後輩
モノトーンのオフィスの天井に、沈みゆく太陽から放たれたオレンジ色の光が彩りを与えていた。
定時を過ぎたこの時間、居残っているのは全体の四分の一ほど。残業をしている連中は、誰もが「定時? ナニソレ美味しいの?」と言わんばかりに集中していた。
「今日は行くのか?」
白髪の上司の言葉に、芳野涼香は頷いた。
「はい」
上司とはいえ、はるかに上の存在だ。取締役三名のうちの一人。創業メンバーであり、開発部門の統括者。本来なら芳野のようなペーペーを気に掛けるような存在ではない。
「……無理すんなよ。本当にキツイと感じたらすぐ言え」
それだけ言って、上司は帰っていった。
上司が本当に気に掛けているのは、隣に座る男の方だ。
芳野は隣の席をちらりと見る。
いつもなら、そこには馴染みの男が座っているはずだったが、ここしばらく椅子は冷えたままだ。
入社したときから位置関係はまったく変わっていない。立場も変わっていない。先輩と後輩。
先輩の名は、尾上仁という。
高卒で入った尾上は長年ここで働いており、会社のことを知り尽くしていた。そのせいか、ここ数年は開発部に入った新卒のお守りを仰せつかっていたのだ。人事の評価は上々で、尾上が鍛えた新人は離職率が低いと言われていた。その流れで、開発部では数年ぶりと言われる女性の新入社員である芳野の教育係となったのだ。そして、そのまま直属の上司となった。
「先輩、どこいっちゃったんですか……?」
ぼんやりと尾上のデスクを眺めていた芳野は、かるく溜息をついて席を立つ。
窓から差し込む西日が目に痛かった。ブラインドのスラットを立てようと窓に近づくと、ガラスに映った自らの顔に気づく。
「……隈、はっけん……クマったなぁ、美人がだいなしー」
細い指で自らの下瞼を下げる。
「んべー、ばーかばーか……ほんと、バカだなぁ」
小さな声で、芳野は独り言ちた。
「さっさと押し倒しちゃえばよかったのに……」
誰も見ていないのをいいことに、芳野はガラスに向かって科を作る。
身長は平均よりもかなり高め。均整の取れたスマートな肢体に、それなりのサイズで形の良い胸。整えられた黒い長髪はサラサラ。小顔に大きめの眼鏡がチャームポイントだ。
自分で言うのもなんだが、そこそこ美人だと思っている。
そのおかげか、中学生の頃から何かにつけて男がブンブンと寄ってきた。この顔は誘蛾灯のごとく男を引き寄せてしまうのだ。
そんなモテモテの過去とは裏腹に、芳野は男に対して警戒感を抱いていた。
芳野は母子家庭で育った。
父親の記憶は、少なくとも思い出せる範囲にはない。父親は死んだと言われて大きくなったが、「養育費が振り込まれていない」と電話をしていた母の言葉で、おおよその見当がついてしまった。甲斐性のない男に引っかかってしまったということだ。
それでも母親のことは大好きだったし、多大なる感謝もしていた。ただ、母親の苦労する姿をずっと見続けたせいで、思春期を迎える前から男に何かを期待することはなかった。
男は、ほぼ百パーセント、外見で寄ってくる。それはまあ当然で、最初は見た目だ。自分だってそうだ。しかし、寄ってきた男は全員が勝手に妄想した「私」と違うと言って、勝手に幻滅する。そして、「私」を見ることはなくなり、体だけを見るようになるのだ。
(こっちはお前らにとっくに幻滅しているっつーの)
なので、男と付き合ったことはない。厳密に言うと、付き合い始めはあったが、手を繋ぐ前に破綻を迎えた。
男なんて、ろくなもんじゃない――それが芳野が導き出した結論だった。
しかし、何事にも例外というものは存在するようで、教育係に任命された尾上という男は一味違っていた。
尾上に対する芳野の第一印象は「冴えない男」だった。
ただ、新人教育に対しては真摯であり、OJTの期間に芳野がやらかしたミスは真っ先に上司の元へ向かい、芳野に頭を下げさせることすらしなかった。
芳野は器用なほうではなかったので、ミスをしては叱られたが、尾上は怒ってはいなかった。嫌味の一つすら言わず、ミスをピシャンと指摘して、何が問題だったのか、何をすべきだったのか、これからどうすべきか。それらを淡々と語り、最後にこう言うのだ――「よく頑張ったな。次は期待している」
その期待に応えようと芳野は頑張った。そのかいあって、叱られる回数が二回に一回ぐらいに減った。
尾上の物腰は極めてフラットで、性差を感じさせることがなかった。勝手な妄想を抱かれていないので、幻滅されることもない。仕事ができなさすぎて、幻滅されたことはあったかもしれないが。
いやらしい視線を寄越すこともなく、下心をまったく感じさせない物言い。
口調はぶっきらぼうでそっけない。無口というほどではないが、あまり無駄口を叩くタイプではなかった。とはいえ、お堅いのかと言えばそんなこともなく、ふざけた会話にも普通に乗ってきた。
むしろ、そっけない塩対応は、芳野の好みに合っていた。まさに良い塩梅であった。
尾上の隣は居心地が良かった。
黙々と仕事をこなし、疲れたら下らないお喋りをして、腹が減ったら一緒に飯を食いに行く。
煮詰まったときは、夜中に二人して携帯ゲーム機で遊んだりもした。他の同僚はいなかったので、問題になることもなかった。
入社二年目に入った頃には、「冴えない男」から「頼りになるお兄さん」にジョブチェンジしていた。
芳野の気持ちがそこからさらに変化したのは、母親の死がきっかけだった。
ようやく大学を卒業し、苦労した母親に楽をさせてあげられると思っていた芳野にとっては、「話が違う!」と叫ぶほどの衝撃だった。
死因は、特発性冠動脈解離による急性心筋梗塞。
もっとも、医者からその話を聞いたはずの芳野はまるで覚えておらず、後になって尾上から聞かされたのだ。
半ば軟体動物と化した芳野を引っ張り上げ、背中を押してくれたのは尾上だった。というか、ずっとおんぶされていただけだ。
たった二人だけのお葬式だった。
駆け落ちのように親元から逃げだした母親には、葬式に呼べるような親族はいなかった。芳野は親戚というものに会ったことがなかったのだ。当然、連絡先も分からず、葬式は極めて質素なものになった。
母親が勤め先で倒れたと連絡を受けてから、尾上はずっと芳野の隣にあった。そもそも、芳野の腰が抜けてしまい、物理移動が困難だったからなのだが。
喪主でもあり、忌引き休暇が適用される芳野は有給休暇を使うことはなかったが、ただの上司である尾上は自らの有給を使うしかない。
どうしてそこまで世話を焼いてくれるのかと尾上に訊けば、
「いや、お前、無理だろ? 一人でお母さんの葬式出せるか?」
「…………無理ですね」
それだけだった。
形ばかりのお葬式をやって、荼毘に付された母親を合祀墓に収めた。
それでも、三日はかかったのだ。その間、尾上は何かと世話を焼いてくれては、夜になれば自宅へと帰っていった。
「お母さんが大好きだったんだな」
納骨が終わった翌日、何もする気が起きず、母親の遺影を前にただぼんやりとしていた芳野に尾上がそう言った。
「……はい」
「いい写真だな」
ちょっと昔の写真だが、良い顔で笑っている母親が写っていた。
「これ……私と一緒にネズミーランドに言ったときの写真です」
「そうか、お母さんもお前のことが大好きだったんだな」
「……はい」
「いいなあ……俺にはそんな思い出ないからなぁ。生きるので精一杯だったし……」
尾上の何気ない独り言のような言葉は、芳野にとっては衝撃的なものだった。
この男は、母親の愛情を受けずに育ったのだと瞬時に理解した。そして、いかに自分が母親に愛されていたのかが実感と共に理解できた。
芳野は、母親が死んでから初めて泣いた。
あまりに急であり、心が母親の死を拒絶していたせいで、泣くことができなかったのだ。
男の前で泣いたのも、初めてだった。
尾上は何を言うでもなく、ただじっと泣き止むのを待ってくれた。
「大丈夫、一人でも生きて行けるし、すぐに慣れちゃうからな。平気、平気」
変な慰めをうけた。
そして、尾上に頭を撫でられた。
男に頭を撫でられる――実は、記憶にあるかぎり初めてのことだった。
男に触られたというのに、忌避感はなかった。むしろ、安心感がおとずれて、また泣いてしまった。
その日、尾上は「頼りになるお兄さん」から「素敵な男性」に進化した。
それからの芳野は、尾上との距離をこれでもかと詰めていった。物理的にも精神的にも。
だが、当の尾上はいつものように飄々としており、まったく手応えがなかった。
(こいつは、私を女として見てないのでは……?)
そう思った芳野は、納品完了お疲れ会という名の飲みの席で、果敢に攻め立てた。
さも当たり前のように尾上の隣に座り、シャツの第一ボタンを外し、ちょっと酔ったフリをして、しなだれかかった。顔は真っ赤に染め上がったが、酒のせいではない。飲み会という地の利を生かして、上手く誤魔化せたというべきだろう。
自分から男にアプローチをかける。
芳野にとっては生まれて初めてのことだったが、挑戦の成果はすぐに現れた。
あの尾上が、慌てたように顔を赤らめて目を逸らしたのだ。しかも、しどろもどろになって、何かを言っていた。
不覚にも、カワイイと思ってしまった。
それからはもうグダグダだった。
尾上が狼狽えた瞬間、芳野は「勝った」と思ってしまったのが油断だった。
気が付けば、別部署の同期の女に引きずられるように歩いていた。
迂闊にも、尾上の前で泥酔して記憶を飛ばしてしまったのだ。
尾上は同期の女に声をかけ、芳野を家に送り届けるようタクシー代を握らせた。それも、大一枚。それを受け取ってしまった同期の女は、途中で芳野を放り捨てるわけにもいかず、しぶしぶ酔っ払いを引きずるはめになったのだ。
芳野は家に帰って泣いた。
結果から言うなら、飲みの席での攻勢は大失敗だった。
あの日以降、尾上はいつも以上に芳野との距離を取るようになってしまった。
むしろ、自分がセクハラかましているんじゃないか、と思うほどに腰が引けていた。
(解せぬ……)
ピチピチの美人さんが、明らかに言い寄ってきているのだ。
それを拒否する男など、この世に存在するわけがないと芳野は思っていた。
そして、ある一つの可能性に気づいた。
「あの、もしかして……先輩って、Gですか?」
「へ? 俺が、ゴキブリ野郎ってこと?」
「違います違います、そうじゃなくて、えっと、性別の好みというか、なんというか……」
「ああ、そっちか。ノーマルって言えばいいのか? もちろん、Gではない」
「じゃあ……先輩は、どんな女性が好みなんですか?」
そう問われた尾上は、じっと芳野を見つめた。
頭の先からつま先まで、尾上の視線が巡っていく。
初めて受ける熱い視線に、芳野は頬の温度が上がるのを感じた。
「そうだなあ……背が高くなくて、ふんわり可愛い系の顔で、黒髪じゃなくて、髪が長くなくて、眼鏡かけてない子……かなあ?」
愕然とした。
まるっきり、芳野とは違う。正反対と言ってもよかった。
「私が、嫌い、なんですね……」
「は……? とんでもない。好きか嫌いかで言ったら好きな方だぞ。芳野ほど優秀な部下はいないと思ってるからな」
「ああ、はい……部下、ですね……」
芳野は家に帰って泣いた。
思い切って、コンタクトにして、髪を切って、茶髪にした。ヒールのある靴を放り投げて、底の薄い靴にチェンジした。メイクもカワイイ系の仕上がりにした。
そして、改めて挑戦をしたのだ。
「先輩は、どんな女性が好みなんですか?」
「そうだなあ……眼鏡かけてて、背が高くて、長い黒髪の子かなあ……」
「それ、前の私ぃぃっ!」
「そうだっけ?」
芳野は家に帰って泣いた。
だが、救いはあった。前の自分の姿は、尾上の好みと合致していたのだ。今の姿はただの気まぐれだったのだ。とはいえ、切った髪はすぐには戻らない。特に長い髪型ほど時間がかかる。結局のところ、元の姿に戻り、尾上との関係をリセットするまで一年以上かかってしまった。
ただの空回りで独り相撲を取っていたことに、芳野はついぞ気づくことはなかった。
そして、入社して三年目となり、半年ほど過ぎた頃、芳野は一つの着想を得た。
(追うから逃げるのでは? こっちからそっけなくすれば、追いかけてくるに違いない!)
効果は覿面だった。
芳野がそっけなくすると、尾上はじつに良い顔で仕事をするようになった。まるで肩の荷が下りたかのように溌剌としていたのだ。
当然、芳野を構う時間は激減した。
(もしかして、私、重い女だった……?)
芳野は家に帰って泣いた。
そして、冷静に考え直すことにしたのだ。
自己分析は得意だった。分析結果に基づいて修正できるかどうかは関係ない。できないことは、やらないのだ。
――私は彼が好きなのか?
間違いなく、惚れている。
――顔は?
まあ及第点。自分の好きな傾向の顔だし、うわイケメーンというほどでもないので、軽い女が寄ってくることもないだろう。むしろ、高得点というべき。
――性格は?
実はとても頼りがいがある。優しいし、責任をきっちり取るし、相談にものってくれる。公私をちゃんと分けているし、相手が誰であれ言うべきことを言える強さもある。
――収入は?
高卒故に出世は望めないだろう。だが、しょせんは中企業。真面目な彼なら着実に実績を積み上げて、そこそこの立場になるだろう。それに私の稼ぎも悪くない。共働きを続ければ、不自由ない暮らしができる。たぶん、子供三人ぐらいなら問題なく育てられる。ああ、あの人との間に生まれる子供ってどんな子になるんだろう、男の子がいいなあ。あの人に似てて、頭は私なみによくて……いかんいかん、妄想を捗らせすぎた。
「ていうか、私的にマイナスないじゃん。かなりの優良物件なのでは?」
自ら口に出して言ったことで、芳野は吹っ切れた。
「重い女、上等! はっはー、重力で押しつぶしてくれるわ!」
開き直った芳野は、今後の作戦プランを風呂に浸かりながら練った。
要は、逃げられなくすればいいのだ。
酒の席でそこそこ酔わせ、告白からの酔い潰れ(フリ)からの、先輩の家に押しかけて、そのまま押し倒しプレイで、とどめの妊娠コンボで嵌めてくれる。
「ふうぅははは、これで勝てる!」
芳野はバスルームの鏡の前で、高らかに笑った。
翌日、勝負下着をはいて会社に行った。
ところが、肝心の尾上が会社に来なかったのだ。それも、無断欠勤。三年部下をやっていて初めてのことだった。
携帯に電話をしても、まったく繋がらない。
いてもたってもいられなくなった芳野は、昼休みを利用して自宅におしかけた。
住所などとっくに調べ上げているし、ストリートウォッチャーでマンションの外見も把握しているので、迷うことなどない。
マンションの表札に「尾上」の文字を確認し、ドアノブを捻った。
鍵が開いていた。
そして、玄関の前に血が――。
「……え、血!?」
事件になった。
芳野は家に帰って泣いた。
そうして、尾上が消えて二週間が経ったが、手がかりはまったく出てこなかった。
「スズちゃーん、こっちはもう上がるから、あとよろしくねー」
芳野はその声に、ハッと我に返った。
窓の外はとっくに夜の帳が降りきっていた。
声をかけてきたのは同じフロアの別係の係長だった。腹の出た中年のキモおやじだ。
許可なく名前呼びの上に「ちゃん」付けするなど、万死に値する。
「はーい、お疲れ様でーす」
早くくたばれー、といつも念を送っているが、なかなか効果がでない。
残っているのは仕事ジャンキーのエンジニアが数名だけになった。
誰が最後になるかのチキンレースの始まりだ。
フロアで最後の一人になると面倒なのだ。戸締りとセキュリティチェックと、切るべき電源の確認。
芳野はブラインドのスラットを立て、首を鳴らしながら席に戻る。
仕事はまだ山のようにある。
(そうだ、会社を出る前に、メイクをしなおさないと)
仕事とは関係ないことを心中で呟きながら、芳野は仕事を再開した。
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