「どうも、こんにちは」
「昼食にはいなかったね? はじめまして。僕はイアン・セーゲル。君の隣人だよ」
「よろしく、セーゲルくん。俺はジュスト・トランティニャン。着いたのはほんのついさっきだよ。ナインディアから来たんだ」
「そういえば、留学生が一人いるって言っていたな。君のことだったんだね」
イアンは微笑んだ。第一印象よりもぐっと親しみのある笑みだった。
「僕のことはイアンでいいよ。これから何年かは一緒に暮らすんだ。堅苦しい関係なんて息がつまるだけだろう?」
それもそうだとジュストはうなずいた。
「メルグール荘の中を見に行くつもりだったのかい? よかったら案内しようか? もっとも、上の階には行けないけどね」
「いや、キッチンで水をもらってこようと思ったんだ。外は暑かったから」
「それなら少し分けてあげるよ」
イアンの申し出をありがたく受け取り、代わりにジュストは彼を部屋に招待した。荷ほどきはまだだが、せっかくならもう少し話を聞きたかったのだ。
イアンはカップを二つとレモン水を持って来た。一つしかない椅子を彼にすすめ、自身はベッドに腰かけたジュストは、イアンから受け取ったレモン水をすぐ飲み干してしまった。思ったより喉が渇いていたらしい。
「手紙を書くところだったんじゃないのかい?」
「家族に到着したことを知らせないといけないんだ。下宿先を決める時は親と来たし、一人で長旅ははじめてだったから母親が心配してて……でも、今日は出しに行けないし寝る前に書けばいいから」
「ナインディアからは遠かっただろう?」
「そうだね。途中からバスを使ったし」
エーゲルシュタットまで列車を乗り継いで来ることもできるが、これから大学にかかる費用を考えると少しでも節約をしたかった。
「俺以外はもう全員到着してるの? 俺が契約した時、満室だって聞いたけど」
「まだ全員揃ってないよ。男子があと一人来るんだ。僕の部屋の反対どなりさ。一番向こうの部屋はポールってヤツで、一昨日来たんだけどほとんど部屋から出てこないんだ。あとは女子が二人、上の階の部屋だよ」
「えっ? 女子もいるの?」
「いるよ。メルグール荘は男子寮じゃないしね」
イアンはそのことに大して興味はなさそうだった。
「だから僕らはそうそう上の階には行けないんだ。許可がないとね」
「許可がないとどうなるの?」
「どうにもならないよ。後で試してみたらいいんじゃないかな」
おもしろがるようにそう言ってイアンはあっさりとその話題を終わらせた。それから二人はそれぞれの通う予定の大学や専攻について話し、ジュストは故郷のナインディアの話もした。イアンはこのエーゲルシュタットで生まれ育ったらしく、後日街を案内してくれることになった。