泣き虫に幸あれ。
僕は高校で優香と出会った。彼女はただの〈泣き虫な女の子〉だと思っていたが、そうではないらしい。
優香は背が小さく、肩にかかるショートボブ。クラスではごく平均的な見た目だ。
彼女を知ったのは入学式の日。クラス分けで席に着いた瞬間、優香は泣き出したのだ。
僕は入学式で泣く人間を初めて見たが、そこまで気に留めなかった。女の子は変なタイミングで泣くことがある。
四月、クラスメイトや先生は、毎日泣く優香を慰めていた。
五月になると、泣き続ける彼女を鬱陶しく感じる人が増えた。
六月には、リーダー格の女子が優香を泣かせようと意地悪を始めた。それを見て見ぬふりしている僕も共犯者なのだが、知ったことではない。
とにかく驚いたのは、あの優香が、いじめの時には一滴も涙を流さないことだった。
今こそ泣くべき場面じゃないのか?
優香は涙を堪えている様子でもない。むしろ、ある時はいじめっ子の風邪を心配さえしていた。そして彼女らは再び優香を気味悪がって、ほったらかしにした。
七月。ついに優香はクラスの〈空気〉になった。離れていくみんなと反対に、僕だけは不思議と彼女に引き寄せられていた。
こうして陰から女の子を見るのは、ストーカーと言うのだろう。それでも、彼女のことを知りたくて仕方なかった。優香は〈泣けない僕〉の真逆だから。
――いや、それは方便だ。知的好奇心と言いながら、その半分は肉欲なのだ。僕なんて、その程度の汚い人間なのだ。
観察してみると、優香は一時間に一回は泣いている。理由は分からない。百歩譲って、国語の小説や戦争の歴史で泣くのなら分かる。ただ彼女はどの授業でも、さらには昼休みや掃除の時間にも泣いていた。
あれだけ泣いたら、脱水症状にならないのか?
『人前で泣きたい』という性癖か?
それとも、泣いてしまう病気? ぐるぐる考えるうちに、『泣くとは何か』という哲学にまでたどり着いた。
その日の夕食時、僕は心理学者の母に聞いてみた。
「彼女ほど泣く人は聞いたことがないわね……」母は湯呑みのお茶をすすった。
「強迫観念みたいなものかしら」
「強迫観念」
母は頷いた。「まるで命令されたかのように、『しなきゃいけない』と思い込んでしまう心理状態よ」
なるほど。優香には泣く義務があるのかもしれない。『一時間おきに泣かないと、家を爆破される』とか。それなら少しは納得できる。
「僕は父さんが亡くなったのに、泣けなかった」と言ってみた。「人でなしだと思ったでしょう?」
母は上品に微笑み、首を振った。
「泣けないことにも理由があるのよ。特に、悲しみが強すぎて頭が整理できない時なんかはね」
母はテーブル越しに、僕の頬に手を添えた。涙こそ出なかったが、『人はこういう時に泣くのだろうか』と思った。
「それで、あなたは優香ちゃんに恋してるの?」
一気に顔が熱くなった。「は? どうしてそう思うの?」
「あなたが心理学の質問をするなんて珍しいから、ちょっと鎌をかけてみたのよ」母はからかうように笑った。「当たりだったかしら?」
「違う。珍しいから、単純に興味があるだけだよ」僕はムキになって言い返した。
「あら、恋っていうのは単純な興味よ。相手のことを知りたい、話したい、手を繋ぎたいとか。単純でしょう?」母は指で僕の頬をつついた。
「ましてや、家でもその子のことを考えてるなら、もう恋なんじゃないかな?」
僕はばつが悪くなり、黙って部屋に戻った。
「からかってごめんなさい。またいつでも相談に乗るからね」
母の顔は見なかったが、いつもの天真爛漫な笑顔が頭に浮かんだ。
翌日の学校でも、母の言葉が頭の中を占拠していた。まさか僕が『恋とは何か』なんて考える日が来るとは。
今日は五時間目が体育で、六時間目が日本史だ。ほとんどの生徒は居眠りをしていた。もちろん優香は泣いている。すべていつも通りだった。
放課後になったが、僕は何となく席に残って宿題をしていた。しかし、いつの間にか眠ってしまった。
そして僕は今、幸せな夢を見ている。優香がとなりに座って、涙を流し、僕の手を握り、頭を撫でてくれた。
――――いや、違う。これは現実だ。
「ご、ごめんなさい!」と優香は悲鳴のような声で謝った。そして顔を背け、前髪を整え始めた。
「どうして君は泣いてるの?」と僕は聞いてみた。優香は泣いていたのだ。
「わからないの」と彼女は無感情に答えた。「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「それもわからないわ。ごめんなさい。ただ、あなたが泣いてたから」
僕が泣いていた?
そういえば、目に潤いがある。しかし、それはあくびの涙と同じだろう。
優香は当たり前のように僕の目尻に指を当てて、涙を拭った。
すると突然――――彼女は僕の頬に口づけした。
その瞬間、全身の血が駆け巡った。今のが現実なのかすら分からなくなった。
ひとつ明らかになったのは、『僕は男として優香を求めている』ということだ。
初めて彼女を間近で見たが、思ったよりも端正な顔立ちだった。潤んだ瞳も相まって、彼女は世界一の美少女に見えた。
優香は首をかしげた。「どうしたの? そんなに見つめて」
僕は慌てて目を背けた。逃げ出したいほど恥ずかしくなった。
「ねえ、私ってそんなに可愛い?」優香はからかうように僕の頬をつついた。
彼女は意外と積極的な性格なのだろうか?
僕は思い切って声をかけた。
「もしよかったら、このあと一緒に帰らない?」
こんなことを女の子に言ったのは、もちろん初めてだ。
「いいわよ」と優香は笑顔で答え、また涙を流した。
僕たちは学校を後にして、並んで歩いた。
同級生が見たら、カップルだと勘違いするだろうか? 僕はそれが気になって仕方なかった。
セミの鳴き声がやたらと耳に響き、頭痛がするほどだった。
「どうして君はそんなに泣くの?」と僕は言った。
彼女は淋しそうに下を向いた。
「自分でも分からないのよ」
「親に心配されるでしょう?」と僕は続けて聞いた。
「実はね……」優香はよそを向いた。「私には両親がいないの」
道端の空き缶が、風に流されてコロコロと鳴った。微糖のコーヒーだった。
「ごめん」
地雷を踏んでしまった。僕は最低な人間だ。
優香を泣かせてしまった、と恐る恐る横を向くと、彼女は意外にも落ち着いた表情をしていた。
「こんなに泣き虫な私だけど、両親が亡くなった時は全く涙が出なかったのよ」と言って優香は自虐的に笑った。「最低な人間でしょう?」
まさか、彼女に僕と同じような過去があったとは。
「実は、僕も小学生の時に父を亡くしてるんだ。そして、君と同じように泣けなくて、『自分は人でなしだ』と思いながら生きてきたんだ」
気がつくと、優香の目には涙が溢れていた。申し訳ないが、とても愛おしい泣き顔だった。
「でもね、心理学者の母は『泣けないことにも理由がある』と言ってたんだ。悲しみが強すぎて頭が整理できないこともあるって」
優香は僕の言葉を反芻するように、遠くの空を見つめた。カラスが大きく羽ばたいていた。
「あなたのお母さんは心理学者なのね」優香は微笑んだ。
「大学で心理学を教えながら、カウンセラーもしてるらしいよ」
「素晴らしいわ」優香の瞳はまた潤んだ。
「そういえばあなた、私のことを知ってくれてたのね」
「それは、もちろん知ってるよ。同じクラスだし。それに、君のことが気になってたから」
「それって……」優香は僕の目を見つめた。「私のことが好きって意味?」
「あっ」と僕は声を出したが、何も言えなかった。
「ありがとう」優香は僕の頬をつついた。「いつか、あなたのお母さんと話してみたいわ」
国道では、車が絶え間なく行き交っていた。街の喧騒とは裏腹に、優香の隣だけは湖のように穏やかだった。
僕はバス停で彼女と別れ、フラフラと自宅のマンションに帰った。
優香の濡れた唇の感触が、いつまでも頬から消えなかった。『消えないでくれ』と思った。
夕食の後片付けをしながら、僕は優香の過去を母に話した。
「なるほど……」母は真剣な表情を浮かべた。
「親御さんが亡くなって泣けなかったのは、あなたと同じね。その自己嫌悪で泣き始めたのかしら」
「そうかもしれないね」
「ただ、これはデリケートな問題だから、無闇に聞いちゃダメよ」母は僕の頭に手を乗せた。
「あなたなら分かるでしょう?」
僕は頷き、母の手をそっと払いのけた。
「父さんと母さんは大学で出会ったんだよね。二人とも心理学を勉強してたから好きになったの?」
「うーん」母は腕を組んだ。
「あまり関係ない気がするのよね。仮に違う形の出会いでも、私はお父さんのことを好きになったはずよ」
母の頬に添って、一筋の涙が流れた。
「ごめん。そんなつもりじゃ……」
「いいのよ」母は微笑み、僕を手招きした。「ほら、こっちにおいで」
僕たちは並んで正座して、父の遺影に手を合わせた。線香の匂いがゆっくりと広がった。
◇ ◇ ◇
翌週の放課後。学校近くの公園で、優香は猫を撫でていた。素敵な笑顔には涙が滴っていた。
彼女は僕に気づくと、早足でやってきた。
「一緒に帰りましょう?」優香は歩き始めた。
「ねえ、また私が可愛くて見つめてたの?」
僕は下を向いて沈黙した。優香はクスッと笑い、頬をつついた。
「君は猫を撫でながら、何を考えてたの?」
優香は空を見上げ、猫を撫でる仕草をした。
「私に構ってくれてありがとう、とか。この子が元気に暮らせますように、とか。そんな感じかな」
それで泣くのは優しすぎるが、偏った考えではなさそうだ。
優香に撫でられた灰色の細い猫は、じっとこちらを見つめていた。彼女を連れ去った僕に嫉妬しているのだろか。
「私ね、一人暮らしだから、色々と料理を覚えたのよ」
「一人暮らしなんだね」
彼女は頷いた。
「両親が亡くなって、祖父母と暮らしてたんだけどね。私がずっと泣いてるから、気味悪がって追い出されたの。お金は振り込んでもらって、ひとりで生活してるのよ」
「ごめん」
「なんであなたが謝るのよ」優香は笑った。
「それでね、私の得意料理はハンバーグなの。よかったら、今から家に食べに来ない?」
〈ドクン〉と鳴る心臓の鼓動が、自分の耳で聞こえた。
僕は今、女の子から家に誘われているのか?
男を家に誘うとは、そういうことなのだろうか?
正しい返答がわからず、時間は過ぎていった。
優香は不安そうに、横から顔を覗き込んだ。
「やっぱり急だし、用事があったかな?」
「いや、特にないけど……」
僕の顔は赤らんでいるのだろう。優香はからかうようにクスクス笑った。
「もしかして、女の子の家に行ったことないとか?」
僕は小さく頷いた。
「それで、いやらしいこと考えてたんでしょう?」
「考えてないよ」と僕は慌てて否定した。
「ふーん」と優香は不満そうに言うと――いきなり僕の手を握り、指を絡めてきた。「これでも?」
僕は顔を背け、雑草を眺めるふりをした。
手を繋いで密着すると、制服越しに優香の体に触れてしまう。そのたびに、僕は自分を強く制御した。
優香の家は、町外れの古いアパートだった。陰鬱な雰囲気で、ドアポストからチラシが溢れている部屋もあった。
部屋に入り、玄関のドアを閉めた。静寂の中、僕たちはしばらく黙って見つめ合った。
そして、お互いに顔を寄せ、当たり前のように口づけした。唇を離してみると、優香は顔を赤くしていた。僕たちはそのまま一つになり、彼女の狭い部屋で愛を与え合った。
僕の邪な考えは実現したらしい。
優香が涙を流していたので、僕は慌てて声をかけた。
「ごめん。えっと……大丈夫?」
優香はゆっくりと頷いた。
「あなたと一つになれて嬉しいの」
彼女は僕の頬を両手で包み、口づけした。吐息が響く部屋の中、全てを忘れてこの時間を楽しんだ。
「ねえ」優香は天井を見つめた。「付き合ってないのに、してよかったのかな?」
「まあ、そんなのは自分たちで決めることだよ」
「確かにそうね」と優香は安心したように言った。
僕たちは抱き合って一時間ほど眠った。手作りハンバーグのことはすっかり忘れていた。
◇ ◇ ◇
そうして成り行きで交際を始め、僕たちは毎日一緒に下校した。たまに近所を散歩して、優香の家で愛し合ったりもした。
ある土曜日の昼。ふたり並んでソファーに座り、テレビを見ていた。
優香は突然、僕の腕に顔をうずめて泣き始めた。
「あなたのお母さんが言った通りだわ。私は、両親の死を受け入れられなかったの。そして、泣けないことに罪悪感を覚えて、『泣かなければいけない』という罰を自分に課したんだわ。知らないうちにね」
僕は優香を抱き寄せ、その柔らかい背中をさすった。彼女が泣き疲れて眠るまで、ゆっくりと。
数日後の夜。仕事から帰った母は、ダイニングチェアーに腰を落としていた。その表情はやつれている。
「おかえり、母さん。具合でも悪いの?」
「いえ、大丈夫よ」母は作り笑いした。
「今日は僕が夕食を作るよ」
母は少し悩んでから頷いた。「ありがとう」
僕は麻婆豆腐を作ることにした。作ると言っても、豆腐を切り、レトルトの素と煮るだけだ。
辛くて食欲が増すのか、母は嬉しそうに食べていた。
夕食後に並んでソファーに座り、テレビを見た。芸能人の夫婦が出演し、惚気や愚痴を言っている。
CMに入ると、母は鼻をすすって泣き始めた。
母のスマホには、父とのツーショット写真が表示されていた。覗き見るつもりはなかったが、思わず目に入ってしまったのだ。
「お父さんは鳥になったのよ」と母は言った。
「背中に翼が生えて、遠くへ行ってしまったんだわ。鳥は鳥でも、ツバメなら良かったのにね。だって、毎年帰ってくるんだもの」
僕は母の震える背中をさすり、ティッシュを手渡した。
「ごめんなさい。あなただって辛いのに」母は涙を拭い、グラスの水を飲んだ。
「親子なんだから、辛い時は何でも話していいんだよ」と僕は言った。
「それにさ、愛してるからこそ苦しいんだよね。その想いは、天国の父さんも嬉しいんじゃないかな」
母は目を丸くしたあと、幸せそうに微笑んだ。
「そういうところ、お父さんに似てきたわね」
母は僕の頬に両手を添えて、ゆっくり口を近づけてきた。
僕は戸惑い、「あの……」と思わず声を漏らした。
すると、母は目が覚めたように手を離した。ため息をつき、首を振ると、膝のスマホが床に落ちた。
母はそれを拾い上げると、すぐに裏返した。まるで画面の父から顔を背けるように。
「ごめんなさい」と母は何度も呟き、早足で部屋に戻った。なぜか僕も「ごめんなさい」と一人で言った。
それから一週間、母は仕事を休んだ。
度数の高い酒の空きビンがゴミ袋に入っていた。廊下にはタバコの匂い。部屋で暴れる物音も聞こえた。
僕は母に声をかけて、ゆっくりと部屋のドアを開けた。タバコの刺激臭に、思わずむせ返った。
恐る恐る部屋を覗くと、そこは廃墟のように荒れ果てていた。散らばった本、酒の空き缶。灰皿に積もった吸い殻。
いつもの母からは想像できない状態だが、机の写真立てだけは無事だった。その中には、家族三人で撮った箱根旅行の写真が輝いていた。
部屋の様子が、そのまま母の精神状態だった。
母は壁に背をつけて床に座り込み、煙を吐いていた。虚ろな目で僕を見つめると、「ごめんなさい」と囁いた。
「大丈夫だよ」 と僕は言った。目頭が熱くなったが、必死に我慢した。
目頭が熱くなる?
そういえば、僕は何年も泣いていなかったのだ。
「結婚してから止めたんだけどね」母は朧げにタバコの火を見つめた。「本当にごめんなさい」
「もう謝らなくていいよ」僕は母の肩に手を置いた。
「いったん休職して、心療内科に行こう。僕もついていくから」
「そうするわ」母は僕の手を力なく握った。「迷惑かけてごめんなさい」
「構わないよ。それから、大学への説明も手伝うから」
「ごめんなさ……じゃなくて、ありがとう」母は大きくため息をついた。
しばらくすると、母は突然、足元の教科書を壁に投げつけた。
僕は反射的に肩をすくめた。部屋に轟音が響いた後、息苦しいほどの静寂がやってきた。
「何もかも嫌になったの」と母は言った。
「私なんて、偉そうに心理学を教えられる人間じゃないのよ」
僕は母の右手を両手で包んだ。教科書を投げた、その細い右手を。
「母さんにも心があるし、疲れたら休憩が必要なんだ。カウンセラーとして相談者に優しくするように、自分のことも労ってほしい」
「ありがとう」母は泣きながら笑った。「やっぱりあなた、お父さんに似てきたわね」
母は僕を強く抱きしめ、頬に口づけした。不意のできごとに、僕は頭が真っ白になった。
すぐに、母は目が覚めたように唇を離し、「ごめんなさい」と言って顔を背けた。
再びやってきた重い沈黙。僕たちは荒れた部屋を見回し、次の言葉を探した。
「ねえ」母は僕の手にそっと触れた。「私が眠るまで、そばにいてくれない?」
「もちろん、構わないよ」
母をベッドに寝かせ、布団をかけた。母はゆっくりと呼吸して、段々と安らいだ表情に変わった。
僕は握った手をトントンとゆっくり叩き、リズムを刻んだ。それから子守歌代わりに、他愛もない話を語り始めた。
学校の変な先生、苦手な科目、優香のこと――付き合っていることは言えないが――など、ひとりで話し続けた。
母は静かに相槌を打っていたが、いつの間にかスヤスヤと寝息を立てていた。
前から美人だと思ってはいたが、今は赤ん坊のように愛らしい寝顔だった。
あのままキスしていたら、どんな感じだっただろう? そんなことを想像してしまい、自分に嫌気が差した。
僕は散らばった教科書を本棚に戻した後、自分の部屋で眠った。
翌朝。僕は心療内科を予約し、母の大学にも連絡した。心療内科の初診は僕も診察室へ入り、精神科医と三人で話した。
母は療養でウォーキングを始めた。あとは温泉に入り、喫茶店で本を読んだりしてリフレッシュした。
母は責任感が強いので、はじめは罪悪感を覚えていた。しかし、「今の母さんは、休むことが仕事だよ」と僕が諭すうちに、受け入れてくれた。
優香も泣きながら母を心配してくれた。
母の休職から半年が経った頃、もう僕が寝かしつける必要はなくなった。母が純粋な笑顔を見せるようになったのだ。
ある日曜の夜。僕が煮物と焼き魚を準備して、一緒に夕食をとっていた。
「それで、優香ちゃんとは上手くやってるの?」と母は突然言った。
「えっ!?」と僕は変な声を出してしまった。「いや、僕は付き合ってるなんてひとことも……」
「私も『付き合ってる』とまでは言ってないわよ?」母は意地悪く笑った。
「また鎌をかけてみたんだけど、当たりだったかしら?」
僕はため息をついた。「それも心理学なの?」
母は口元に手を当てて考えた。
「これは心理学と言うより女の勘、いや母の勘ね」
女の人は、たまにこういうことを言う。
僕は非科学的なことを信じないタイプだが、もしかしたら、生物学的なオスとメスの役割の違いで――まあ、そんなことはどうでもいい。
「女の人には超能力があるの?」
母は上機嫌に笑った。
「そんなことないわよ。さっきのは、最近あなたがカッコよくなったから言ってみたの」
台所の換気扇が忙しく回り、部屋の空気を交換していた。
「あの頃はごめんなさい」母は右手を見つめて俯いた。「あなたに迷惑をかけたわ」
僕は首を振った。「それくらい苦しかったんでしょう? だから大丈夫。もう謝らなくていいよ」
お互いに、なんとなく視線を外して沈黙した。テレビでは、QRコード決済のCMが流れていた。ポイント還元率が上がるキャンペーン中らしい。
「そういえば優香……彼女が、母さんに会いたがってたよ」
「あら、嬉しいわね」母は優しく微笑んだ。「私はいつでも大歓迎よ」
「でも、きつかったら無理しなくていいからね」
「いいのよ。新しい人と話すことが治療になる場合もあるし」
「それに」母は人差し指を立てた。「あなたの彼女がどんな子か見定めないとね」
僕はため息をついた。「姑の嫁いびりみたいなのはやめてよ?」
「嫁と姑か……」と母は味わうように呟いた。「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「あ、いや、今のは例えで言っただけで」僕は立ち上がり、ごまかすように皿洗いを始めた。
テレビは動物番組に変わっていた。見ようと思ったが、赤くなった顔に気づかれたくないので止めた。
翌日の放課後、僕は優香と手を繋いで下校した。
「母さんも君に会いたがってたよ」と僕はさりげなく言った。
「よかった……」優香は涙を流した。「ただ、そうなると緊張してくるわね。彼氏のお母様に挨拶するわけだから」
僕は母が言っていた『嫁と姑』という言葉を思い出し、顔が熱くなった。
「どんな服を着ていこうかしら……」などと優香は言っていたが、それに答える余裕はなかった。
土曜日の夕食に優香を招き、一緒に僕の家まで歩いて来た。彼女は怯えた表情で、玄関のドアを見つめている。
「大丈夫だよ」僕は優香の背中に手を添えた。
「母さんは僕の女版だと思って?」
彼女はクスクス笑い、その頬に一筋の涙が伝った。
「ありがとう、少し緊張がほぐれたわ」優香はゆっくり深呼吸した。「よし!」
彼女の涙が止まったことを確認してドアを開けた。玄関で母と優香が顔を合わせると――なぜか二人は同時に涙を流した。
「えっと……」僕は困惑して、二人の顔を交互に見た。「どうして二人とも泣いてるの?」
「わからないわ。ごめんなさいね」母は手の甲で涙を拭った。「どうぞ、入って」
母は手招きして迎え入れた。優香は脱いだパンプスを揃え、隅に寄せた。
「ちなみに、あなたも泣いてるわよ」母は僕の肩を叩いた。
何がなんだかわからないので、僕はもう考えるのをやめた。
台所で僕と母がすき焼きの準備をしていると、食卓のイスに座った優香が、そわそわとこちらを見ていた。
「あの、私も何か手伝います……」
「ありがとう」母は振り返り、優しく微笑みかけた。
「でもね、あなたはお客さんだから、くつろいでいいのよ」
優香は必死に堪えていたが、明らかに泣いている。母はクスッと笑い、僕に耳打ちした。
「泣き顔も可愛いわね」
確かに、優香の泣き顔は可愛い。この真実を知っているのは、世界で僕と母の二人だけだろう。
まだ優香は不安そうにしているので、僕は念を押した。
「その気持ちだけで充分だよ。それに、もうすぐ準備は終わるから」
母は僕に肘をぶつけて、「いいこと言うじゃない」と耳打ちした。「それに、姑の嫁いびりはしないから安心してね」
「余計なこと言わなくていいから」と僕も耳打ちで注意した。
僕が鍋をダイニングテーブルに運び、母は食器を並べた。こうして、僕たち三人での夕食が始まった。
会食が始まると、優香の緊張はじきに和らいだようだ。母は何度も僕をからかい、優香と目を合わせて笑っていた。
「息子は不器用なだけで、本当は優しい子なの。だから、彼氏として、優香ちゃんを大切に想ってるはずよ」母は僕の方を向いた。「そうよね?」
僕は小さく頷き、顔が熱くなったのでテレビを見るふりをした。ずっとこの調子である。
ふと横に目を向けてみると、優香の頬は茜色に染まっていた。
僕たちは気兼ねなく、和やかに鍋を囲んだ。いつの間にか優香は食卓に溶け込み、会話の中心になっていた。
一時間ほどで、鍋は空になった。
僕と母が立ち上がると、「私も片付けを手伝います」と優香はすぐに言った。ずっと言う準備をしていたのだろう。
「ありがとう」母は優しく微笑んだ。
「それじゃあ、食器を運んでもらおうかしら」
「わかりました!」
仕事を与えられた優香は、嬉しそうにてきぱきと皿を運び始めた。
「なんだか、娘ができたようで嬉しいわね」と母は呟いた。
僕と優香は仲良く顔を赤らめて下を向いた。それを見た母は満足げに笑っていた。
片付けを終えて食卓に戻ると、優香が持ってきた洋菓子を食べて談笑した。
「三人での食事なんて、あの人が亡くなって以来だわ……」
母は寂しそうに笑い、一滴の涙を流した。僕も泣きそうになった。
「ごめんなさい」と母は謝り、首を振った。「せっかく来てくれたのに、こんな話」
気がつくと――――優香は母の頬に手を添えていた。親指で涙を拭い、愛情深く頭を撫でているのだ。
しばらくそうした後、優香は目が覚めたように母の頭から手を離した。
「ご、ごめんなさい!」優香は頭を下げた。「私、お母様に失礼なことを……」
「いいのよ。すごく嬉しかったわ」母は優香の肩に手を乗せた。
「もしよかったら、もう少し続けてくれないかしら?」
「もちろんです!」と優香は嬉しそうに言った。
母は優しく頭を撫でられて、幸せそうだった。その光景は確かに母と娘に見えて、僕の目に涙が浮かんだ。
よほど安心したのか、母は五分も経たずに眠っていた。学生のようにテーブルに突っ伏して、穏やかに寝息を立てている。
僕は母の肩にブランケットをかけ、優香を家まで送ることにした。
冬の夜はやけに静かだった。月光に照らされ、僕は温かい気持ちになれた。
「さっきはごめんなさい」優香は下を向いた。
「泣いてる人を見ると、無意識に頭を撫でてしまうのよ。教室であなたにしたように」
「構わないよ」と僕は言った。
「母さんも喜んでたし、また会ってあげてよ」
「もちろん! ぜひまた会いたいわ!」
僕らは夜空を見上げ、手を強く握り直した。白い野良猫が路地裏に歩いて行った。
「どうやら、君には超能力があるみたいだね」と僕は言った。
「あら。あなたが非科学的な話をするなんて珍しいわね」優香はクスクス笑った。
「超能力ってどういうこと?」
「僕や母さんのように、君に心を開いた人間に〈泣く力〉を分け与える能力だよ。玄関で三人一緒に涙を流した時から、そんな風に考え始めたんだ」
「なるほど……」優香は星空に視線を移した。
「あなたに言われると、そんな気がしてきたわ」
冬の大三角形らしき星を見つけたので、優香に報告した。都市でも目を凝らせば意外と見えるらしい。
「そういえば、君や母さんを見て、僕も心理学を勉強したいと思ったんだ」
「私もよ」と優香は嬉しそうに言った。
「あなたやお母様と接して、困っている人に手を差し伸べたいと思ったの」
僕らの間には、織物のような絆ができていた。それは誰にも断ち切れない命綱だった。
家の前に着くと、僕たちはその場で口づけを交わした。まるで初めてかのような、温かいキスだった。
彼女の瞳から流れた涙は頬を伝い、重ねた唇で一つになった。僕たちはそのままワンルームのアパートで愛し合った。
優香を家まで送って帰るつもりだったが、その日は彼女の家に泊まることになった。
◇ ◇ ◇
月日が経つに連れて、優香の泣く頻度は減った。逆に、僕と母は涙もろくなった。
以前の僕は、心を閉ざして泣けなくなっていた。母はカウンセラーとしての責任から、また息子の僕がいる手前、弱音を吐けなかった。
優香は自責の念から涙を流し、代わりに自分のことでは泣けなくなっていた。
そんな僕らは、〈泣く力〉をホールケーキのように仲良く三等分した。そして、人として自然に泣けるようになっていった。
いつも通り手を繋いで散歩していると、優香は青空を眺めながら呟いた。
「世界なんて、平和になってしまえばいいのに」
優香の透き通った瞳に胸を打たれ、涙で視界がぼやけた。やはり僕まで涙もろくなっているらしい。
「泣き虫に幸あれ」と僕は言った。
優香は不思議そうに僕を見つめた。「何それ?」
「いや、えっと、何だったかな」と僕は慌てて言った。
「ネットで読んだ小説のタイトル、だったかな……」
「へぇ~」優香は幸せそうに微笑んだ。「素敵な言葉ね」
休日の公園では、父親と息子がキャッチボールをして、母親がそれを眺めていた。
僕は優香と出会ってから、少しずつ人に心を開けるようになった。
『大切な人を想いやる気持ちが愛で、その人に尽くすことが幸せというものだ』と心で理解し始めていた。
僕は非科学的なことを信じないタイプだが、優香との出会いが運命だということは確信している。
たまには泣いてみるのも悪くない。
(終)
© 2025 道端ノ椿
『あとがきに代えて』
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
ところで、あなたは最近いつ泣きましたか?
『涙活』なんて言葉もあるように、泣くことはストレス解消になります。
逆に、普段より涙もろくなっている時は、ストレスのサインかもしれません。
しかし、それを気に病む必要はありません。
携帯の充電が減った時に、「バッテリーが減っています。充電してください」と警告されるのと同じです。
素直に充電しましょう。優香のように思いっきり泣き、それから笑いましょう。
泣くことで、セロトニンという幸せホルモンが分泌されます。
つまり、優香の『泣く力を分け与える』という能力は、『幸せを分け与える』と言えるかもしれませんね。
本作を気に入ったら、気軽にレビューや感想を書いていただけると大変嬉しいです!!
今後も執筆を続けますので、作者のお気に入りをしてもらえると、さらに嬉しいです。
ここまで読んでくれたあなたに幸あれ。
©2025 道端ノ椿