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忘却と

本日は、複数話投稿しております。

前話をお読みでない方は、前話もお読みいただきますよう。


 翌朝の亜佳梨の目覚めは健やかなものだった。

 覚醒とほぼ同時に枕元の目覚まし時計を探したが、ありはしなかった。当然だ。いつもの煎餅布団の上ではなかったのだから。毎朝、目覚まし時計を見るたびに心臓が高鳴っていた。寝過ごすと暴力が待っているからだ。


 亜佳梨は、ほっと息をつき全身の力を抜いた。

 スプリングの利いたベッドで寝たことなどなかったが、柔らかな寝心地にこのまま微睡の中に沈んでいきたいという生温い誘惑にかられた。


「起きなきゃ……」


 そう口に出して、伸びをする。

 中央が白く変色した変な形の絆創膏が目に入った。見たことのない物だったが、あの人は付けっぱなしでいいと言っていた。

 手の甲に張られたそれを撫でると、心に知らない温かさが満ちた。


 これほどの施しをうけながらも、亜佳梨には何も返せる物がなかった。

 唯一、差し出せるのは貧相なこの体だが、たぶんあの人はそれを望まないだろう。もしかしたら、怒るかもしれない。同類とみなした者への同情だろうから。立場を入れ換えて考えれば、その気持ちも理解できる。

 なので、朝食を作ることにした。

 勝手に人さまの台所を漁ることにかすかな抵抗があったが、怒りはすまいと思い直す。

 尾上はと見れば、ソファの上で変な姿勢で寝ていた。毛布はソファの下で団子になっている。冬の訪れはまだ遠いとはいえ、朝方は冷えてきた。そっと毛布を拾ってかけなおす。フゴフゴと言って、かけた毛布を引き寄せる様は、なんだか可愛いと思ってしまった。


 台所は綺麗で、きちんと手入れがされていた。道具も食器も使いやすい位置にきっちりと収まっている。

 ただ、冷蔵庫の中はスッカスカだった。卵と牛乳、缶ビールが一本。表面が乾燥した味噌とバター。チューブに入った各種調味料、棚に張り付いた板海苔。

 少しばかり途方に暮れたが、最低限の朝食を作ることはできた。

 それなりに自炊をする人なのだろう。めんつゆや油脂類、香辛料などは一通り揃っていた。鰹節パックと乾燥ワカメを見つけられたのはラッキーだった。

 ご飯はなかったので新たに炊く。たくさんボタンのついた炊飯器だったが「標準」というボタンを押したので問題はないはずだ。


 亜佳梨は朝食を作り終えたら、出ていくつもりだった。

 このままここに居座るという発想はそもそも無かった。見返りを求めない、純粋なる施しにこれ以上すがり続けるのは、尾上に嫌な気持ちを抱かせるかもしれないと思ったからだ。

 甘えるな。図々しい。調子に乗るな。何を差し出せるというのだ――自分の心の昏い部分が呪詛をわめきちらす。

 あの人にだけは嫌われたくなかった。あの人だけが、優しくしてくれたのだから。たとえそれが、きまぐれの同情であったとしても、何もせずに御高説を唱える大人より百倍マシだった。

 このまま家に帰れば、暴力が待っている。辛い日々が続くだろう。

 それでも――ここでもらえた、温かな思い出はずっと心に残るから。だから、これでお終い。もうここに来ることはない。


 悲壮なる覚悟をもって下した亜佳梨の決断は、尾上が発した何気ない言葉で揺らいでしまった。


「居たけりゃ居てもいいし、出てくならそのまま出て行っていいから。取られて困る物なんてないしな。戸締りとか気にしなくていいぞ」


 亜佳梨は半ば反射的に答えてしまった。


「……待ってます」

「じゃ、行ってくる」


 軽くそう言って、尾上はスーツを着て会社に行ってしまった。


 ――居てもいい。


 その言葉は、亜佳梨の心に甘美な響きを持って染み込んでいき、朝食を作りながら固めた決意はいつの間にか霧消してしまった。

 欲が、のそりと鎌首をもたげた。

 このまま、あの人と一緒に暮らせたら。

 母親や義兄に殴られることもなく、知らない男に体をまさぐられることもない。温かい食事とお風呂と布団がある平穏な暮らし。あの人ならどこかに、暴力のない世界に、連れて行ってくれるかもしれないという甘い幻想。

 夢にまで見た「幸せな家庭」というものが手に入るかもしれない。

 辛酸をなめて育った尾上なら、我が子に同じ思いを味合わせることはないだろう。自分だってそうだ。

 それは、とても幸せなことなんじゃないだろうか。


 亜佳梨は男に抱かれたいと初めて感じた。男という生物は、苦痛をもたらす存在でしかなかったのに。

 お前は俺のモノだ、もう逃がさない――そう言われて、めちゃくちゃに抱かれたいと願ってしまう。


(わたしの全部で尽くすから、ずっと守って、グズグズに甘やかして欲しい。自立なんて求めないでほしい……)


 浅ましい妄想を抱いて、あの人のベッドで自分を慰めた。

 弱い人間だと自覚はある。自覚があるからといって強くなれるか……なれるわけがない。だから弱いままなのだ。意気地のない自分に嫌気がさすが、ただの自己嫌悪で終わるだけだ。たった半歩を踏み出す勇気は、ことごとく恐怖に飲み込まれ消えてきた。


「神様、弱さは悪いことなのでしょうか? 踏み出す勇気が持てないことは罪なのでしょうか? 何もしていないのに――何もしていないから罰を受けているのでしょうか?」


 薄暗い寝室で、亜佳梨は誰にも届かない問いを洩らす。

 不意に、尾上が言った言葉が脳裏に蘇った。

 辛いことがあったら口に出してほしい――そう言っていた。


「……打ち明けてみようかな」


 嫌悪感を抱かれるかもしれない。汚らわしいと嫌われるかもしれない。でも、「否定しない」と言ったから、大丈夫なはずだ。

 尾上という男は、きちんと前を向いて歩いているように感じられた。自分のように、俯いてずっと足元を見ているだけの人間には見えなかった。自力で地獄から抜け出した勇気のある人なのだ。半歩を踏み出す勇気をわけてもらいたい。半歩ですらない、つま先でちょっと前に進むだけの勇気を。


「早く帰ってこないかな……」


 帰ってきたら、「お帰りなさい」って言ってあげよう。たぶんだけど、喜ぶはずだ。


 日が西の空に沈んだころ、家の呼び鈴が鳴らされた。

 待ち望んでいた相手が帰ってきたと思って玄関のドアを開けた瞬間、亜佳梨は一気に絶望の淵に突き落とされた。


「おう、なかなかいいのが釣れたんじゃね?」


 義兄の第一声がそれだった。

 その時に至るまで、亜佳梨は致命的なミスを犯していたことに気づいていなかった。彼女のスマホは常に位置情報を母親と義兄に伝えていた、ということを知らなかった。その上で、彼らに泳がされていたのだということも。


 そこから先は、思い返すも地獄だった。

 客のところから逃げたことでこっぴどく叱られ、叩かれた。

 亜佳梨にただ施しをした尾上は、大金を強請(ゆす)られた。良い事をしたのに、酷い目にあったのだ。世の中狂ってる。

 また辛い日常が始まった。

 気が付けば、手の甲の絆創膏全体が白くなっていた。

 もう何日経ったか忘れてしまった。

 あの人のところに逃げたかった。助けてもらいたかった。優しく抱きしめてほしかった。


(でも、わたしが行けば、また同じことになる。苦しめてしまうだけ。わたしは、疫病神なんだ……)


 絆創膏をそっと撫でる。これが剥がれたら、あの人との繋がりもなくなってしまうのだろう。

 それが無性に怖くなった。


 いつものように客を取った夜、亜佳梨は川岸の駐車場に車で連れていかれた。そこで今日の上がりを義兄に回収されるのだ。

 普通の人は、夜なんかに来ない場所。昔から、義兄とその仲間たちはここに屯っては悪さをしていた。

 義兄は猿山のボス猿だ。義兄の取り巻きたちは、世間一般で言う「不良」なのだ。

 煙草を吸ったり、シンナーを吸ったり。良くないことをしていると分かりはするが、彼らがやっていることには何の興味も湧かなかった。彼らは気が向け亜佳梨を買う。義兄に金を払って。ただ、もう飽きられたのだろう、最近は視線すら向けられなくなっていた。

 亜佳梨は手を出されることもなく、窓を開け放った車の中でぼんやりとしていた。

 そして、とんでもない話を聞いてしまった。

 義兄たちが、尾上を殺したというのだ。殺して山に捨てたというのだ。

 目の前が真っ暗になった。


 ――わたしのせいだ。


 わたしなんかに優しくしたせいで、あの人は殺されてしまったのだ。

 体が勝手に動いた。


「警察、警察にいかないと……尾上さんを見つけてもらわないと……」


 義兄や取り巻きが何かを言っていたが、亜佳梨の足は止まらなかった。

 後ろから、がなりながらやってきた義兄に、肩を掴んで振り向かされて殴られた。

 小柄な少女が大の男に手加減なしで殴られ、立っていられるわけはなかった。

 倒れ込んだ先には、単管の鉄柵があって――。



    ○



「全部、忘れたいよね?」


 亜佳梨の頭の中に、少年とも少女ともとれる声が聞こえた。

 灰色の空間。明るくも暗くもなく、上も下もない。ただ灰色に満ちた世界。


「わたしは……えっと……?」

「キミは死んだんだ」


 その言葉は、ストンと亜佳梨の心に落ちた。むしろ「ようやく」というオマケがつくほどに。心のどこかで待ち望んでいたことだ。


「……あの、あなたは?」

「ボクは忘却の神」


 突然、目の前に灰色の髪をした、少年にも少女にも見える小柄な人が現れた。

 着ている服すら灰色で、背景の灰色と混ざり合い、輪郭があやふやだった。


「過去を忘れて、異世界で人生をやり直せるけど、ボクの使徒になるかい?」


 亜佳梨は「なる」と即答した。


 ――異世界転生。


 生前によく読んでいた無料の小説サイトで好きだったジャンルだ。不幸の釜で茹で上げられていた亜佳梨にとっては憧れるシチュエーションだった。


「厳密には、記憶を消すわけではいないんだけどね。記憶は魂に紐づいてるから、輪廻の輪に戻さない限り消すことはできないんだ。だから、ちょっとした呪いを受けてもらう。いろいろと綺麗さっぱり忘れられて、前世の記憶を思い出すこともない。受け入れるかい?」

「はい、受け入れます」

「辛かったことも、嫌なことも……そして、嬉しかったことも、全部思い出せないんだけど、いいかな?」


 亜佳梨の人生に、幸せという文字はなかった。自分を突き動かしたのは、恐怖。まさに、背中を槍でつつかれ続ける人生だった。

 過去に未練などない。なかった――はずだった。

 人生の最後に咲いた徒花のような温かな思い出が、胸の奥から滲み出た。

 あの人の優しさも、あの人に施された温情も、あの人の匂いも、「ありがとう」の一言すら言わずに忘れてしまう。それは、とても薄情で傲慢なことではないだろうか。

 胸がキュウと締め付けられたが、亜佳梨の負った傷はたった一つの温もりだけで癒せるほど浅くはなかった。


「……………………かまいません」

「忘却は救いなんだ。でも、すべてを忘れても、魂で感じられるはずだよ。ボクはちょっとだけ、お節介をするつもりさ」


 そう言って、忘却の神は笑ったような顔をした。

 そして、亜佳梨は「転生」を選んだ。

 すべてを忘れてしまうのなら、まっさらな状態で新たな人生を謳歌したいと願ったからだ。


お読みいただき、ありがとうございます。

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