オレンジ色の怪しげな奴
クソ暑い夏が終わって、秋かなーと思い始めたら急に寒くなりやがった。
そんな日の夜だった。
古びた自動販売機の横で、俺は一人の少女と出会った。
今思えば、それがすべての始まりだったのだと思う。
○
終電を逃した。
月に数回はあることだし、タクシーを使うほどの距離でもないので、いつものように歩いて帰る。
クソ暑い日や雨が降っていたらその限りではない。というか、そういう日は終電より前に帰る。
街灯の少ない住宅街の路地をのんびりと歩く。
俺はこの時間の空気が好きだ。電車が打ち鳴らす鉄橋の騒音もなく、新聞配達の勤労少年がブイブイいわす前の本当に静かな深夜。
俺はいつものように、馴染みの自動販売機に寄り道する。
終電を逃して歩いて帰る俺のルーチンだ。
くすんだオレンジ色に塗られた怪しげなヤツだ。売ってる飲料も、聞いたことのないメーカーのものばかり。ただ、百円玉一枚で買えるので、そこが気に入っている。
ありがたいことに、ホットの飲料が入っていた。
小銭をポッケから取り出そうとして、自動販売機の横に見慣れないモノがあることに気づいた。
紺色のセーラー服を着た小柄な女の子だ。
一瞬、中学生かとも思ったが、着ている制服はこのあたりの県立高校のものだった。
今どきめずらしい可愛げのまったくない昭和なデザインの地味なものだったので、逆によく覚えている。
まことに失礼な話ではあるが、自動販売機の横に座り込んで一ミリも動かない沈んだ表情の女の子に、むしろよく似合っていた。
深夜の自動販売機に背中を預け、力なく座り込む女子高生。上着もはおらず、鞄すら持っていない。
いやもう、字面だけでワケアリ感が半端ない。
俺は女子高生に「これは石ころだ帽子」を被せる。
精神をもたせるために編み出した技術の一つだ。モノであれヒトであれ、無関心をつらぬくと決めた対象に強制的に装備させる。もちろん俺の心の中でだ。
無理やり視線を外そうとして、できなかった。心の中で帽子がころりと落ちた。
自動販売機の光で、あまり目にしたくないものが見えてしまった。
首筋から見える病的に白い素肌が。やせ細った体に濃く影を落とす鎖骨が。鎖骨のあたりから広がる黄色い染みが。
あの黄色はよく知っている。痛みと共にあった俺の人生を彩った忌まわしき色。内出血が引いてくるとああなるのだ。
見慣れた色だ。
――こいつは俺だ。
女子高生が、ハイライトのない目で俺を見上げてきた。
生気のない瞳を俺に向けたまま、特に動くこともない。
目を開いてはいるが、何も視ていない。心底、すべてがどうでもよくなっている者の目。
見慣れた目だ。
――こいつはかつての俺だ。
俺は半ば無意識に、女子高生が体を預ける自動販売機でホットのコーヒーを買った。
中身の入った缶が落下する振動を受けても、彼女は微動だにしない。
「今日は寒いぞ?」
彼女は何も言わない。
俺は熱々の缶コーヒーを取り出しつつ、
「熱いコーヒーと、あったかコーンポタージュ、どっちがいい?」
どうでもいいことだが、スープとポタージュに意味の違いはない。英語かフランス語の違いでしかない。日本独自仕様で違いがあるらしいが後付けだ、と会社のおばちゃんが言ってた。
彼女の目を見て問うと、かすかに反応があった。
俺はあったかコーンポタージュを買った。
○
女子高生を拾った。
下心が無かったと言えば、嘘になる。
ただ、絶望しきった眼をした子を哀れに思った。少しぐらい何かをしてやりたいと思ったのだ。
愛というものを知らないままでも、俺は今まで生きてこられた。それは、心が完全に壊れなかったからだ。
俺を前に歩ませたのは怒りだ。親に殴られるだけの存在でいたくはなかった。必死で抗った。そのおかげでというか、運が良かったというか、様々な人との出会いが、俺をこの世界に繋ぎとめてくれたのだ。
ガキのころは世界を呪ったものだ。
なんで自分を誰も助けてくれないのか。なんであのクソ親を成敗してくれないのか、と。
いかに甘ったれていたことか。人間を二十九年もやっていれば、嫌でも気づかされる。
遠くに住んでいた叔母さん。俺を気にかけてくれた先生たち。バイト先の店長とか、今の職場の上司もそうだ。それぞれの立場で、可能な限り助けてくれていたのだと、この歳になってようやく理解した。
だからこれは、俺なりの恩返しのようなものだ。言ってしまえば、ただのエゴだ。
それでも、この子が歳をとって過去を振り返ったときに、思い出の一コマになってくれたらいいなとは思う。
我ながらクサいなあ。まあいい。
女子高生は何も言わなかったし、俺は何も訊かなかった。
半ば覚悟を決めているであろう彼女に、気休め的なことを言ってやった。
「俺もガキのころは体中が紫とか黄色とか、とにかくカラフルでさ。今日は風呂入って、飯食って何も考えずに寝ろ」
俺の言葉に何か思うところがあったのか、女子高生は軽く目を見張り、胸元に当てた手でくしゃりとセーラー服を掴んだ。
で、気づいた。彼女の手の甲に赤い筋が走っていたのだ。
「ちょっと、手を見せてみろ」
返事を待たずに、女子高生の手を握る。
突然のことで彼女は身を縮こませたが、構わず手の甲を調べる。
もしこれが刃物の傷とかであったら、さすがに児童相談所に電話だ。たとえ十八歳でも、高校生なら児相がそれなりに対応してくれる。原則十八歳未満で、お役所仕事ではあるが、彼らとて鬼ではない。問題は、本人の意思なのだ。往々にして、子供の方から家から脱したいと相談することは少ない。「おかしい」と気づいていないか、家庭が壊れることを恐れているからだ。
幸いにして、手の傷は掠り傷だった。表皮ににじんだ血が伸びているだけだったのだ。
それでも放置しておくのは忍びない。
俺は女子高生の手を握ったままシンクで傷を水洗いして、洗濯したばかりのタオルで拭く。
薬箱を引っ張り出して、
「……ちょうどいいのがないな。これでいいか」
普段使いの絆創膏が品切れだった。仕方なく、指先用の変な形の絆創膏を手の甲に張り付ける。白いゲルっぽいのがついたちょっとお高い奴だが、つけっぱなしで長持ちするので、好んで使っている。
「よしっと。このまま風呂に入っても大丈夫だから。全体が白くなるまで付けっぱなしでいいからな」
ボーっとしている女子高生に、運よくまだ使っていなかったバスタオルがあったので、それを放ってやった。
顔をくしゃくしゃにした彼女を風呂場に押し込んだ俺は、軽く飯を作ることにした。
やせ細っているので、まともに飯を食っていないはずだ。
「……オムライスでも作るか」
男子好みのヘビーな味付けではない、優しいマイルドな味を目指す。
シンク下からフッ素コーティングされた平底の手鍋を取り出す。フライパンよりも使い勝手が良いので、一人分を作るならいつもこいつだ。焼いてよし、炒めてよし、煮てよしの便利な奴だ。なにより、鍋の側壁が高いので油や具材が場外ファールをしにくいというのが良い。フライパンで炒め物をすると、コンロ周りの汚れがどうしてもね……。
というワケで、手鍋に少々のオリーブオイルでバターを溶かし、チューブのニンニクおろしをニュルっと入れて焦げないように軽く火を通す。どうしても油が跳ねるので、菜箸は長めのほうがいいな。そこへ冷蔵庫から出した冷や飯をドバっと放り込み、油とからめながらコンソメ顆粒を全体にさらさらっと振る。その後、酸味を感じるぐらいのケチャップをかけ、ある程度火が通ったら皿に出す。空いた鍋に溶いた卵に牛乳と水を少々、スクランブルエッグにならない程度に混ぜつつ塩コショウを振っていく。卵はけちらないほうがいい。ご飯が卵で隠れないとガッカリ感が漂うし、三個ぐらいぶちこんでも余裕で食える。良い感じにまとまりつつも半熟をキープしているぐらいで火を止め、皿に出しておいた飯の上にポン。味が足らないかもしれないので、ケチャップを皿の横にドン。
やっつけオムライスの完成だ。具などない。
鍋一つ、お皿一枚、数分で作れる。腹も膨れるので休日の昼などはこいつで済ますことも多い。
ネギがあればチャーハンにしたんだけどな。
風呂からあがった女子高生に食わせてみたが、無言でがっついていたので不味くはないと思う。一番の調味料は空腹だとは思うが。
その後は特に語らうこともなく就寝。
もちろん紳士な俺は、ベッドを彼女に譲って自分はリビングのソファだ。独り身には贅沢な1LDKの間取りがここに来て役に立った。
その日は、なんだかいい気分になってぐっすり眠れた。
我ながら、単純でいい気なものだなとは思う。
○
今のマンションに暮らし始めて、かいだことのない匂いで目が覚めた。
どこか郷愁を誘う香りと、微睡に誘う心地良いノイズ。
再び夢の世界に旅立ちそうになったが、昨晩のことを思い出して一瞬で覚醒した。
そういえば、女子高生を拾ったんだった。
かぐわしきを辿ってキッチンを覗くと、有り得ないことが起こっていた。
味噌汁と卵焼きである。
「わお……」
思わず声が漏れた。
そりゃ、かいだことのない匂いがするわけですよ。どっちもここに住んでから作った覚えがないもの。
というか、生まれて初めてだったりする。朝起きて、朝食があるとか。
俺が感動に打ち震えていると、女子高生がビクリと背を震わせて振り向いた。
「……!」
「やあ、おはよう。ちゃんと眠れたか?」
細かいことは言わないし、訊かない。
女子高生は、儚げな笑みを浮かべて頷いた。
「そりゃよかった。朝飯作ってくれたんだな、ありがとう」
真正面から礼を言うと、女子高生は泣きそうな顔をして背を向けてしまった。
うん、シャイな子なんだな。たぶん。
しかし、特売の卵を買っておいてよかった。味噌もキュウリにつけて食うぐらいで、半年ほど冷蔵庫のデッドウェイトと化していたが腐るもんでもないのでヨシ。出汁は……鰹節パックから取ったのか。俺ですら存在を忘れていた乾燥ワカメを見つけているのは純粋にすごい。
女子高生は丸いフライパンで卵焼きを手際よく焼いていた。両端を折って春巻きのように巻いていく。
出汁といい、菜箸の使いっぷりといい、意外と基礎ができている子だな。
俺は料理をする女子高生の後ろ姿に見入っていた。
小柄で細いから、中学生に見えてしまう。といっても、栄養状態が良くないだろうから、あれで十八歳とかありえそうだ。
無性に泣けてきたので、腹いっぱい食わせてやろうと思った。
だが、器に盛りつけられた料理は、俺の分だけだった。
「あれ? 君は食わないの?」
俺がそう言うと女子高生は困ったような顔をした。
で、気づいた。
「ああ、器がないよな。ごめんごめん、ぼんやりしてたわ」
女子高生は俺が急に立ったことに驚いたのか、半歩下がる。
どこか遠慮した様子でオタオタしているが、俺は気づかないフリをした。
たぶんだけど、作るだけ作って出ていくつもりだったんだろう。予想外に俺が早起きしてしまったのだ。だってまだ朝の六時だもん。いつもなら夢の中だ。
俺は普段使わない器を戸棚から引っ張り出して彼女の前に並べる。
「一緒に食おう」
そう言うと、女子高生ははにかみながら頷いた。
作ってくれた人と、向かい合って食事をとる。
生まれて初めての経験だった。
「美味い!」
思わず朝からビールを飲みそうになったが、ぐっと我慢だ。
普段は決してしない早起きをしたおかげか、時間にはまだ余裕がある。だからだろう、俺は柄にもないことを口走ってしまった。
「他人の痛みや苦しみに共感はできても、どれぐらい痛いか辛いかなんて感じることは不可能なんだ。だから俺は、痛みや苦しみを訴える人を否定しない」
「……??」
突然、長々と喋り始めた俺に、女子高生はキョトンとした顔を向けてくる。
そりゃそうだよなあ……。
「えっと……何が言いたいかというとだな……辛いことがあったら口に出してほしい。少しはマシになるはずだから」
「………………」
俺がそう言うと、女子高生は泣いているような笑っているような、そんな顔をしただけで口を開くことはなかった。
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