プロローグ
「それじゃあ、この書類にサインをしてくださる?」
差し出されたペン軸はあまり使い込まれていなかった。それを受け取りながら先ほどまでじっくり読んでいた目の前の書類にもう一度視線を落とす。学生向けのこの下宿先で暮らすにあたってのごくごくありきたりな契約書だ。唯一特別なことは、使われた紙に薄っすらと複雑な模様が見えることだけだろう。
できる限り丁寧に自身の名前を書くと、一瞬だけインクが光り、その光は紙の模様へと吸い込まれていった。専門に学んでいなくてもわかる。これは魔術による契約なのだと。
フォルトマジア王国のアーケア領は国内で最も広い領地を持ち、その領都であるエーゲルシュタットやその近隣の街は古くから様々な教育機関や図書館などが集った“知の都”と呼ばれていた。この国では六歳頃から各地の学校に通ったり家庭教師を招いたりして教育をはじめるのが常だったが、何か専門的なことを学ぶため大学に行くのであればやはりエーゲルシュタットの大学へと進学したいと若者たちは考えていた。
大学の周りには学生たちがよく利用するような店が集まり、また、遠方からこの街の大学に通う若者のための下宿なども多かった。このメルグール荘もまたその一つだ。
大通りを少し外れれば、より建物は古くなり、昔からある小さな喫茶店や本屋がぽつりぽつりと看板を出していた。メルグール荘はその中でもひと際古い建物のように見え、しかし重ねた年月がその石造りの建物にいっそうの美しさを加えているようだった。
濃い灰色の石の壁を持つ三階建ての建物は深い緑色の屋根と、同系色の両開きの玄関を持っていた。表に面した窓とそれについた雨戸も同じ色だったのだろうが、こちらは色が剥げて白っぽくなっている。正面からは見えない裏手にはあまり広くはないが庭があり、その隅には洗濯小屋がたたずんでいた。
「これであなたとこの家との契約は完了しました」
二枚重ねになっていた契約書の内、下にあった紙を家主は渡した。先ほど書いたばかりのサインは少しかすれて転写されている。使っていたカーボン紙で指先が必要以上に汚れないように気をつけながらしまった家主は、引き出しから古い鍵を一つ取り出した。番号が書かれたそれは、これから生活をすることになる部屋のものなのだろう。鍵は引っ越した日に渡されるらしい。美しい彫刻がされた木製の小箱に先ほどサインしたばかりの契約書と一緒にしまわれた。
「契約書の控えはなくさないようにね。下手をしたら追い出されるかもしれないから。何か他に聞いておきたいことは?」
いざたずねられるとすぐには思いつかない。受け取った契約書の控えに改めて目を通すと、いろいろな決まり事やこの家の特徴が書かれている。期間は卒業までの五年間であること。暴力やその他法に触れることがあればすぐに警邏を呼ぶこと。住人同士の金銭の貸し借りの禁止。食事のこと、掃除のこと、食堂やキッチン、浴室、洗濯小屋を使う時の注意――そして、このメルグール荘の魔法のこと。
魔力によって行われる奇跡がまだ魔法と呼ばれていた大昔に、このメルグール荘は造られた。家主とこの家の許しがなければこの建物の中に足を踏み入れることができないという魔法と共に。
やがて月日がたち、奇跡の力だった魔法は魔術と呼ばれるようになった。それぞれに意味を持つ紋様を組み合わせることで様々な効果を発揮する魔力の通り道――魔力回路が開発され、今までその奇跡の力の発動方法などがはっきりとしていなかったところを魔力回路に魔力を通せばだれでも奇跡を起こせるようになったからだ。
その許しも魔術による契約へと変わっていった。そしてそれを活かすように、それまでは領主一族の別邸の一つに過ぎなかったこのメルグール荘が、向上心と未来のある若者のための下宿になったのだった。
メルグール荘に住めるのは最大で六人。性別や学年は家主次第。今の家主は必ず同じ年に入学する若者を募集するようにしていた。その家主の手元には鍵と契約書が入っていると思われる同じような小箱が六つある。その契約書にサインをしたのがどんな人たちなのかは気になるが、きっとここでそれを聞くことはできないだろう。家主のよく手入れされた指先が箱の一つを撫でるのを見ながら、秋からはじまるここでの生活にほんの少しの不安と期待を感じたのだった。